![]() ●新歸朝者日記 一月三十日 「・・・日本人の女の顔ばかりは到底表情深く描くことが出來ない。もし表情のない寫生其まゝを見せれば寫生としてだけの價値は保たれやうけれど、例へばか のモナ・リザの畫像に對する時の如き~祕高雅の氣に打たれる事は全く不可能である。」 ★私は不幸にしてモナ・リザを見ても、格別~祕とも高雅とも感じなかつた。ただもの靜かな中年婦人としか思はなかつた。西洋人はそこにマリアの面影を見る のかも知れぬが、聖母もキリストも天から信じぬ私にはとんと縁がない。永井荷風には~祕に見えたのだらうか。彼は~祕とか高雅とかいふ言葉で何を意味して ゐるのか。 ●新歸朝者日記 十二月十四日夜 「人間としても國民としても、目前の利害を離れてものにあこがれると云ふ事が無くてはならぬと思ふ。然し日本人はさう云ふ架空な事をば、月の影を掴まうと して水に落ちた猿に譬へてゐるではないか。僕は日本人の根本思想に慊たらないのだ。洋行した日本人は工業でも政治でも何に限らず、唯だ其の外形の方法ばか りを應用すれば、それで立派な文明は出來るものだと思つてゐる。形ばかり持つて來ても内容がなければ何になるものか。・・・僕は日本人が文明の内容に省み ない以上は、どんな美しい外形を粧つても何の役にも立たないと思ふ。 『革新されないか知ら、君のやうな人物が叫んだら。』と流水はお義理らしく答へた。 『然し僕は政治家でないから。』と自分は其れとなく適任者でないことを暗示して云紛らしたが内心では一種の痛苦を感じた。なぜと云つて自分は直接日本を改 革しやうと云ふ目的を以て論じたのでもなければ又自ら立つて改革しやうと云ふ程の勇氣もない。唯だ今日まで、少年時代を頑固な漢學塾で苦しめられ年時代 を學校の規則で束縛された憤慨のあまり、漫然として東洋の思想習慣の凡てに反抗してゐるばかりである。此の反抗が殆ど何等の理由なく外國の生活を理想的に 美しく見せると同時に、丁度過渡期の亂雜な日本の状態を堪へられぬ程醜惡不潔に感じさせ、其の結果は寧ろ此の儘祖國の生活の改善されぬ方がよいとまで呪は せる事がある。嗚呼、自分はどうして昔の奴隸の如く從順に盲目的に生きる事が出來ないのであらう。反感を抱くだけの力のないほど幸福な事はな い・・・・・・」 ★日本人はただ植民地になりたくないから殖産興業のために西洋文明を眞似したばかりである。工業でも政治でも先ずは眞似して役立てようとしただけである。 政治まで眞似する必要があつたのかは疑問であるが。 さうなつたのはつまり、當初の大義を見失つて、荷風のいふやうに、全くの猿眞似に陷ってゐたといふことなのであらう。だから餘計に「目前の利害を離れて ものにあこがれる」餘裕を失つてゐたのであらう。 ![]() ●新歸朝者日記 一月二十日 「『近代の社会状態と都市の美麗と云ふ事とは、どうしても一致しにくい處がある。然し僕の見た處西洋の社会と云ふ者は何處から何處まで盡く近代的ではな い。近代的がどんな事をしても冒すことの出來ない部分が如何なるものにもチヤンと殘つて居る。つまり西洋と云ふ處は非常に昔臭い國だ。歴史臭い國だ。巴里 は新しく地下鐵道や空中飛行船を作つたばかりでない。Sacre Coeur のやうな大寺院をも造り上げやうとして居る。一方で製造所を作れば同時に一方では千載に殘すべき實利以外の遠大な事業を企てゝ居る。紐育の市中でも竣工無 期限と云ふ寺院(カテドラル)の足場がコロンビヤ大學の傍に立つて居る位だ。金がないと云ふことを日本人は唯一の辯解にするけれども、よし金があつたにし た處で、日本人には、到底(とても)馬鹿々々しくつて、そんな實利以外の考へは起りはしまい。』」 ★フランス人はSacre Coeur が必要だと思ふから造つてゐるだけである。西歐人にとつては~の國を造ることが目的なので、いはば實利を狙つてゐるのである。地下鐵を造るのもそのために 必要であり許されるのである。 なぜ~の國を地上に造るのか。~の榮光を増すためと云ふ。しかし、絶對~の榮光が地上の物質で増すとはをかしくないか。人の云ふことをすべて額面通りに 受けとつてゐては、學者もなにも要らぬ。私に言はせれば、自分が救はれるためである。~を祭り上げることで自分達が御利益に与れるといふ下心なくして誰が そんなものを造るか。 といつても、惡いと言つてゐるのではない。立派な建物も出來たのだし。人の心の平安のためには救ひの約束が必要だつたのである。ヨーロツパのやうに民族 も國家も永續の保證のないところでは絶對~による保證しか恃みに出來ない。 ただ、寺院を頼りにしてゐた時代はむしろよかつた。個人が直接~に確約を貰はうとしたところから近代の顛落が始つた。 ![]() ●ふらんす物語 雲 二 「日本の戀は全く自然の儘だ。技巧や空想で消え衰へたものを興し、興つたものを更に強烈ならしめる方法を案じ出さぬ。二千年以來、米から取る一種類の酒だ けで滿足し、其の他のアルコオル類を發見せずに居た歴史を見ても、日本人の如何に單純な自然の人であるかを想像することができる。」 ★發見といふのはなかなか難しい。西洋人は殆ど發見はして居らず、大抵はアジアやアラビアからの輸入である。極東の日本にはなかなか傳はつてこなかつたと いふだけの違ひである。 少し話はずれるが、日本人は自分達は人工より自然を好むと思つてゐる。しかし、日本人の好む自然といふのは本當の自然ではなく、あくまで、人の手の入つ た自然である。自然の素材を活かしてはゐるかも知れぬが。庭にしてもあくまで庭師の設計し手入れしたものである。 また、西歐人は、日本人と違つて、生の自然を好まず飼慣らした自然しか愛でないと日本人は感じてゐる。確かに、西歐の庭園は幾何學的な配置とか木の刈込 み方とか、日本庭園よりもずつと人工的な感じを、少くとも日本人には抱かせる。しかし、西歐人は幾何學的な配置を見てこれぞ本當の自然と思つてゐるのかも 知れない。いづれにせよ、人の手の入つた自然を好むといふ點、日本人とどれほどの徑庭があるのであらうか。 これは然しごく當たり前のことであり、日本人であれ西歐人であれ、生の自然は手には負へず、口に合ふやうに料理されたものしか扱へない。又、人の手がい くら入らうが自然は自然であり、本當に人工といふものはあり得ない。創造は~にしか出來ないので、人工の極致と思はれるものでも、造つたのは自然であり、 人間はちよつと表面をいぢつたに過ぎぬ。そのいぢるのも、自然の法則を利用してゐるだけであり、本當に改變してゐるのは自然である。 (H15.8.15 日) |