テキスト:ルカによる福音書 1章47〜55節アドベントは「待降節」と呼ばれますけれど、もともとのラテン語”adventum”は、「到着」とか「現れる」という意味で、 「待つ」という意味はありません。多分、長年の慣習により、クリスマスの到来を待つというように解釈され、この期間を過ごすようになったのでしょう。さて、ルカによる福音書によれば、マリヤは親戚のエリサベトに会いに行きました。ナザレからユダの町までの旅は 1週間ほどかかったと思います。 若いとはいえ妊娠初期のつわりの酷いときに旅行することは大変だったでしょう。 なぜそのような時に無理をして、しかも大急ぎで移動したかについては、聖書は何も説明していません。 僕はこの「ユダの山地の町」は「逃れの町」、すなわち無実の人が自分の身の証しを立てるため一時的に身を寄せる、 「駆け込み寺」のような町ではなかったかと思います。何の罪でしょう。多分未婚の身で妊娠してしまったことに拠るのではないかと思います。 ヘロデ大王の時代にはシェケムとヘブロンの町が、この「逃れの町」に指定されていました。 シェケムはガリラヤとユダの間、つまりサマリヤにありましたから、ユダヤ人のマリヤとしてはヘブロンを選んだと思います。 ヘブロンはエルサレムの南南西30kmくらいに在る町で、ベツレヘムからだと南南西に20kmちょっと。 死海西側の山地にあります。 大雑把に言えば、ナザレを金沢とするとエルサレムが岐阜くらい、そしてヘブロンが名古屋くらいの距離です。 しかもサマリヤを迂回していつたとすると、金沢から小松・福井、関ヶ原、岐阜まわりで行く感じになります。 皆さんもしも自分が今から歩いていかなければならないことを想像されたら、いかに大変であったかお分かりいただけるのではないかと思います。 さて、マリヤはザカリヤの家に到着し、エリサベツに挨拶しました。多分それは「シャーローム」という、短い言葉だったことでしょう。 すると不思議なことに、エリサベツの胎内の子が踊り、エリサベツは聖霊に満たされた、と書いてあります。 胎内の子が踊る、というのはちょこっとではなくて、激しく動いたということでしょう。多分妊娠5ヶ月以上のことだったと思います。 そして「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」と声だかにマリヤを祝福しました。 この「胎内のお子さま」は、口語訳と新共同訳聖書では「胎の実」と訳されていました。 ギリシャ語のkarposを(岩隈先生の)辞書でひいてみたら「果実」を指し、子を表すのはヘブライ的表現であると書いてありました。 それでヘブライ語の新約を見てみたら「peri」という単語が使われていました。これは創世記で「地の産物は」などに使われていて、 ふつうは果実などを表していて、「子」の意味で使われているのは詩132:11とミカ書6:7の2箇所しかないことが分かりました。 詩132:11 主はダビデに誓われました。それはまこと。 思い返されることはありません。「あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。 ミカ6:7 主は喜ばれるだろうか幾千の雄羊、幾万の油の流れを。 わが咎を償うために長子を自分の罪のために胎の実をささげるべきか。 念のため、70人訳のギリシャ語旧約聖書もインターネットで調べてみましたが、いずれもkarponで、karposの別格でした。 つまり何気ないような「胎の実」と言う言葉が、救い主であり、十字架で捧げられた神の子イエス・キリストを表しているということ、43節の「主の母上」がこの言葉を受けていることが、この説教を準備していて分かりました。 前説が長くなってしまいました。今日の本題は「マリヤの賛歌」ですね。これは古代の讃美歌といえるもので、 私たちが今使っている讃美歌にも受け継がれているものです。 48節に「身分の低い、この主のはしためにも」と書いてありますが、この「も」は余分です。 「身分の低い、主のはしために」が原意です。身分の高い者をさしおいて私に、という意味です。 48節の「幸いな者」の「幸い」は、makariousinという語で、語幹のmakarは、 神々における不安・労働・死のない至福の状態を指す言葉です。つまり、普通の幸せではなくて、 無茶苦茶に幸せ、これ以上ない幸福という意味になります。 ということで、いかにマリヤが悦びに満ちた状態でこの賛歌を口にしたかということが分かります。 ところで、49節の後半以降は、詩編からの引用、またはアレンジしたような内容になっていて、 個人マリヤの悦びというよりは、民全体に与えられた喜びという内容になっています。 詩103::17 主の慈しみは世々とこしえに主を畏れる人の上にあり 恵みの御業は子らの子らに 詩98:1主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた。 詩106:1主をほめたたえよ。主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。 詩107::9 主は渇いた魂を飽かせ 飢えた魂を良いもので満たしてくださった。 それは降誕という出来事が、マリヤだけでなく、全ての民、とりわけ貧しく、 社会的地位も低い人にとっての喜び、またよい知らせであるということを物語っています。 また、マリヤが常日頃から詩編に親しみ、暗記するほどに詩編を心に刻みつけていたということも示しています。 特に逃れの町に行かざるを得なかったせっぱ詰まった困難な状況の中で、このことが起こったということに驚くばかりです。 救い主の到来を信じ、待ちわびていた者にしか分からない大いなる喜び、知らせ。それがアドベントではないでしょうか。 |