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マタイ、マルコ、ルカという3つの福音書は「共観福音書」と呼ばれ、ほぼ同じ観点からイエス・キリストの公生涯
を記述していると言われます。また、マタイとルカは、マルコを核にして、それぞれ独自の資料を追加して編集され
たとされています。ただし、記事の順序は必ずしもマルコと同一ではありません。それぞれの福音書記者の宣教観
の違いから、そのようになったのでしょう。 教会学校で、子供達に3つの福音書の違いを説明するのに、イエス・キリストの最初と最後の言葉を探させて、 比較してもらうことにしています。「そんなイージーな方法で!?」と思われるかもしれませんが、案外当たっているのです。・・・まずは、ご覧下さい。 ● 始め (テーマ) 講演会で弁士が「これから、こういう事について語ります」という、主題の呈示に相当するのが「始め」です。 |
| マタイ (4章15〜17節) | マルコ (1章15節) | ルカ (4章18〜21 節) |
| 「悔い改めよ、天国は近づいた」。 | 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」 | 「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」 |
極論ですが、イスラエル民族にとって、トーラー(旧約聖書・律法の書)は次の1点に総括出来ると思います。 1.神様がイスラエルの民にカナンの地を与えると約束された そして、これが「契約(約束、旧約)」の核で、次の3つが付随しています。 2.神様は創造主にして唯一の神である 3.神様がイスラエルの民を選民とされた 4.神様がエジプトの国から助け出された いろいろな物語は、そこまで至る伏線(経緯)として置かれています。 ヨシュア記でこの契約は実現(履行)されます。イスラエルの部族連合は次々と土地を取得します。 その後最大の脅威ペリシテを破り、王国となりますが、BC587年、エルサレムが陥落し、約400年続いた王国は 滅亡します。 バビロン捕囚となった人々は「なぜ神の国が滅びたか。」ということを考えました。そして、「”1”や”3”だけ、良い とこどりして、ユダヤ民族は神をないがしろにしていたから、そうなった」という結論になりました。 申命記(10章12〜13節) イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。 旧約聖書の歴史書はこの反省の視点によって書かれました。預言者達はメシヤ、救世主が神から遣わされ、神の国を復興させる、という信仰と希望とに至りました。 3つの福音書は、表現は異なりますが、この神の国(天国)の到来を告げるファンファーレのようなものです。 ■ イエスの言葉に先立って引用されているイザヤ書 ● マタイ4章15〜16節(イザヤ書9章1〜2節) 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。 (イザヤ書9章1〜7節) しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、 後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。 (中略) ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあ り、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平 と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。 マタイで引用されていないところに救い主の到来を預言しているところがあります。 マタイが「メシヤ」を強く意識していたのが分かりますね。 ● ルカ4章18〜19節(イザヤ書61章1〜2節) 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからで ある。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者 に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」 ルカが「成就した成句」としてあげているのは、イザヤ書56章から続く、「第3イザヤ」の記事のハイライトで、1節から3節はイザヤ自身の召命の部分で す。「聖別」は新共同約聖書には「油を注いで」となっています。 3つの福音書の提示部は、このように旧約聖書で預言された「神の国」がイエス・キリストという救い主(メシア)の登場によって到来したということを告げています。 マタイがガリラヤに救い主が現れることを強調しているのに対し、ルカが「貧しい者、打ちひしがれている者に対する恵み」を強調していることが分かります。 それは、「神の国(あるいは、天の国)」の到来が、誰にとって一番喜ばしい事であったかという視点の相違とも言えるでしょう。 |
● 終わり (結語) 最後のしめくくりの言葉。総括に相当する、大切な言葉です。 |
| マタイ (28章18〜20節) | マルコ (16章15〜18節) | 使徒言行録 (1章7〜8 節) |
| 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを 施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたが たと共にいるのである」。 | 「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」 | 「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の はてまで、わたしの証人となるであろう」 |
マタイは「すべての国民を弟子として、命じておいたいっさいのことを守るように」が主題です。イエス・キリ ストの教え(いましめ)を伝える意図があります。旧約で神がモーセを通して命じられたように、 神はイエス・キリストを通して再び命じられたという思いがあるように感じます。 マルコは「すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」でを全世界に述べるよう命じています。”福音”はこの場合 イエス・キリストの公生涯全体であって、言葉も行動も、そして生きざま全体を指します。 ルカ(使徒言行録)は「地のはてまで、わたしの証人となるであろう」で、「復活」こそ福音の中核となる出来事であり、 それを証しすることが最重要なこととルカが考えていたことが分かります。 3つの福音書の結語をこのように比較してみると、「福音を宣教する」という点については共通していますが、それぞれに個性があることが分かります。 参考文献:新聖書大辞典(1971/03/01 キリスト新聞社) 聖書引用:聖 書(口語訳)(日本聖書協会 1954,1955) この古典的なスキルをご存知の方も多いと思います。 福音書を勉強する上で一度は通る場所として、取り上げ させていただきました。「使徒言行録を結語に持ってくるなんて、ルール違反だ」と言われそうですが、他の福音書 と対比する場合は、こちらの方が適切だと思います。 こんなに単純な作業でも、聖書の核心に迫りうるということを知っていただけたら幸いです。第四福音書(ヨハネ) は取り上げませんでしたが、興味のある方はご覧下さい。強烈です。 |