テキスト:ルカによる福音書 2章22〜35節昨日から一昨日にかけて皆様それぞれのクリスマスを祝われ過ごされたたことと存じます。今年だけでなく、 サンタクロースのプレゼントに期待しながらワクワクしていた幼年時代から今日まで、 いろいろ思い出に彩られたクリスマスを経験されてきたことと思います。さて、今日のテーマはシメオンという人の話です。ギリシャ語ではスュメオーンと言い、 シモン・ペテロなどの「シモン」と同じです。ヘブライ語のシムオーンから来ていますが、 それは「聞き届けられた」という意味で、「神様が聞かれたもうた]]]]」というようなことをあらわしています。 この人は、サンタさんならぬ、救い主を待ち望んでいました。主が使わす聖書に年齢は書いてありませんが、 おじいさん、それもかなり高齢の人であったとされているようです。それは「主が遣わすキリストに会うまでは決して死なない、 とのお告げを聖霊から受けていた。」と書いてあるからでしょう。聖書物語など、子供向けの話では、 この人は毎日神殿にやってきたように書かれていますが、聖書には「“霊”に導かれて」と書いてあります。 ある種の衝動にかられて、と、この世的には解釈できるでしょう。あるいは「今日こそは」とか、 「今度こそは」と、何度も何度も期待外れさせられながら、それでも心が燃えると神殿に出かけていたのでしょう。 さて、そこへヨセフとマリヤがやってきました。レビ記12章の「出産の規定」によると、 母親が男子を産んだ場合は33日間、女子を産んだときは66日間汚れていて、聖所に入れないという決まりがあります。 男の子でしたから降誕後33日目以降ということになりますから、クリスマスを基点にすると1月の終わりから2月の初めにかけての出来事になります。 レビ記の規定によれば、産婦は焼き尽くす捧げものとして1才の子羊1頭と、 贖罪の捧げものとして家鳩または山鳩1羽を祭司に渡さなければならないと書いてあります。 更に「産婦が貧しくて手が届かない場合は家鳩か山鳩1つがいを捧げものにする」と指示しています。 ルカ福音書の記事から、マリヤたちが捧げたのは鳩であったと思います。貧しかったのでしょう。 シメオンが神殿にはいると、マリヤたちが入ってきました。そこでシメオンは幼子イエスを腕に抱き、 祝福しました。原文のギリシャ語聖書では、ここ一連の動作が強調して書かれています。 (強調するための、代名詞の挿入)「彼シメオンが抱いたのだ」「彼イエスをキリストとして抱いたのだ」 「顔と顔を合わせ、面と向かって子供を見たのだ」という、動作の主体が強調されています。 その時がついにやってきた、やっと啓示が実現されたという深い感激と感慨でもつてシメオンが行動していたさまが彷彿とさせられます。 皆さんも、ちょっと両手でもって赤ちゃんを抱くしぐさをしていただけませんか。 その重さ、暖かさ、はかなさ、ほんの目の前20センチにあるそのつぶらな瞳。 ちっちゃな口もとからはお乳の臭いがぷんぷんと漂ってきます。その時の情景を想像していただきたいのです。 シメオンの胸一杯にあふれる程の感動が爆発するように沸いてきています。全身を疾風が吹き抜けるような感じ、 総毛立つほどの衝撃を受けています。「キリストだ。確かにキリストだ。」 頭の中を声にならない確信がよぎります。まるで時間が凍り付いたように、息を詰め心と体、 五感全部と精神力の全部を使って、その事実を確信をもって受けとめています。 やがて、シメオンは神を誉め讃える詩を口にします。 Now go+away this servant you(make me), LORD, through the word yours with peace ヌーン アポルーエイス トン ドゥーロン スー、デスポタ カタ トー レーマ スー エン エイレーネー 今、貴方はしもべの私を去らせられる、主よ、お言葉の通り平安に。 Because look the eyes (of) mine this salvation (of) yours ホティ エイドン ホイ オフサレーオイ ムー ト ソーテーリオン スー それは、この私の目が確かに見たから。あなたのみ救いを。 This prepaired for face all the peoples. ホ ヘートイマサス カタ プロソーポン パンテーン トーン ラオーン それは全ての民のため用意してくださったもの。 Light for revelation foreigners、 and glory people (of) your Israel フォース エイス アポカループシーン エスノーン カイ ドクサン ラウー スー イスラエール 光、それは異邦人を照らす啓示、また。あなたの民イスラエルの栄光です。 「光」はギリシャ語でフォースと言います。ちょうど「スターウォーズ」で、「ジェダイの騎士」がフォースの力、 この宇宙に満ちている気力とかもいう意味で「フォース」という言葉を使っていましたね。 シメオンの言った「光」も、ちょうど太陽の光が地面や建物や青空に拡散し、光りが回って満ち満ちている状態、 全てが明るみに出され、存在のリアリティーが人々の目に明らかにされている有様を指していると思います。 シメオンの目の前に、主の救いそのものが形を持って表されています。長年に渡り、 おそらく彼が生涯の大部分を費やし、待ちこがれていたキリストがやっと顕わにされました。 彼の生涯はキリストに出会い、神に讃美を捧げるという最終的な目的と意味を持っていました。 まさにその瞬間に彼の人生全てが凝縮されていたと言っていいでしょう。彼の名前の通り、ヤハウェは願いを聞き届けられたのです。 ところで、シメオンの祝福の言葉は、旧約聖書イザヤ書の思想を色濃く反映していると思います。 Is48:13 わたしの手は地の基を据えわたしの右の手は天を延べた。わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。 Is60:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。 Is60:3 国々はあなたを照らす光に向かい 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。 また、詩編24編、29編などにも万軍の主が輝かしい栄光を携えて来臨されるとき、厳しい裁きを行われることが書いてあります。 これはシメオンが34節〜35節で祝福の言葉としては極めて不穏当な、呪いの言葉ともとれるような内容をマリヤ達に告げている理由を解くカギになると思います。 「心」と訳されているプシュケーは、命あるいはその根源である霊魂を意味します。剣は両手で持つ大刀を指します。 「指し貫く」というのは通過する、通り抜ける、貫通する、行きめぐるという意味に使われます。 ということで旧約聖書を調べていたらイザヤ書末尾の預言に行き当たりました。 Is66:16 主は必ず火をもって裁きに臨まれ 剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。 つまりシメオンは旧約イザヤの預言がその通り果たされると信じていたわけです。35節の 「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」という言葉は、「あなたも主の裁きの埒外ではない」 ということを指しているのだと思います。決して戦争に巻き込まれたり、 マリヤだけが迫害にあって殺されるという意味ではないと思います。つまり、呪いの言葉ではないわけです。 今、私たちはイエス・キリストの生涯を通し、主の裁きが人にではなく、 罪そのものを滅ぼすものであったということを知っています。でも、シメオンにはその事はまだ示されていなかったわけです。 そのことを思うと、幼子の光りは、ザカリヤが感じていたよりずっと輝かしいものであったに違いありません。 それは旧約の時代の終焉であり、輝かしい新約の時代の到来をしめすものでした。 |