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原作:Lev Nikolaevich Torstoi (1828-1910)

 ある町にマルティン・アヴデーィチという、独り者の靴屋がいました。地下の一室が店で、そこで寝起きしていました。 その部屋には明かり取りの窓が1つあるきりでしたが、そこから往来を行く人々の足元が見えました。 靴を見ただけで、マルティンはそれが誰か分かりました。長いことその街に住んでいたので、たいていの人の靴は彼が直していたのでした。
mado  マルティンは職人気質の、腕の確かな靴屋でした。仕事がきれいで、品質もよく、納期をきちんと守りましたし、 値段をふっかけたりしないので、仕事が途切れることはありませんでした。大もうけもしませんでしたが。

 マルティンは奉公していた頃に結婚しましたが、何人かの子供を失い、妻も男の子一人を残して他界してしまいました。 たった一人残った息子カピトーシカを、男手一つで育てましたが、ようやく仕事が手伝えるようになった頃、1週間寝込んだかと思ったら、 あっさり先立ってしまったのでした。

 せがれの埋葬が済み、マルティンは絶望の底に落とされました。あみりの不幸に神を呪い、死を願いました。 息子の代わりに、なぜ老いぼれの自分を召してくれなかったかと、神様に何度も何度も苦情を言いたてました。 いつしか教会にも行かなくなってしまいました。でも最近になって、人生の意味とか、救いについてぼちぼち考えるようになってきました。

 そんなある日のこと、ペンテコステ(五旬祭)の間近な時でしたが、同郷の一人がマルティンを尋ねてきました。 この人は8年間も諸国を巡礼して回っていたのでした。

 久しぶりに二人で四方山話をしましたが、マルティンは自分の不幸と不条理の数々を愚痴ったのでした。

「あんた信仰深いでええねえ。わしには夢も希望もないし、願いといえば、早う死ぬことだけだがね。神様にいつもそうお祈りしとるがね。」
「マルティンさ、冗談こくでねえ。神さんのなさることにたてついてかんがね。神さんはわしらの智恵より、ずつと深い考えを持ってなさる。その神様のなさったことに、ケチつけたらだちかんに。息子があんたより先に亡くなったというのも、神さんがその方がええと思いなすったに違いないに。」
「なら、わしは何のために生きなかんの。」
「自分のためでないがね。神さんのために生きるんだがね。そしたら、悲しんだりせんで済むし、何でも堪忍できるがね。」
「・・・・・神さんのために生きるって、どうせりゃいいの。」
「キリストさんが言ってりゃあすがね。あんた字が読めるでしょお。聖書買って読んだらええがね。あんたの知りたい事、何でも書いたるに。」

 マルティンは早速その日のうちに大きな活字の新約聖書を買ってきて、読み始めました。

 最初は「休みの日に読もう」と思っていたのですが、読み出すと毎日数ページ読まないと気が収まらなくなってしまいました。 時にはランプの油が切れても聖書を置くのがいやになるほどでした。
 読めば読むほど、神様が何を望んでいるのか、神様のために生きなければならないか分かるようになってきました。 心に喜びが満ちあふれるようになりました。以前は床に入るときには亡きカピトーシカの事を思い出しては溜息をついていたのですが、 最近では「グローリア(主に栄光あれ)、グローリア、主の御心のままに。」と言えるようになりました。

 このことがきっかけになって、マルティンの生活ぶりはがらりと変わりました。以前は休みの日には居酒屋に行って紅茶を飲んだり、 ウォッカを引っかけて陽気に騒ぎ、道行く人に軽口をたたいたり、絡んだりしていました。
 しかし最近では朝早く起きて仕事に精を出し、仕事が終わるとランプを机に置き、聖書を取り出して読み始めるのでした。 読めば読むほど理解も進み、心も晴れてくるのでした。

 あるとき、いつもより遅くまで読んでいたら、次の文章に行き当たりました。

あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
(ルカによる福音書6:30-31)

 それに続いて、次のような文章がありました。

わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
(ルカによる福音書6:46-49)

 マルティンは眼鏡をはずして聖書の上に置き、肘を机についてこのことを思いました。「はたして私の家は岩の上に建っているか、 砂の上か。・・・・・ま、神様の心から離れんように、とにかくまじめに一生懸命やろう。」

 そこで寝床につこうとしましたが、聖書を手放すことができなくなって続く7章の百人隊長や寡婦の息子の話、 金持ちのファリサイ人がイエスを家に招待し、罪ある女が主の足に香油を注ぎ、涙で洗ったこと、主がその女の罪を赦されたことなどを読みました。

それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。
(ルカによる福音書7:44-48)

マルティンは考えました。「わたしもあのファリサイ人のようだった。自分のことしか考えていなかった。自分がお茶を飲めて、 暖まっていればよかった。お客の事なんて考えていなかった。もしイエス様がお客さんだったら・・・・」いつのまにかマルティンは寝入ってしまいました。

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「マルティン!」
呼ぶ声にマルティンは飛び起きました。「どちらさんで」と答えて、部屋の中を見回しましたが誰もいません。 また、トロトロとまどろみました。するとまた声がしました。はっきりした声でした。
「マルティン!、マルティン!、あしたは通りに気を付けていなさい。私は必ず訪れます。」
マルティンははっとなってイスから立ち上がりましたが、誰もいませんでした。「夢でも見たかな。」ランプを消し、寝床に入りました。

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stove  翌朝、マルティンは夜明け前に起き出しました。お祈りをして、暖炉に火を付け、肉とキャベツを切って鍋に入れ、暖炉に吊しました。 お粥の鍋も吊しました。また、サモワールに水を入れ、火皿の木炭に火を付けました。

 用意が済むと前掛けをつけ、窓際に座って仕事を始めました。仕事をしながら、夕べの「声」のことを思っていました。 幻だったのか、夢だったのか。でも、本当に誰かが声をかけたような気もするのでした。 「なぁに、ようあることだがね!」と自分に言い聞かせ、仕事にせいをだすことにしました。

 とはいっても、窓から見覚えのない長靴が見えると、気になって、腰をかがめてそれを履いている人の顔も確認するのでした。 新調のフェルトの靴は門番のでした。見慣れない粗末な靴は水汲み人夫のものでした。

 底のすり減ったフェルト靴はニコライ帝時代の退役兵で、今は門番たちの手伝いをしています。柄の長いシャベルを持っていました。 その爺さんの名はステパーヌィチといい、近所の商家にお情けで住まわせてもらっています。爺さんはマルティンが覗いている窓の前の雪かきを始めました。

 マルティンは手元に視線を戻してつぶやきました。「何てこったい。ステパーヌィチの爺さんが来ただけなのに、 救い主がおいでになったなんて思ったりして。わしもトロいな。歳くったかな。」

 ところが10針も縫わないうちに、また窓の方に目が行ってしまいました。ステパーヌィチが壁にシャベルを立てかけ、 暖かい窓に体をくっつけて一休みしていたのでした。おかげで部屋が暗くなってしまったのでした。 「爺さんもずいぶんな歳なんだろな。見たとこ、もうくたばって雪かきする元気もないみたいだし。・・・・・お茶の一杯でもよんだろか。 あんばよう、サモワールもちょうど沸いたみたいだで。」
samoir  そこで急須にお茶っ葉を入れ、サモワールの煮え立つた湯をゴボゴボ注ぎました。そして窓ガラスのステパーヌィチの背をコツコツ叩くと、 爺さんがのぞき込んだので、お茶を飲みにくるように合図し、扉を開けに行きました。

 「まあ、はいりゃあ。体、冷えとるだろ。たんと暖まってちょ。」
 「やあ、こりゃ有り難い。骨まで冷えちまって、ずきずき凍りそうな寒さだ。」
 爺さんは戸口で足の雪を払おうとして、よろよろ倒れそうになりました。
 「そんなに気ぃ遣わんといて。あとで拭くでいいで、こっち来て座ってちょ。」
 マルティンはテーブルに2つのカップを置き、お茶を注ぎ、やっとイスに腰掛けた爺さんに1つ押しやりました。

 「ともかく一服あがりゃあ。」

 爺さんは砂糖をたっぷり入れて、飲み始めました。マルティンは猫舌だったので、いつものように受け皿へ少しずつあけて、 ふぅふぅ吹きながらすすりました。

 「ありがとう。生き返ったみたいだ。」爺さんは受け皿にカップを逆さまにして置きました。「ごちそうさま」のサインです。 でも、何となくお変わりが欲しい様子でした。

 「もう一杯やってちょ。」マルティンはおかわりを注ぎました。視線が窓の外にチラ、チラと動きます。
 「誰ぞいらっしゃるんかい。」爺さんが尋ねました。
 「うーん、誰、待っとるか、ちょっと恥ずかしくてよう言えんがね。・・・・・ひょっとしたら、わし、気ぃ狂っとるかもしれん。 ・・・・・ぼけとったか、寝ぼけとったかしらんけど、ある事を聞いたんだがね。・・・・・実はなも、昨夜寝る前に聖書読んどったら、 イエス様の事おもてなしせんかつたファリサイ人の話があったんだがね。・・・・・そのうち、ウトウトしかけたと思ったら、 ”マルティン!、マルティン!、あしたは通りに気を付けていなさい。私は必ず訪れます。”って、2回も呼びかけられたんだがね。 信じられんでしょう。だけど、その言葉が頭にこびりついて離れえへん。・・・・・そいで、こうやって、ずっと待っとったんだがね。イエス様をね。」

 ステパーヌィチは頷きながら、話を聞いていました。2杯目を飲み終わると、再びカップを受け皿に伏せました。
 「こんどは、あんたがまめで居られるよう、祝杯だがね。・・・・・イエス様は、どえりゃああちこち行かれたんだけどよぉ、 どこでも誰もハチベにされんかった。中でも、貧乏人や乞食にはとりわけ親切にしてちょうした。 お弟子さんもよぉ、偉りゃあさん、おれへんで。漁師や職人ばっか(ばかり)だで。こう書いたるで。」

「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。
その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。
むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。 そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
(ルカによる福音書14:8-11)

 マルティンはお茶を飲むことも忘れて、話すことに夢中になっていました。頬を涙がつたっていました。

 「もう一杯、よばれやぁせ。」マルティンは言いました。
 「ありがとう、マルティン・アヴデーィチ。こんなに親切にしてもらって。おかげ様で身も心も温まりましたよ。」 爺さんは十字架を切り、カップを押しやって立ち上がりました。
 「めっそもない。また寄りゃあせ。お客がいりゃあすと、わし、嬉しいがね。」

 ステパーヌィチ爺さんは部屋を出ていきました。マルティンは急須に残ったお茶を飲み干し、また窓際に座って仕事を始めました。 でも、頭の中はキリストのことで一杯でしたし、相変わらず窓の外の通行人に目が行ってしまうのでした。

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 二人の兵士が通り過ぎました。一つは支給品の長靴。もう一つは自前の靴です。しばらくしてエナメルの靴を履いた紳士が通り過ぎ、 パン篭を担いだパン屋が通り過ぎました。

 女の足が見えました。この寒いのに木靴を履いています。窓の外を通り過ぎ、壁の前で足を止めました。 マルティンが身を乗り出すようにして窓の外を眺めると、この町の者ではないようでした。赤ん坊を抱いていました。 風を避けようと、壁に寄りかかり、赤ん坊を暖めようととしていましたが、くるむものも充分でない様子で、しかもみすぼらしい夏服を着ていました。

mother  赤ん坊の泣く声がしました。お腹でもすいたのでしょう。なかなか泣きやみません。マルティンは立ち上がり、 扉から出て階段の下から大声で呼びかけました。

 「おかみさん!、そこのおかみさん!」

 女は声に驚いて振り返りました。老眼鏡を鼻に引っかけた、職人風の、人の良さそうな爺さんがおいでおいでをしています。

 「そこ、寒いがね。こっちの部屋にいりゃあ。赤ん坊の世話もしやすいに。遠慮せんでいいに。入りゃあ。」

 女はマルティンに従って部屋の中に入りました。

 「もっと、火の近くに寄りゃあ。唇が真っ青けだがね。暖まりゃ、おっぱいも出て来るに。」
 「おっぱいはもう出ないんです。・・・・・今朝から何も食べていないんです。」

 女は確認させるかのように、乳首を赤子の口に含ませようとしましたが、赤子はすぐにオッパイを吐き出して、再び泣き始めました。

 マルティンは「なんてこったい」と頭を振り、暖炉の扉を開けました。お粥はまだ充分に煮えていませんでしたが、 キャベツのスープはおいしそうに煮えていました。そこでスープを椀によそい、テーブルの上に置いて、 パンを切ってスプーンと一緒にナプキンの上に用意しました。

 「さあ、さあ。こっち来て食べやあせ。ぬくとうなるに(暖まりますよ)。・・・赤ん坊よこしゃあ。わしにも子供居たで、あやすの上手だで。」

 女は頷いて食卓に着き、十字を切ってから食べ出しました。マルティンは赤ん坊に頬ずりしたり、 百面相をしたりしてあやしましたが、なかなか泣きやみません。そこで、指を赤ん坊の顔に近づけたり遠ざけたりしました。 そうしたら、赤ん坊は興味を示し、泣きやんで手でつかもうとしてきゃっきゃっと笑い始めました。マルティンも嬉しくなって、赤ん坊と一緒に笑い出しました。

 女は食べながら、ぼつぼつと身の上を話し出しました。

 「うちの亭主は兵隊で、8ヶ月ほど前に戦地にいつたきし、なしのつぶてなんです。仕送りも無いままに、 子供が産まれるまでは台所の下働きをしてたんですけど、やかましいって、3ヶ月前に仕事できなくなっちゃったんです。 ・・・・・しばらくは質屋がよいしていたんですけど、売る物がなくなっちゃって、乳母の口を探したんですが、 痩せているから無理だって、断わられちゃったんです。それで、知りあいの人に頼んで、その人が働いている店で働くことになったんだけど、 お店はとても離れているんです。来週から来てくれって言われたんだけど、年の瀬も迫ってきて、この寒い中をどうやって通おうかと、 途方に暮れていたんです。幸い、家主さんが親切な方で、家賃が溜まっていても知らん顔してて下さってるんで、とても助かっているんです。」

 マルティンは溜息をつき、言いました。

 「あんた、暖かい着物は持っとらんのかね。」
 「はい、きのう、最後のショールを20コペイカ(今の日本なら500円くらい?。100コペイカ=1ルーブル)で質に入れてしまったものですから。」 女はいつの間にかベッドで寝てしまった赤ん坊を抱き上げた。マルティンも立ち上がり、壁の方でごそごそやっていたが、 裏が毛皮の、古いけど暖かそうなマントを取り出して女に渡した。

 「これ、持ってってちょ。上等でないけど、赤ん坊を包む足しにはなるで。」

 女はマントを見て、マルティンの顔を見た。震える手でマントを受け取ると、わっと泣き出してしまいました。 マルティンも思わず目頭が熱くなり、顔をそむけると、ベッドの脇机から手提げ金庫を取り出し、ごそごそかき回していましたが、 何か握って、女の前に戻ってきました。すると女は言いました。

 「おじさん、どうかイエス様のご加護が豊かにありますように!。私を窓辺に導いてくださったのは、イエス様でしょう。 もしそうでなかったら、この子は今頃凍え死んでいたかもしれません。家を出るときにはそんなに寒くなかったのに、 急に冷え込んじゃったんですもの。私たちを窓から見つけて、哀れんでくださるように、イエス様があなたに親切心を吹き込んでくださったんですわ。」

 「まったく、そのとおりだがね。」マルティンは微笑んで答え、昨夜の出来事を話して聞かせました。

 「不思議なことって、あるものですね。」女はそう言って立ち上がり、子供をマントでくるみ、深く会釈し、部屋を出ていこうとした。
 「これ、持ってってちょうせんか。」そう言って、マルティンは20コペイカ銀貨を女に握らせました。「これでショールを買い戻せるがね。」女は十字を切りました。マルティンも十字を切り、外まで母子を見送っていきました。

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 マルティンはキャベツのスープを飲んで片づけ、また窓辺に戻って仕事を始めました。
針を運ばせながら、神経は相変わらず窓の外に向いていました。窓に人影が映ると、見上げて確かめました。顔なじみの人たち、 見知らぬ人たち。でも、注意を引くような人はいませんでした。

 しばらくして、物売りの婆さんが窓の外で足を止めました。リンゴの入った篭を持っていましたが、 窓の庇の上に置いて、背中のズタ袋を地面に置きました。その袋には、どこぞの工事現場で拾ってきたのでしょう、 廃材の木ぎれが一杯詰まっていました。婆は担ぎやすいように、詰め直し始めました。

apple  小さな影がすり寄ってきたかと思うと、激しい罵声と泣き叫ぶ声が聞こえました。少年が婆さんのリンゴを1個くすねようとして、婆さんに掴まえられたのです。
 マルティンが老眼鏡を落っことしてしまうほど慌てて外に出てみると、婆さんが少年の髪の毛をつかみ、げんこつでひどく叩きながら、 「この泥棒め!警察に着きだしてやるう!」と叫んでいました。少年は「何も盗んでないよう!、叩かないで!、放して!」と、 手足をばたつかせながら言っていました。

 マルティンは少年の手を掴み、「婆さん、堪忍したってちょ、堪忍したってちょ!」と言いました。

 「赦してやらないことはないよ。でもね、こっぴどく叱ってやって、性根をたたきなおすのが親切というものだよ。とにかく、交番に引っ張っていかなきゃ!」
 「婆さん、ええ加減、堪忍したってちょ。そんだけぶたれたら、懲りとるに。なあ、頼むに、赦したってちょ。」

 婆さんが手を放しました。少年は慌てて逃げようとしましたが、マルティンは少年の腕をつかんで言いました。 「黙って行ったらいかんがね。お婆さんにちゃんと謝まらないかんが。リンゴを盗ったの、わしちゃんと見とったに!」

 それを聞いた少年は泣き出し、婆さんにわびて、許しを請いました。

 「それで良いんだがね。さあ、このリンゴ1つ購うたますわ。」と言って、篭からリンゴを一つ取り、少年に渡しました。「わしが勘定払うわ、お婆さん。」

 「こんなガキを甘やかしたら、また悪さするに決まっている。何日もうなされるほど痛めつけなきゃいけなかった。」

 「お婆さん、そんなにムキになったらいかんがね。リンゴ1個でムチ撃たれないかんだったら、わしらの罪はどうやって償ったらいいんだね。 どんな罰を受けたらいいんかね。」とマルティンは言い、聖書の話をしました。

それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
(マタイによる福音書18:23-35)

 「神様は赦せと言われとるがね。・・・・・もし人を赦さんかったら、わしらも赦されんがね。特にまだ分別が分からんヤツには。」
 「あんたの言うとおり。だけど、子供は悪さするのが普通だよ。」
 「それだがね。何が良いことか、年寄りがあいつらに見せたらな。」  「わたしも、そうは思うんだけど。・・・・・ずいぶん老いぼれちゃったけど、私も働けるうちは働こうって、頑張っているんだよ。 孫たちのためにね。その孫が、またかわいいんだよ。特にアクシュートゥカときたら、朝から晩まで”お婆ちゃん、お婆ちゃん”って、 わたし無しじゃ日も暮れないんだよ。・・・・・そうだね、ほんのイタズラだったんだね。神様、どうかこの坊やを守ってくださいまし。」

 婆さんが袋を担ごうとすると、少年は言いました。「お婆さん、僕が持ってくよ。同じ方角だから。」婆さんは頷いて、 木っ端のぎっしり詰まったズタ袋を少年に渡しました。二人はなにやら楽しそうに話しながら、遠ざかっていきました。リンゴ代を請求するのも忘れていました。

 二人の姿が見えなくなるまでマルティンは佇んでいました。部屋に戻ろうとしたら、階段のところに老眼鏡が落ちていました。 幸い、傷はついていませんでした。腰掛けに座り、また仕事を始めました。

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boot  点灯夫が、街灯に明かりを入れて回っていました。仕事場も暗くなって、針に糸を通せなくなったので、ランプを灯しました。 ・・・・・長靴の片側が出来ました。要所要所をチェックしましたが、申し分のない出来でした。 道具を片づけ、床に散らばった皮や糸の裁ちくずを箒で掃き集め、捨てました。

 天井のランプをテーブルの上に移し、福音書を棚からとり出して机の上に置きました。

 福音書を読み始めようとしたとき、昨夜のようなことが起こりました。後ろで何かの気配がします。 振り返ってみたら、いくつか影が見えます。ぼんやりしていて、何の影かよく分かりません。

 「マルティン、マルティン!、わたしがわかるかね。」
 「どなたさんきゃあも。」
 「わたし、わたし。」・・・・・ステパーヌィチが姿をあらわしました。微笑んだかと思うと、消えてしまいました。

 「今度はわたし。」・・・・・赤子とその母親が現れ、二人ともにっこりして、消えました。

 続いて婆さんと少年が現れ、同じように笑いかけると、消えてしまいました。

 マルティンは心が喜びで満たされました。十字を切り、福音書を読み始めました。

あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
(中略)
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、 すなわち、わたしにしたのである』。
(マタイによる福音書25:35-40)


マルティンは気づきました。主が確かにおいでになったことを。

2001/09/18

引用聖書:聖書(口語訳) 日本聖書協会 1954/1955