新炭里(シンタンニ)観光

京畿道(キョンギド)の新炭里に行って来ました。



8:30過ぎ、部屋を出発。

最寄りの駅から清涼里(チョンニャンリ)を経由して、
地下鉄で行ける議政府(ウィジョンブ)まで行く。

議政府で毎時20分発(1時間に1本)の京元線(キョンウォンソン)に乗り換え、
約1時間20分後に韓国国鉄最北端の駅、新炭里駅に到着。



新炭里駅。
「鉄道中断駅」の看板。
新炭里駅のホームと 乗って来た列車、統一号(トンイロ)。
新炭里駅前より、12:00出発で行われているDMZツアーに参加する。 ここのDMZツアーは、火曜日以外1日1回運行されている。(13,000ウォン) 参加者は自分ともう一人の日本人、そして韓国人夫婦の4人だけ。 日本語が話せる運転手がガイドも兼ねる。 そのため、韓国語と日本語で説明してくださった。 〜DMZ(Demilitarized Zone)〜 非武装地帯。1953年7月27日、休戦協定が締結されて作られた区域。 南北を分断する軍事分界線のそれぞれ2kmずつ、4kmの幅を持ち、 武装、および全ての軍事行為を中止する緩衝地帯をDMZと呼んでいる。 朝鮮戦争以後、人が立ち入ることがなくなったため、この一体では珍しい野生動物が生息する地帯として 知られている。と同時に、実のところは地雷原にもなっており、「ここは地雷に注意」みたいな看板とともに 鉄線で囲まれた場所をいたるところで見かけた。 イメージ図。その1その2 白馬高地(ペンマゴジ)。 ここは朝鮮戦争の際、一番血なまぐさい 激戦地になった。 上空から見下ろすと、馬がたわっているように 見えることから、白馬高地と呼ばれている。
1952年10月6日からの10日間で、 12回もの戦闘が行われ、 指揮官が24回も変わった。 約30万発の砲弾により 山の高さは約3m低くなった。 そして、約14,000人が戦死した。
ちょうど明日(6日)が 顕忠節(ヒョンチュンイル)だったため、 花が盛られていたと思われる。 一番奥の塔は両手を模っている。 上側が小指、下側が親指のイメージ。
両手を模った塔の先にあった建物。 この奥に見える山々の間から北朝鮮の山が見えた。 この建物の向こう側からは撮影禁止と言われたため、 残念ながら撮らずじまい。 おっちゃんの目を盗んで撮ろうかとも思ったけど、 やっぱダメな事は辞めとこ、と思って撮らんかった。
次に向かうところは元北朝鮮の施設だった労働党党舎の廃墟。 その途中、かつて鉄原(チョルォン)と呼ばれていた大きな街があり、その一帯に残る建物の説明を車の中から受ける。 現在は誰も住んでおらず、いろんな施設の廃墟が点在するのみ。 労働党党舎の廃墟。 北朝鮮が朝鮮戦争が始まるまでに 使用した鉄原道党舎。 愛国人事を逮捕、拘禁、拷問、虐殺した 悪名高き場所。
建物の裏側より。 弾痕の跡が生々しく残る。 さらに、この建物の後ろにある防空壕で、 当時の拷問の後が見られ、人骨、弾丸、 拷問に使った道具などが残っている。 が、それらしき防空壕は見当たらなかった。 柵があって行けんかったし。
かつて存在した鉄原の地図。 真ん中付近の赤い点のところが、 労働党党舎の廃墟。
続いて、DMZの手前にある南侵トンネル(ナムシンッタングル)に向かう。 行く途中、軍人が取り締まっている検問を何回か通過する。 さらに、戦争映画のセットを思わせるような光景を目にする。 本当に映画で見るような戦場地そのものなのだが、映画のセットと絶対的に違うのが、 偽物(作り物)ではなく、本物であるということ。 平和ボケした頭では、ここは本物の戦場地なんだ、ということ以外他に何も考えることが出来なかった。 第2トンネル(チェイッタングル)に到着すると、軍人が10名ほどいた。 一人一人に工事現場でかぶるようなヘルメットが渡され、中に入る。 100mほど緩やかに下り、つきあたりを左に曲がって400〜500mほど行ったところで Uターンして戻って来るようなコース。 身長168cmの自分が、時折少しかがまなければ頭をぶつけるようなところがある以外は 普通に歩けるぐらいの高さと、人が3人ぐらい並行して歩けるぐらいの幅。 ここも撮影禁止と言われた。 〜南侵トンネル〜 朝鮮戦争後、70年代から80年代にかけて北朝鮮が掘ったとみられるトンネル。 1971年9月25日、“1つの坑道は10個の核爆弾より效果的である。”という金日成の言葉より 作られ始めたと思われる。1972年5月から捜索工事が始まり、2年後の1974年11月15日に 第1トンネルが発見されてから現在に至るまで、4つ発見されている。そのうち、第2トンネルと 第3トンネルは観光地として中に入ることが出来る。第1トンネルは崩壊の恐れがあることから観光を中止。 第4トンネルは元々狭いため中に入れない。 〜第2トンネル〜 1975年3月19日に発見された。このトンネルは大規模兵力を集結させられる広場まで備えており、 出口は三つ又に分散されている。1時間で3万人の武装兵力を移動させられる、かつ車両や大砲なども 通過されられる規模を持つ。第2トンネルの捜索中、北朝鮮の妨害工作により韓国軍7人が犠牲になり死亡した。 イメージ図。その3 月井里(ウォルジョンニ)展望台へ向かう。 その途中、至るところで黄色く塗られたタイヤの中に、同じく黄色の色をした直径50cmぐらい?の 鉄の筒のようなものが打たれたような光景を目にした。 聞けば、南侵トンネル捜索用の跡とのこと。 月井里は、かつて鉄原の先に位置した場所。 朝鮮戦争後は、駅がDMZの中に位置するようになったため、現在はDMZ手前まで移築。 ここも武装した軍人がたくさんいた。 月井里駅。 この建物の左斜め前に展望台がある。 が、北朝鮮側を向いての撮影はダメと 言われたため撮れず。
駅舎の後ろにあるのは、 米軍に爆撃された機関車。 奥にある堤防の向こう側に DMZラインが敷かれている。 軍人の死角から北朝鮮側を 向いて撮ってみた。
展望台からは、白馬高地よりも北朝鮮の領域が良く見えた。 有料の望遠鏡もあり、これを使えば北朝鮮の軍事施設や軍人も見えるとのこと。 が、他のツアーから来たと思われる観光客の利用者が多く、自分は利用しなかった。 しかし、肉眼で見える範囲でも結構な衝撃だった。 これで見学は全て終わり、一路再び新炭里駅へ。 車で移動中、道路を挟むようにとても大きなコンクリート塊が左右に4〜5個ずつ 10mぐらいの高台の上に置かれているのを何ヶ所かで見かけた。 聞くと、北朝鮮の戦車が攻めて来た時に、道路を塞げるよう落とすための物とのこと。 現在、休戦して50年が経つが、改めて今だ戦争中という現実を思い知らされる。 自分が生活しているソウルの街並みとは全く異なる、韓国が抱えるもう一つの顔。。。 出発して約3時間半のツアーだった。 16:00発の列車を待つ間、有名な看板を見に行く。 新炭里駅のホームにある看板。 右がソウル方面、左が北朝鮮方面 であることが分かる。
北朝鮮側を望む。
線路上の道なき道を行く。 駅を出てからは2本ある線路。
やがて1本になり、 小さな石が敷きつめられ、 線路がかき消されている。
そして、目的の看板を目の前にする。
鉄道中断点(チョルドチュンダンジョム)。 下段は、「列車は走りたい。」という、 あえて列車を主語にして、 思いを託したメッセージ。
上段の龍山(ヨンサン)はソウルにある町。 下段の元山(ウォンサン)は北朝鮮にある町。 かつてこの京元線が北朝鮮の元山まで 走っていたことが伺える。 そもそも京元線の「元」は元山の「元」。
新炭里駅前の山。 分かりづらいかもしれんけど、 斜め上を向いた看板がある。 これは戦闘機にここが韓国であることを 知らせるための物とのこと。 ツアーで移動中、田んぼの中などに 数十mおきにたくさんあった。
帰りがけ、乗り換えの議政府駅でプデチゲを食べに行った。 議政府はプデチゲ発祥の地らしい。 プデは韓国語で部隊の意、チゲは鍋物料理を指す。 韓国ではおなじみの料理だが、プデチゲはハムやソーセージなど洋風の材料を使うのが特徴。 駅から歩いて10分ぐらいのところに、プデチゲ通りといわれるプデチゲが食べられる食堂が 十数軒並んでいる通りがある。 そこで、あらかじめ調べてたお店に向かう。 1人分を注文。(6,000ウォン) 見るからに辛そうな真っ赤な色で、食べても予想を裏切らない辛さだった! 風呂あがり?って言われそうなぐらい汗をかきながら食べた。 韓国ではあまり一人でご飯を食べないらしい。(数名で食べに行く。) それで???と思われたのか、また自分が話すハングルに違和感を感じたのか、 会計をしてた時、日本人?何でここのお店を知ったの?などと聞かれた。 日本の本に紹介されてる、と言ってその本を見せると、本に載ってたおばちゃんが、 あ、私がいる、私もスターやね〜。なんて言ってた。 再び議政府駅に向かい、そこから国鉄&地下鉄を乗り継いで21:00頃帰宅。 今回は、場所が場所なだけに軍事施設もたくさんあり、撮影禁止なところが多かったため、 あまり情報を提供出来なくてすいません。。。 次は板門店(パンムンジョム)に行って来ます。




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