父の書いたもの1(生い立ち)
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2.小学生の頃(1)
昭和十六年十二月八日、私が小学校二年生の時に大東亜戦争が始まった計算になるようだ
。
当時の記憶は、たしか学校では、雪の中、旗行列をしてお祝いをしたような記憶が残っ ている。
幼少の頃の記憶では、特に印象に残っているのは、お袋を除いて一家が赤痢に かかり全員、強制的に病院に入院させられたことだ。
あれは小学校低学年の頃だろう。家に帰ると、家の中は消毒され、真っ白になっていた。
そして即、自動車に乗せられ入院、一週間程度の病院生活がつづいたこと、不思議にお袋だけが感染しなかったので毎日病院に来ていたようだった。
当時私は甲府市立A小学校に通学していた。
歩いて十三分程度のところにあった、相川橋を右に曲がり川沿いに歩いた。もちろん道路は舗装などされていない。当時は確か下駄ばきでの通学であったと記憶している。
相川では当時よく釣りをしている人を見かけたものだった。小学校の頃は魚つりなど良くやった、フナ釣りだから何時も良くつれた。
竹の竿に、針と糸、それにミミズの餌で近所の川で釣りをしたり、そのほか良く、馬乗り、 缶けり、陣取り、石けり、かくれんぼ、よく毎日そうやって遊んだものだった。
小学校は上級に行くにしたがって軍事色が強くなって来た。
まず奉安殿(天皇陛下の写真が入っている)の前を通る時は必ず頭を下げること、輪転機(鉄の輪の中に人が入り自力でころがして行く、これは飛行機の操縦の訓練だ)により通学する人もでて来た。
それから先輩の飛行機による飛来により通信筒を落としそれを全校生徒の前で読み上げるなど、それから予科練の先輩の学校訪問、純白の服に七つボタン、印象に残っている場面であった。
そのうちだんだん戦況が悪化して来た、空襲もこの甲府では始まってきた。
東部軍管区情報発令、東部軍管区情報発令、敵B二九は駿河湾上空を通過して甲駿地区 に飛来せり空襲警報発令、とラジオから毎日のように流れて来るようになった。
夜は消灯 して早く寝るか、電灯に黒い布をかけていた。
隣り近所の人が良くメガホンを持って空襲警報発令とか、空襲警報解除と云って歩いていた。きっとゲートルに軍靴をはいた町内会の人達であろう。

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