父の書いたもの3
[結婚] [職場での生活その1]
[職場での生活その2] [HOME] [父に関する話TOP]
3.職場での生活その2
**荘は私達のなじみの保養所となっていました。子供達が学校に行くようになるとそんなのんびりした旅行も出来なくなりました。私の勤務先は相変わらず三年周期で変わっ
ていましたが、その手腕を試される時期が一度ありまました、それは**電報電話局への転勤でした。毎日が目のまわるくらいの忙しい日々が続くのでした。火の子が次々に降ってくるのを左右にかわしながら進んでいくと言った表現が当を得ているように思われます。
これは経験した人でなければ分からないことです。組織の一部に触れますが敢えてお話ししますと、こんなことになります。
お客様から担当者は誰かと言う苦情の電話でした。工事に来るのを待っていたがいつまで待っても来ないではないか一体どうなっているんだと言うものでした。
私は車で直ぐに飛んで行きました。当時、営業の窓口で電話の工事を受け付けるとその工事は、電話局の直営の部分と、請負会社に回すものとありました。何処でどうなったのか、同じ家の工事を片方は電話局の直営、片方は請負会社に回してしまった
のです。最初に行ったのが電話局で、不在だったので工事は出来ませんでした。次に請負会社が行き工事をしたのですが、まえの工事が終わっていなかったのです。そのお宅では
結局、二つの工事を窓口で申し込んだ訳ですが、その工事が一緒におこなわれず、後の工事が結果的に、出来なかった訳です。そこで苦情となり、同じ電話局なのに一体どうなっているのかということでした。非常にうるさいお客様でしたので、本当に私は困ってしまいました。それでも材料道具がありましたので一人でその仕事を済ませました。
その当時です、新しい機種が開発され、即、導入されたので、大変でした。ボタン電話の新機種で した。受付けではどんどん受注しましたが、技術の方が追いつかずいろんなトラブルがありました。その時、私はこのような係りは大変なので誰も引き受けない係りだと思いましたが、なんとか一年間続けて、やっと自信が持てるようになりました。
その年の四月から私の勤務は、慣れた勤務の方に変わ りました。そこで三年、合計四年間、**電報電話局にお世話になりました。その頃、 電話局の業務もコンピユタ−による処理へと変って行きました。新顧客制度が実施され、
また私の線路係では、線管システムが導入されました、この時代は新しいシステムへと変 って行く時代でした。昭和五十八年ごろのことです。昭和五十八年四月、私は**電報電話局に配置がえされました。**公社がN**に変わる時代でした、私はこ
こでも神経症になりました。二度目のことです、約一ケ月入院しました、毎日、毎日、病院では、**さんと将棋をやって過ごしました。N**の組織が変わり、電話局がなくなりり、**支店になりました。皆んな、いろいろとまどいは有りましたがそれなりに仕事は進められました。
大学卒業の若人達がどんどん現場に配置をされるようになりました。若い力が組織に注入され、現場は、若変わりしました。私は主にコンピュタ−による、線管システムの仕事をしました。**局時代にパソコンが好きになり、その方面の部所に付いた訳です。
平成四年三月、私は長いN**の生活を辞める時が来たのでした。時に私は五十八才、新 しい職場が私を待ち受けていましたが一年の休養をとり、現在の**会社に再就職しました。
[父の書いたもの:終わり]
父の書いていたものの中で「生い立ち」と「記憶」という文章をひとつにしました。個人的なエピソードは省いた部分もあります。たぶん…わたし以外の人には興味ないですよね。(^^;(ふう)
[結婚] [職場での生活その1]
[職場での生活その2] [HOME] [父に関する話TOP]
|