СПРАВОЧНОЕ БЮРО
Что это такое?
ちょっと、オシャレっすね(笑)。ロシア語。
ちなみに意味は[案内所 これなんですか?]です。本見ながら書きました。
ええとですね。
この農場(サイト)、なんと「KOLKHOZ」や「集団農場」で検索に引っかかるのです。まあ、当たり前といえば当たり前なのですが。
ふと思ったのです。
わざわざ「KOLKHOZ」や「集団農場」で検索する人は、本当にコルホーズのことを知りたい方なのではないか、それを期待して検索をかけて出てきたサイトが「北海道&雑文」では、がっかりということになりはしないか。
そもそも『コルホーズってなに?』という方も多いのでは。
そこで、当農場にコルホーズに関する簡単な解説をおいておくことにしました。
ただ、私はロシア史研究や政治学など全くの素人、この文章も適当な文献を切り貼りしたものです。ですので誤謬などあるやもしれません。ですので、正式にコルホーズのことを調べたい時は他をあたってください。
コルホーズ
広辞苑による解説
コルホーズ【kolkhozロシア】
ソ連の協同組合形式による集団農場。機械・役畜・建物などを組合の所有に移して社会主義的大農経営を行う。1929年の全面的集団化により導入。トーズ(土地協同耕作組合)・アルテリ(農業生産協同組合)・コムーナ(生産消費共産自治体)の三つがあり、アルテリが主流。
ソフホーズ【sovkhozロシア】
ソ連の国営農場。ロシア革命直後に旧地主の土地の上に建設され、開墾地に拡大。大規模な社会主義的機械化農業経営を行い、労働者は国から賃金の支払を受ける。ソホーズ。
ソビエト‐しゃかいしゅぎ‐きょうわこく‐れんぽう【―社会主義共和国連邦】‥クワイ‥パウ
ロシアの1917年の十月革命によってユーラシア北部に成立した世界最初の社会主義国。ロシア連邦・ウクライナ・白ロシア・ウズベク・カザフ・グルジア・アゼルバイジャン・リトアニア・モルダヴィア・ラトヴィア・キルギス・タジク・アルメニア・トルクメン・エストニアの15の共和国から構成された多民族国家。第二次大戦後の冷戦時代、アメリカ合衆国と並ぶ超大国だったが、1991年12月、CIS(独立国家共同体)の成立により崩壊。ソビエト連邦・ソ連・USSRと略称。
1 コルホーズの歴史
ソ連の協同組合形式による集団農場。機械・役畜・建物などを組合の所有に移して社会主義的大農経営を行う。1929年の全面的集団化により導入。農地のみを共同化したトーズ(土地協同耕作組合)・家屋その付属地(菜園)とそれに付随する家畜生産手段の私有のみ認められるアルテリ(農業生産協同組合)・完全な共同経営体コムーナ(生産消費共産自治体)の三つがあった。トーズは初期的な段階、順を追ってアルテリ、コムーナに移行する計画であった。なおこのソフホーズの用地は富農(クラーク)の土地を、クラークを追放してその村の住人に運用させる方式であった。このクラークの追放は一説によると1000万人を超えるとも言われる。この農地の収容に強固に反対したクラークはシベリアなどの遠隔収容所に連行された。
また同時にソフホーズ(ソホーズともいう・国営農場)も作られ、こちらはすべての資産が国営となり、労働者は国から賃金を受け取るという形態になっていた。
コルホーズとソフホーズの発生は、コルホーズは主に富農を中心とした村が基本となっており、ソフホーズは地主の土地を国が収容し小作人に労働者として耕作させるといった違いがあった。
ソビエトのこのような農地改革は1917年のロシア革命直後から実行されていたが、1927年12月の第15回ソビエト共産党大会が契機となり大きく進展した。このためこの15回党大会は「集団化の大会」とも呼ばれる。
しかし、ソ連は高緯度にあるため開拓は莫大な費用がかかったと見られ、小規模なコルホーズは合併したり、ソフホーズへと姿を変えていった。またソビエト崩壊に近づくにつれ穀物輸入が行なわれ、増大をしていった。1980年代にはペレストロイカに伴なう様々な改革(生産請負制の導入など)が行なわれた。
そして1991年のソ連崩壊後は農地の私有が認められ、コルホーズ・ソフホーズの農地の2/3は協同組合や株式会社等に改編された。
2 コルホーズの運営
コルホーズの運営は,コルホーズ総会によって採択される定款に基づいて行われた。
その採択に際して見習うべきアルテリ(農業生産協同組合)模範定款(1969年にコルホーズ模範定款と改称された)によれば,コルホーズ員をブリガーダ(作業隊),その下部単位であるズベノー(班),あるいは畜産部に組織してコルホーズの労働を遂行し,支払いは労働の質と量を考慮して行われた(とくにブレジネフ期(1960年代後半〜80年代初頭)に入ってから賃金形態に近づいた)。
1980年代後半においては、農業不振に伴ない当時のゴルバチョフ書記長が指揮を取り農業改革を行なった。まず細分化されていた農業関係の6省を「国家農工委員会」という組織にまとめあげ(数年後に廃止)、次いで「請負制」を実施し、さらには『農民を土地の本当の主人』であるとの見解を発表するなど、農業の活性化に務めた。
しかし、それでも農業は低迷を極め、農地のアレンダ(賃貸制)の容認が議論されたが、これは完全実施には至らず、様々な農業形態が乱立する中、ソ連は崩壊した。
3 コルホーズの課題点
ソ連の農業生産は1980年くらいまで、平均水準では増加してきていたが,その末期(1980年代後半〜崩壊の1991年)に数百年に1度とさえいわれる6年連続の凶作を経験し、年間3000万〜5000万tに達する穀物輸入が日常化していた。
輸入総額中のその比重も,かつての3〜5%から10%(当時の2億ドルに相当)にも達した。さらに工業化,都市化が酪農品需要を激増させ,飼料需要が急増したことも、この情勢に拍車をかけた。
政府はすでにフルシチョフ時代(1950年代〜1960年代前半)から,
(1)農産物買付価格の引上げ,
(2)農業労働者の所得保証,
(3)農作業の機械化,農業の化学化,
(4)コルホーズの統合・巨大化やソフホーズへの転換,
(5)個人副業経営の容認・奨励など,さまざまの政策を打ち出して対処した。
ブレジネフ時代(1960年代後半〜1980年代前半)以降も,政府が農業に投資してきた資金は莫大な額に上ったとみられるが,それは農産物生産高の目ざましい増大とは必ずしもつながらなかった。
ソ連の土地は乾燥・寒冷地帯も非常に広いという環境で、農業生産に厳しい条件だったことも農業不振の要因の一つではある。しかし農業集団化(1929年開始)により何百万という中堅農民が逮捕,投獄,流刑になり農業技術が廃れた事、コルホーズの管理役人が上部機関への栄転を目指し農業経営が疎かになりがちだった事、有能な働き手が高等教育機関や軍部に徴集されてしまい農村の弱体化が顕著だった事、集団生産による生産性の不効率化など、農業不振は諸社会的原因に因るところも大きかった。
また野菜,果樹,ジャガイモ,酪農などを中心に残っていた個人副業は,集団農場と補完関係もあった一面,作業の季節ピークの重なりなどから,それとの緊張関係も強かった。
旧ソ連末期に請負耕作が奨励され,実質的な集団農場離れが強まっていたところに,ソ連農業の直面するジレンマの決定的な様相が反映していた。農産物の価格差補助金の累積のような形でも矛盾は深まる一方であった。
ソ連は崩壊まで『農業はアキレス腱』といわれる状況からついに脱することに成功しなかった。