家族のカタチ


12月、町がクリスマスの準備で華やぐころ、私はL先生に「○日にちびくまのお誕生日をしたいのだけど」と言いました。
「おひさまの部屋」では、日本の幼稚園のお誕生会のようなものがないかわり、先生に申し出ておけば、おやつの時間を個別のお祝いにあててもらうことができます。それは誕生日でなくても、「子供にとってお祝いをしたい特別な日」であれば良いことになっていて、その日のおやつはその親が差し入れする決まりです。

「ちょっと待ってね」とカレンダーをチェックした先生が
「あ、ごめんなさい、その日はC君がお祝いをしたい、と言ってきているの。次の日ではだめかしら?」
と言います。
「かまわないわ。ちびくまは1日ずれたって文句はないでしょう」

そうは言ったけれど、私は「あれ?」と思いました。
確かC君のお誕生会は、2ヶ月ほど前にやったはずなのです。

その○日当日、いつものように私はちびくまを教室に送っていき、そのまま居残って先生の手伝いをしていました。
L先生は「あなたがいてくれて助かるわ。今日は冠を3つも作らないといけないの」と言いながら、お祝いの主役がかぶる冠を大中小と3つこしらえています。
そこへ、大きなケーキを抱えたC君のママと、照れくさそうなパパが登場。

もうそろそろおやつの時間、という頃になって、L先生は一度子供たちを円座に座らせました。
「今日のおやつは、Cの特別な日をお祝いします。C、こちらにいらっしゃい。昨日、あなたには特別なことがあったわね。みんなにお話してちょうだい」
「うん、きのう、僕はパパとママと裁判所に行ったんだ」
「そう、そこで判事さんに会ったのね。判事さんはなんと言ったの?」
「ぼくは、『アダプト(養子縁組)』されましたって。僕は、パパとママの養子になったんだよ!」
「おめでとう。だから、今日はCとパパとママが親子になったお祝いなのよ」
L先生の用意した3つの冠には、「パパ」「ママ」「パパとママの子供・C」と書かれていたのでした。

度肝を抜かれました。
幼稚園という場で、子供が「養子になった」と堂々と発言できること、まわりに、それをいっさいタブーとする空気がないこと、日本ではとても考えられないことです。

でも、そう言われて改めて考えてみれば、アメリカでは「親子の血がつながっていない」というのはタブーでもなんでもなくて、ごく普通に受け入れられていることのようでした。
町を歩いていれば、親が白人で子供が完全な東洋系とか、一目見て「本当の親子ではなさそうだ」とわかる組み合わせの親子が、ごまんといるのです。
理由のひとつは、この国の離婚率の高さでしょう。
結婚するカップルの3組に1組以上が離婚する、と言われているアメリカでは、「離婚」も「再婚」も、ごく当たり前のことになってしまっています。
離婚歴があることや、連れ子がいることを問題にすることのほうがおかしい、そんな風潮です。
「元夫」「元妻」を表す「ex」という語も"step-father"(継父)"step-mother"(継母)という語も、日常用語として普通に使われています。

そして、もう一つは、養子制度が大変普及していて、多くの子供が「生物学上の親ではない」親のもとで育てられている、ということなのだろう、と思います。
実際に、この国での養子縁組の数は、日本の10倍ともそれ以上とも言われています。
なんと今現在でも、毎年数多くの日本の子供が海を渡って、アメリカ人の夫婦の子供になっているそうです。
そして、そのこと自体が、この国の側では、当然のこととして社会に受け入れられているのです。

TVの人気子供番組「セサミストリート」にもマイルズという子が養子として引き取られてきて、その日を「親子になれた日」として後々もお祝いしていく、というエピソードがあります。

ちょっと驚いたのは、「障害のある子を引き取って育てたい」という人のために、障害のある子供を専門に養子あっせんする機関まである、ということでした。
主に宗教的な影響ではないかと思いますが、同情や施しというよりも、「自分の人生の糧として」「本当の親の姿を学ぶために」わざわざ「障害のある子を」と選ぶ親が少なくない、というのです。そういえば、確かに、ちびくまの通う養護幼稚園にも、明らかに血のつながった親子ではない親子が数多く通っていました。
「障害はあっても、自分の産んだ子、可愛い我が子」なんて言っている自分が恥ずかしくなってしまうようです。

血のつながった親を殺す、血のつながった子を殺す、そんな殺伐とした事件のニュースを見ていると、ふと、あの日のC君親子の姿がよみがえります。
「親子ってなんだろう」
「血のつながりって、なんだろう」
そんな風に考え込んでしまうのです。

「ちびくまママの落書き帳」目次へ戻る