正式診断名の告知



CHDDでの検査から一週間後の12月21日、結果告知の日がやってきました。午後から、ということだったので、今回はパパも会社を早退して同席してくれることになりました。ところが、午前中から、雪がちらちら降り始めました。シアトルは秋から冬、春にかけて、ひたすら雨ばかりの雨の街ですが、雪が積もることは珍しく、少しでも雪が積もると、たちまち東京よろしくパニックになってしまいます。

案の定、コーディネータから電話がかかってきました。「雪で道路が封鎖される心配がありますので、来ていただくのは申し訳ないし、ドクターたちも大事をとって早めに帰宅したいと言っています。とりあえず、主任ドクターが自宅からお電話で結果をお知らせして、ご質問にお答えします。それでももし不十分と思われたら、ご連絡ください。改めて直接お会いできる機会をセッティングしますので」

その後ドクターから電話がかかってくるまでの時間が、どんなに長く感じられたことでしょう。3時間少したって、やっとかかってきた電話は、検査の最初に会った、ドクターDからでした。

「今日はこんなことになってすみません。お会いできるのを楽しみにしていたのですが。先日の検査ではご苦労様でした。大変可愛いお子さんで、私たちも楽しく検査をさせていただきました。それで、検査結果なのですが、検査に関わったスタッフ全員一致の意見で、お子さんはAutism Spectrum Disorderに間違いない、との判断になりました。」

Autismとは自閉症のことです。その瞬間、重いもので、ガツーンと頭を殴られたようでした。「Autism、ですか」やっとそれだけを言いました。

「そうです。Autism Spectrum Disorder、これがお子さんの正式な診断名です。まだ小さいので、機能的な面については検査ができないのですが、おそらく高機能自閉症かアスペルガー症候群であろう、という見解でも我々は一致しています。ですが、より正確に診断するには、あと1年か2年待って、もう一度検査をすることが必要です。」

「高機能・・・知能自体は正常レベルにある、という意味ですか?」
「そうです。検査の結果では判定不能ですが、私たちの経験から言って、お子さんのような反応をする子供は、知的能力自体に障害を持たないと見ています」
「でも、自閉症だということは、一生、完治することはない、ということですね」
「そうです。中枢神経の機能障害から来ているものですから、現在の医学では薬や手術で治療することはできません。一生涯にわたって、コミュニケーションや社会性の分野でハンディキャップを持つことになります」
「でも、例えば、療育による進歩の程度によっては、普通校で健常児と一緒に教育を受けることも可能と考えていいのでしょうか?」
「可能性はあります。今はちょっと無理ですが、7、8才くらいになってくると、将来どの程度まで能力を伸ばせるか、だいたいの予想もできるようになります。ですから、継続的に1年おきくらいで、検査を受けていただくのがよいと思います。
お薦めしたいのは、テンプル・グランディンという人の『Thinking in pictures』(注:日本では「自閉症児の才能開発」という題で出版されています)という本です。この人は自閉症ですが、博士号を持っています。私たちは、お子さんはこういうタイプの自閉症だろうと考えているのです。お子さんを理解するために、とても良い本ですから、ぜひ読んでください」

「・・・わかりました。ですが、まだ自分でもよく情報が整理できていないし、これからまた疑問が出てくると思います。それに、重大なことですので、やはり、主人にもドクターの口から直接説明していただきたいのです。コーディネータに年明けにでも日を設定してもらうよう、依頼してもいいでしょうか?」
「もちろんです。その時は私以外の検査スタッフも出席するようにしますから、各自の意見もお聞きになれるでしょう」
「ありがとう、ドクター、それではまたその時に」

受話器を置いた手が震えていました。「自閉症」「自閉症」その言葉が頭の中でわんわん鳴っていました。日本で「自閉症ではない」と言われたこと、School Districtの検査で「発達遅滞」に分類されたことで、障害があるとは認めながら、本当に自閉症だとは思っていなかったことに、初めて気がつきました。ここまできて、まだ良い方の可能性にしがみついていた私。その浅はかさに、更に鞭打たれることになってしまいました。

気がつくと、私はその場にしゃがみこんで泣いていました。ちびくまは何も知らずにニコニコと遊んでいます。世界中の光が、消えてしまったような、暗黒の中に、ちびくまが笑いながら座っています。涙で霞んだその姿の後ろに、電光掲示板のように、「自閉症」「障害児」「一生治らない」という文字だけが燦然と輝いているのでした。突然、世界のすべてから切り離されたように、何も感じなくなりました。私の可愛いちびくまは、その瞬間から姿を消し、そこに残っているのは、誰かの悪意から我が家に放り込まれた、「自閉症児」という化け物なのでした。

クリスマスもお正月も我が家にはやってきませんでした。「うちの子、こんなに立派に育ってるのよ」とでも言いたげな、友達からの子供の写真入りの年賀状を、すべて切り刻んで、燃やしてやりたいとさえ思いました。絶望と、怒りと、憎しみと、悲しみ、それだけが私たち親子を包んでいました。

年明けの1月7日、私たちはクリニックに行き、更に以下のような説明を受けました。

●自閉症は遺伝性の障害と考えられており、もう1人子供を産んだ場合、その子も自閉症である確率は、自閉症の子を持たないカップルに比べて倍になる。

しかし、それでも300人から500人に1人くらいの確率で、自閉症でない 子供ができる可能性のほうが高い。だから、必ずしも2人目を諦める必要はない。

●現在通っている療育プログラムは、障害の内容によく対応できており、とくにアドバイスすることはない。ただ、作業療法に感覚過敏を和らげるようなアプローチを加えた方が良いと思うので、クリニックのOTから学校のOTに直接インプットをしたい。

これと前後して、染色体検査の結果も出、現在の検査技術で検知できないレベルの異常がある可能性は否定できないが、少なくとも明らかな染色体異常はない、とのことでした。したがって、原因については依然薮の中、ということです。病院によっては脳のCTをとったりするようですが、今回の検査では「CTかMRIをとったことがあるか?」と質問されたのみでした。ドクターが現時点では必要ないと判断したためか、費用負担を抑えるためなのかはわかりません。

もう2度とちびくまのことで笑うことはない、と思ったほど、辛く長い暗黒の日々でした。
ちびくまを抱いて、冷たい湖に飛び込んでしまおう、と何度も考えました。しかし、養護幼稚園に入れた時点で、私が子供の障害について冷静に受け止めたものだと考えている回りの人たちは、私が取り乱していることすら気がつかないようでした。

ドクターから渡された参考図書を片っ端から購入し、読みふける日々が続き、その中で、今の自分の精神状態は、子供の障害の告知を受けた親が、誰でも通る道なのだ、とわかりました。「私だけじゃなかった!」自分の置かれた心理状態を理解し、ちびくまの障害について理解することで、私は少しずつ闇の中から光の世界へ戻ってきました。そして、それを大きく手助けしてくれたのは、不思議なことに、 障害児であるちびくま自身だったのでした。。(このあたりの詳細は「はじめての『おかあさん』」へどうぞ)

再び私の胸の中に戻ってきたちびくまは、もはや見知らぬ自閉症児ではなく、診断を受ける前と少しも変わらぬ、不思議でかわいい男の子に戻っていました

約1ヶ月半後には(当初は2週間後と聞いていましたが、アメリカはこのあたり、結構ルーズです(^_^; )書面でのレポートが送られてきました。これを読んで、だいぶ自分の中での情報が整理できるようになりました。

「自閉症スぺクトラム、とは、典型的自閉症から、ボーダー域に至るまでの、従来広汎性発達障害(PDD)と呼ばれていたものの総称であり、学校区の検査と診断名は違うが、それは用語の問題であって、典型的自閉症ではないがそれに似た発達障害で、中枢神経の機能異常からくるコミュニケーション障害であるという判断が変わったわけではない。」

このあたりが理解できるようになると、「自分の子が自閉症である」という事実が、ポジティブに考えられるようになってきました。つまり、この子がしゃべれなかったり、他の子ができることができないのは、私の育て方のせいでも、アメリカに連れてきたからでもなく、もちろんこの子が悪いのでもなく、 背が高いとか、髪がくせ毛というのと同じで、この子が生まれ持ってきた、個性なのだということ。ただちょっとその個性が強烈すぎるので、ただ漫然と育てていたのでは十分に能力が引き出してやれない。だから、療育が必要なのだ、と。

そしてもうひとつ、このレポートには力づけてくれるものがありました。各担当者がそれぞれ、私はちびくまのよき理解者だと書いてくれていたのです。
「(ちびくま)は明らかに母親を最も信頼できる人として愛情を寄せているのが観察できる」
「母親は非常に忍耐強く子供に接しており、子供の最大の理解者である」
「子供の感覚の繊細さや、些細な反応をよく観察しており、当検査を通じて貴重な情報提供者であった」

アメリカ人らしい、リップサービスなのかもしれません。でも、専門家たちから、「今のあなたでOK」というサインをもらえたことが、今までになかったほど、親としての自覚と自信を持つきっかけになりました。
「ママは急に大人になった」ちびくまの担任、L先生からこう言われたのもこの頃でした。
「ホームページを作ろう。私の来た道のりを見て、救われる人がいるかもしれない」
そう思い始めたのもこの頃でした。


表紙へ戻る「ちびくまのようちえん」目次へ戻る