ちびくま、バスに乗る


ちびくまが養護幼稚園に通園することが決まると、コーディネータのDさんが、「送り迎えはどうしましょうか?」と訊ねてきました。制度としては、自宅や指定の保育所へバスが迎えに行き、帰りも自宅か指定の保育所までバスで送り届けてくれるというのです。ただし、公道に面した一戸建てなら自宅の前に停まるけれど、我が家のように大規模アパートの場合は、その入り口までになる、との事でした。
「バスには助手の人も乗るのですか?」
「いいえ、ドライバーだけです」
「チャイルドシートはあるのですか?」
「いいえ、シートベルトがついています」

私は「ちびくまには無理だ」と思いました。車なら、チャイルドシートだからいいけれど、バスに一人で大人しく乗っているなんて、到底考えられない、運転中に動きまわって、怪我でもしたら…。
「それでは結構です。当分の間、私が車で送り迎えをします」
Dさんは、いたずらっぽく笑いながら、「わかりました。でも、私の経験では、どのお母さんもほどなく私に電話をかけてきますのでね。お気持ちが変わったら、いつでも電話してください」と言います。
「終了時刻は小学校と同じですので、迎えの車が大変込み合います。プリスクールのお子さんは小学校のピックアップ(迎えにきた車に子供を引き渡す所)では対応できませんので、少し早めにいらっしゃるようにしてくださいね」

言われたとおり、私はいつも早めに迎えに行くことにしました。スクールバスがなくなるミドルスクール・ハイスクールには大きな駐車場があるのですが、小学校には職員+αくらいの小さな駐車場しかなく、少しでも出遅れると、駐車場にさえ入れず、道で渋滞に巻き込まれてしまうのです。終業時刻の15分以上前に行けば、なんとか駐車スペースが確保できるので、本を持っていって、解散場所のベンチに座って、本を読みながら子供たちが出てくるのを待っていました。

終了時刻直前になると、バス乗り場にいっせいにスクールバスが横付けされます。映画やドラマでおなじみの、あの黄色いバスです。その中に混じった可愛いちびバス2台、これがプリスクールの送迎用でした。小学生たちは自分でバスのルートナンバーを見て乗り込みます。親が迎えに来る子や、親が勤めていて学童保育に行く子供たちは、学校の事務員さん立ち会いのもと、駐車場のピックアップポイントで迎えの車やバスに乗り込みます。

プリスクールの子供たちは、と見ていると、先生はカードのようなものを持っていて、バスのルートを確認しながら、子供を一人一人バスに乗せ、ドライバーが座らせてシートベルトを締めてやっています。一見して障害児とわかる、右も左もわからないような子供でも、発車まで、大人しく座っているのでびっくりしました。

ちびくまは、学校生活が始まってすぐ、スクールバスが大のお気に入りになり、“school bus” (「スクールバス」ではない)という単語もあっという間に覚えました。学校以外のところや、テレビなどで黄色いバスを見ると、“school bus、 school bus”と言って喜ぶようになりました。朝の集合時も、子供たちを送ってきた2台のバスが姿を消すまで教室に行こうとせず、帰りも、小学校のバスもプリスクールのバスも全部いなくなるまで、頑として車に乗りません。先生たちは、親に引き渡したはずのちびくまがいつまでもぐずぐず残っているので、不思議に思ったようです。
「どうしたの?」
「いえ、この子、スクールバスが大好きなので、バスが全部いなくなるまでここを動こうとしないんです」
「あっはっは〜。ママも大変ねえ」
こんな会話が何度も繰り返されました。

担任のL先生は、時間がある時にはちびくまに付き合って、一緒にバスを見送ってくれたりもしました。
「ねえ、ママ、見てごらんなさい。この子が興味ある物を見ている目。ものすごく知性が光っているでしょう。この子はね、内にものすごい才能と可能性を秘めている。ただ、普通の世の中と繋がれなくて、それが表現できないだけなの。この子がこの世界と繋がる術を教えたい。この子の中にあるものを誰よりも先に引き出したい。それが私の仕事なの」
L先生が目をキラキラさせながら語る言葉のひとつひとつも、やっぱりキラキラ輝いているように思えました。

さて、1ヶ月もしないうちに、ちびくまは皆と一緒に帰りのバスに乗り込もうとするようになりました。「あんたは駄目よ。お母さんと一緒に帰るんでしょ」とドライバーに言われると、そこにひっくり返って大泣きです。
「よっぽどバスが好きなんだねえ。中を見てみるかい?」
時々はまだ発車まで余裕のあるドライバーがそう言ってほんの少しだけバスに乗せてくれたりしました。
毎日毎日、大泣きのちびくまをバスから引き摺り下ろし、全部のバスが見えなくなるまで見送っている私たちに、ある日L先生が言いました。
「ねえ、ママ、私、ちびくまはバスに乗れると思うわ」
「えっ、でも…この子には一人でずっと座っているなんてとても…」
「大丈夫、もっと行動に問題がある子でも乗っているんだから」
「でも、チャイルドシートもないのに、大丈夫ですか?」
「どうしても心配なら、ハーネスという拘束具を付けて、自分では席を離れられないようにすることもできるし」
「そんなものがあるんですか?」
「ええ、でも、私はちびくまには必要ないと思うけれどね」

自宅に帰ると、コーディネータのDさんから電話がかかってきました。
「L(先生)がね、ちびくまのバスの手配をお母さんが考えているって言ってたから」とのこと。「大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫ですよ、みんなやってることですから」
「ハーネス、というのを付けてもらえますか?」
「う〜ん、あれはね。使うには親御さんの同意書がいるので…でも、バスルートを調整してバスに乗れるのに1週間はかかるし、大丈夫でしょう。必要な書類はLを通じて渡しますから、サインして返してくださいね。バスの手配が整のったら、本部からご連絡がいきますから」

翌日、ちびくまを迎えに行くと、L先生がこっちこっちと手招きをして、小学校のバスの中に呼ばれました。
「バスの中を見てごらんなさい。それから、彼はとても良い人だから、質問があったら、してみて」
空のバスの座席に早速座り、ちびくまはご機嫌です。ちびくまを指差して、L先生は言います。
「ねえ、この子、バスに乗れると思う?」
まだ30代前半くらいの若い男性ドライバーはニコニコして言います。
「大丈夫だよ。良い子のようだし、バスが気に入ってるみたいだし。もっとも、スクールバスが嫌いな子供なんていないけどね」
「ハーネス、持ってる?見せてあげて」
それは、赤ちゃんの抱っこひものようなもので、子供をすっぽり中にいれて、座席に固定できるようになっています。これなら大丈夫かな。でもやっぱり心配。

バスの手配が整のうのが待ち遠しいような、怖いような気持ちで数日が過ぎました。まだ連絡はこないのでとりあえずお迎えに行きます。すると、子供たちと一緒に来たL先生がニコニコして、「ちびくまは今日からバスに乗れますよ!」と言うのです。
「え?でも、まだ何の連絡も…」とまどう私に、先生はドライバーの所へ行って確かめています。「ねえ、新人デビューの知らせは入ってる?」
肝っ魂母さん、という感じのドライバーは車を降りてきて「ああ、来てるよ。これがその子かな。可愛いねえ。さ、バスに乗ろうか」さっさとちびくまの手をひいてバスに乗せてしまいました。「あの、でも、まだ本部から連絡もらってないし、私も心の準備ができてないので、明日から、という訳には…」
「それは構わないけど。でも、ママ、どうする?本人はすっかりその気になってるよ(笑)」
見ると、ちびくまはミニバスのシートにちょこんと座り、シートベルトも締めて、うきうきした顔で窓から外を眺めているのです。

「いまから降ろすとなると、それは大変でしょうねえ」L先生の目が笑っています。「どうせ明日から乗るんなら、今日から乗っても同じ事よ。さあ、今から家に帰って、バスが来るのを待ってた方が、ずっと楽だわよ」
私にも今更バスを降ろそうとすれば、どんなことになるかは想像できました。
「ええっと、家の前って、どこにいればいいんでしょう?」
ドライバーは可笑しそうに言います。
「あんたがたの住んでるアパートの前、○○ストリートの道から見えるところに立っていてくれればいいのよ!私のほうであんたを見つけるから」
「うちの子にはハーネスをつけてください。同意書は出してありますから」
「あたしゃ、あんなものは付けない主義だよ。見なさい、おりこうに座ってるじゃないの。大丈夫。ママはさっさと帰りなさい」

半ばきつねにつままれたような気分で、家まで飛んで帰りました。車をガレージに停めると、すぐ○○ストリートに飛んで出ます。とりあえず、建物の裏口から道に出たところで待つことにしました。どちらの方向からバスがきてもそこならかなり手前から私の姿が見えるはずだからです。腕時計とにらめっこしながら、待つこと約15分、見覚えのあるミニバスの姿が見えました。「あっ、帰ってきた!」

ドライバーは私の姿をちゃんと見つけてくれたらしく、停車予告灯が点滅しはじめます。私が立っている真ん前にバスが停まり、ドアが開くと同時にドライバーが笑いながら言いました。
「やったね!さあ、バスに乗ってあんたのかわい子ちゃんを降ろしてちょうだい」
ちびくまは、と言うと、ご機嫌でにこにこ笑っています。
「途中で泣いたり暴れたりしませんでした?」
「全然。ほんとにいい子だわよ。ママが心配するようなことは何もないわよ」
シートベルトをはずして、手を引いてうながすと、ちびくまはぴょんぴょん飛び跳ねるようにしてバスから降りました。スクールバス初体験は、ちびくまにとって本当に嬉しかったようです。やはりスクールバスが見えなくなるまで見送りたがることには変わりありませんでしたが。

翌日朝、L先生に会うと、開口一番、「昨日はどうだった?」と聞かれました。
「ハーネスなしでも、大丈夫だったみたいなんです。泣いたり、席を立とうともしなかったって・・・」
「それは良かったわね。ママが思っているよりちびくまはずっとお利口なのよ」
我が子の障害を理解しよう、理解しようとするあまり、あれはできない、これは無理、と決め付けていたのは私だったのだ、と今回は認めざるを得ませんでした。我が子が傷つけられないよう守ってやりたい、と思うあまり、過保護になってしまうことがこれからもあるでしょう。理解はするけど、甘やかしはだめ。保護はするけど、成長の芽をつんでは駄目。その微妙なバランスの取り方が、今後の課題かもしれません。

ちびくまはその後も全く問題を起こすことなくバス下園を続け、ハーネスの使用許可も「必要なし」として破棄されました。7月のサマースクールには、毎日1時間以上もバスに乗って帰ってきたのですが、ドライバーいわく、「全く問題無し。いつもご機嫌で乗っているわよ。ホントにバスが好きなのねえ。」
今手元にある、新学期のパス運行予定表(子供の情報や、バスのルート番号、発着予定時刻などが書いてあり、学校とスクールバス事務所と家庭に同じ物がある)には、「特記事項」にこう書いてあるだけです。「英語が不自由。指示は易しい単語で簡潔に」
バス初体験のドキドキはもう過去の話です。でも、将来もあの黄色いバスの姿を見るたびにあの日のことを思い出しそうな気がします。


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