@なつかしの大銀杏 桶川南小学校
母校の南小は、20年近く経った今でもあまり変わっていませんでした。
時間外で校舎内に入ることができなかったため、外からきょろきょろ覗き込むしかできませんでしたが、あいかわらず中庭小さいなあ……たしか、トラックも一周200mないんですよね。懐かしい。
南小は明治5年に「興川小学校」として桶川で一番はじめに作られた学校だそうです。
北小学校は、それから80年以上経ってから、南小の分校として作られたそうです.
シンボルの大銀杏も元気でした。
A小林材木店の建物
南小の裏手に回り、中山道まで真っ直ぐ進むと、右手の角に、白壁の宿場町風情漂う建物があります。
向かって右側はコーヒーの美味しいカフェです。
建物は、江戸のおわりから明治の初めにかけて作られたもので、表に「古久屋吉見右衛門」の名前を記した表札があるそうです(未確認)。
地図によれば、この辺りに
問屋場跡・脇本陣跡があるそうですが、いくら探してもないし、人に尋ねても知らないという…。
小林材木店のとなりのとなりにあるお米屋さんに尋ねた時、
「この米屋の場所が、昔問屋場だったんだよ」
そっか〜…。
問屋場は、旅のお侍さんやお坊さんなどが乗ってとなりの宿まで行くための人馬をそろえたり、
幕府のえらい人が出した書類を目的地まで届ける飛脚を用意していた施設でした。
今の島田洋品店と吉田酒屋にあたるところが「問屋会所」のあったところで、
島村一番館あたりに脇本陣内田家、その前に高札場があり、通行人が利用する人馬のお金の定めが掲げられていたそうです。
B中仙道の真ん中からお引越し
「市神神社」
北本方面へ真っ直ぐ進むと、TOWA銀行の真ん前に「市神神社跡」があります。
市神様は、昔は中仙道の道のド真ん中に、東南の方向をむいてすわっていたんだそうです。
車が往来するようになってからは、交通のさまたげにならないよう、桶川稲荷神社に移し、
八雲神社として合社されました。
毎年7月14・15日に行われる「祇園祭」は、1738年に、この市神神社の前で初めて行われたんだそうです。
徐々に鉾山車(ほこだし)や御輿(みこし)が造られ始め、市神の社前で7月の14・15に行うということも決められていったようです。
昔は、町内ごとに祭に使う人形を、わざわざ京都まで作らせに行かせたそうです。それだけ、すごいイベントだったということがわかります。
C大雲寺
桶川図書館の真ん前で、さりげなく存在感を放っている大雲寺。
実は1557年から始まった古いお寺で、府川家など、桶川の歴史をつくりあげてきた家のお墓が多くあるそうです。
D一里塚跡
北小の前から中山道に向かって伸びている細い道の、歩道橋の下にあります。
一里塚は、江戸日本橋をスタート地点に一里ごと(約4kmごと)に建てられていました。
(高速道路のキロポストみたいなもの?)
桶川にあった一里塚は、こんもりと盛られた塚の上に杉の木が植えられ、その足元に「妙見様」をまつったほこらがあったそうです。
一里塚に植える木は、5種類ぐらいの中から選ぶようになっていて、杉は結構ポピュラーな品種だったようです。
旅人は一里塚の木に励まされ、暑い夏の日は木陰を利用して休んだのでしょう。
E松山街道のみちしるべ
中山道に出て、北小の北端に沿って歩くと、小学校の敷地内にみちしるべを見つけることができます。
江戸の中頃から、東松山(現・東松山市?)にある「箭弓神社(やきゅうじんじゃ)」は、招福除災の神として庶民に信仰されていました。
このみちしるべを建てたのは、はるばるはるばる東京から、この神社に参拝に行っていた、東京日本橋の魚河岸の人たちです。
「魚が売れますように!!」というお願いにきたのでしょうか。
参拝の道すじとして使われていた
松山街道は、桶川から西に向かい、下石戸村を過ぎ、荒川の渡しを経て松山に通じていたそうです。