習志野市立第6中学校 3年 A組 猿田 諒介 題名 真の平和を願う

戦後60周年という区切りの年に代表団員として長崎を訪れることができ、いくつもの貴重な体験をすることができました。

原子爆弾によって片方をなくした山王神社の鳥居、一瞬にして見るも無残な残骸となった浦上天主堂。何千度もの熱線により瞬く間に塊となった、ビール瓶や鉄骨そして人の骨。爆風によってコンクリート3階建ての校舎が破壊され外で草取りをしていた、生徒や先生方は即死したということなど、3日間でみてきたすべてが、衝撃的で考えることのできないことばかりでした。大きさがたった2メートルほどの原子爆弾によって、これが本当に人間?これがあんな太い柱?と眼をうたがってしまうほどに破壊してしまうこの兵器は、2度と使われてはならないものだと心に刻んできました。

体験してきた中でずっと心に残っている言葉があります。それは、1917年アメリカでハイラル・ジョンソンが、言った言葉「戦争になると最初の犠牲者は真実である。」です。初日、被爆者の山川さんの講和のなかでこの言葉をききました。山川さんはこの言葉を証明する出来事は、いくつもあるといいます。ひとつはアメリカでの現状。原子爆弾の開発は秘密に行われていました。ですから国民はもとより、副大統領まで爆弾がおとされるまでその存在を知らなかったそうです。さらに日本では教育によって真実が犠牲になりました。よく、学校で武術を学んでいる写真など見かけますが、そのまま見ただけでは真実はわかりません。実際に学んでいた方に聞くと、武術などをふくめ人を殺す方法を教えていたようだったといいます。戦争は子供達にまで影響してしまいました。

1945年8月9日11時2分長崎に原子爆弾はおとされました。ほんの十数秒のうちに、熱線と放射線を含む光とあつすぎる爆風が長崎を跡形も無く破壊しました。被爆地から少し離れたところにいた人も熱線によって火傷を通り越して皮膚が塊となりはがれ、苦しみました。しかし戦争末期ということもあり治療する薬品がありません。消毒しかできないのですから、かろうじて生き残った人でも死んでしまうことがあったそうです。さらに今日に至るまで放射線の後遺症により薬を飲みつづけなければならない人はたくさんいます。今、自分の身がそうであったらと考えると被爆した方の無念が伝わってきます。残念なことに原子爆弾は一時的で体的な傷のみならず、今でも残る後遺症や心の傷までも長崎の人に与えてしまったのです。

被爆後、放射線について研究し、原爆の悲惨さを伝える本をかいた永井博士。長崎が最後の被爆地になるようにと願って書かれた歌や詩を書いた人。いままでには数え切れないほど多くの人がこの世から核兵器がひとつも無くなるよう訴え続けてきました。その成果もあって昔に比べれば核の量は少なくなりました。しかし、地球から1発も残らぬよう取り除かなければ意味がありません。なぜなら、1発によってこれだけの被害がでるのですからその1発も残してはならないのです。ましてや戦後も核実験によって性能のよくなった原子爆弾やより強力な水素爆弾が開発されているとなればなおさら取り除かなければなりません。いまだに世界には約3万発もの核弾頭があるといいます。真の地球平和を求めるのであれば先は長くとも、全部なくなるまで訴え続けなくてはなりません。嬉しい事に僕が見てきた平和記念式典には外国の方も数多く参列してくださっていました。もっともっと多くの外国人に原爆の正しい知識をつけてもらえると、より核廃絶につながっていくと思います。しかし、被爆60年ということからもわかるように被爆された方々はだんだん年を取ってきています。ですからこうした経験を生かし、僕らが平和を語りついで行かなければならないとおもいました。

もし間違いがあれば連絡お願いします。

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