昭和63年(社)尾鷲青年会議所発行 紀州の奇祭 尾鷲ヤーヤ より 抜粋
尾鷲神社祭礼、(ヤーヤ祭り)は、祭礼期間中 毎夜各町の若者衆が 町を練る行事「ヤーヤ」が 通称となったもので、この「ヤーヤ」の名称は、戦国時代武士の立合いの名乗り(ヤーヤ我こそは・・・・)に由来するものと言われています。
この祭礼を司る宮座の親方衆は、享保20年(1735)の子文書によると、当初一番、庄司・世古・北村、二番、仲、三番、田所別当・林の諸氏でした。
この三つの当(祷・党とも書く。以下同じ)は、天正10年(1582)に新宮の堀内安房守氏善が尾鷲を攻めたとき、中村山に主陣をおき、右翼に山の神砦(古戸野)、左翼に関山砦を備えて戦った三つの陣地を意味するものであるとされています。
ヤーヤの練りは、この戦いで尾鷲勢が迎え撃った様をまねたのが、現在の練りの姿であろうと言われています。
ヤーヤや手踊りなど 氏子が奉納する余興を楽しんでもらうために、神にお出ましを願い、神殿の扉を開けるという意味です。
扉開きには十一時三十分くらいから 三つの当務町と十七の手伝い町から 高張提灯を掲げた総代や町頭など 各町の代表が続々と神社に詰めかけ、境内は大小の提灯明かりで不夜城の賑わいを広げます。
約二百人の関係者が厳粛に神のお出ましを出迎えます。
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扉開き出発前 近くの会館に集合し酒を酌み交わしながら談笑 |
午後六時ごろから当務町がそれぞれ尾鷲魚市場岸壁で垢離をかいて神社に参拝します。
午後七時 すべての当務町と手伝い町が 神社を出発。海水で道中を清めながら 約三百人の行列が市内を二時間がかりで歩き 全町に祭りの始まりを知らせます。
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| 将党を先頭に津々浦々を歩く | 当受町の前で尾鷲節の笛太鼓 |
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| 将党が当屋へさしかかる | 当屋での御神酒の振る舞い |
二日の夜からヤーヤが始まります。
現在は白ズボン白シャツ姿となり「裸祭り」ではなくなりましたが、明治大正時代までは褌ひとつの裸姿だったようです。各町の若衆は町頭の振る提灯の合図に従って一糸乱れぬ行動をとります。
この集団が「手伝い」と称してなぐり込みのような「押し合い」を当屋の町に仕掛けます。
三回押し合った後は、当屋の町に合流して次に来る町の「手伝い」を待ちます。
徐々に当屋の集団は大勢になり 後から「手伝い」に来る町は苦労します。
押し合いの時の掛け声は「チョウサジャ!チョウサジャ!」と言います。
チョウサは丁歳であって十五歳になって初めてヤーヤに出られるとき、清酒一本を添えて町頭に参加を認められ、練りの時に私も十五歳です!とチョウサを連呼する成年儀礼であると言う説と
チョウサは超歳であり、新年を意味するもので、本来正月の祭りであったことから 新年の祝い言葉であるという二説があります。
そしてこの後、各当務町の将党(ショウド 当屋に神様が居るという象徴))が ヤーヤを従えて毎夜尾鷲神社にお参りします。その際 必ず海岸に立ち寄って当人、汐撫、弓射など主立った主だった役人が身を清める意味で海水により垢離をかく習わしになっており、高張提灯をかざす闇の海中へ威勢よくザンブと飛び込みます。
| 私も練ってしまったので写真とれず |
二月五日正午より一番当を先頭に 二番当、三番当の順に 林町から旧熊野街道を 尾鷲神社に宮登りをします。これは当人たち一行の正式参拝です。
一行とは汐撫、前裃、当人、後裃、弓射、矢取、長刀振、大弓持、飾弓持、神飯持、甘酒持、の順序で、前裃、後裃は当人の身内の者、弓射は中学生、矢取以下は子供で最後の二人は女子です。この一行を広い意味での将党(ショウド)と言います。
行列の先頭は神楽や若者の練り、その後に当受町の尾鷲節踊り、次に当務町の槍、種子島銃を持った子供たちの列の後に将党が続きます。それに各手伝い町の子供の手踊りなどが続き、三つの当が神社へ全部集合するのはすでに当たりも薄暗くなった夕方になります。
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| 朝7時30分 集合 | 前夜のヤーヤーの話に花が咲く 右端が私 |
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| 今年の高町の出し物は「よさこいソーラン」 ドッコイショ!ドッコイショ! |
当屋前にて 奥に長刀振のすがたも |
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| 我が町 高町をくまなくお披露目 | 化粧をした子供たちがかわいい |
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| 他町も続々と出発地点に集合 | いよいよ 旧熊野街道へ 沿道も見物人で大にぎわい |
暗くなると境内にはかがり火が赤々とたかれます。弓場は各町の提灯で囲まれ昼のように明るくなります。
汐撫が海水で弓場を清めます。いよいよ弓射の奉納です。
約14mの距離から三当の弓射が二本ずつ射ます。その後 紋付き羽織袴を身につけた可愛い「矢取り」役の子供が射た矢をとってきます。
矢が的の中心に当たった当務町は後で伊勢神宮へお礼参り(星祭り)をする習慣があります。
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| 弓場の賑わい | |
弓射が終わると御獅子の出御です。獅子頭を宮司が頭上にいただいて、おもむろに一の鳥居まで歩いていきます。御獅子が本殿に帰る際、右回りで帰れば山方がが豊作、左回りの時は浜方が豊漁とされています。
豊凶を占う神事のため、若衆たちは自分たちの方へ向かせようと 御獅子じゃ!御獅子じゃ!の掛け声とともに 凄まじい勢いで練り合います。
この神事に欠くことのできない御神宝の獅子頭は、雲慶作と伝えられる制作年代の古さに加え、初春の豊凶占いも長く続いているので、昭和四三年、三重県有形民俗文化財に指定されました。
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| 御獅子の練りを終えて 息が上がっています。 |
もう出来上がってます |
祭礼もすべて終了し、来年の当務町に当を渡す儀式が 親方衆立ち会いのもと 盃を交わし行われます。
そして新旧の当務町がバトンタッチして祭りは幕を閉じます。