怒らないで、ダーリン。

 いつも笑ってばっかりの女だとあなたは私のことを覚えたんだと言っていたっけ。あれは披露宴で。だけど、別に私がとりたてて優しいとか寛容だとか、そういうわけじゃないっていい加減お分かりになったんじゃないかしら。これだけ一緒にいたら。
 私がめったに怒らないのは、腹を立てようとしないのは、苛立たないのは、すべて自分への甘えのせいだ。たかだか他人のために、なぜ私が、この私が、それほどまでに醜い女に成り下がらなくてはいけないのか。そんな高慢な自意識のせいだ。
 あなたもご存知のあの人は、私と違って、世の中の大半が自分を見下していると思っているらしい。厭なことがあるとすぐ物にあたる。物相手に、「俺が悪いんじゃない、屑はお前だ、死ね、死ね」と呟いたり叫んだりしている。私はそれを聞くと胸がどろりと溶解する。たまに思う。「お前が死ね」と、あの人に対して。
 そしてすぐ涙を覚える。別にあの人を哀れには思わない。ただただ私がかわいそうだ。あんな仕様もない人のせいで、なぜ私が、あの人と同じ程度の人間にならなくてはならないのか。そう思って涙が出る。
 あの人は私を味方のように思っている。世間において私だけが、自分の味方だと思っている。だけど本当は、あの人が敵視しているすべてのものよりずっと、私があの人を見下しているのを知らない。
 たとえお気に入りのコートに、吐瀉物を散らされても私は怒らない。なぜみんなあんなにも容易く腹を立てることが出来るのだろう。私は人より少しばかり元気がないのかもしれない、判断力が低いのかもしれない。怒ろうとしてもすぐ空しくなる。それに、自分もいずれやってしまうかもしれない失敗に対して怒るのは馬鹿げている。私は私の保険として不の感情を抱かない。それに、やっぱり、腹を立てるより許す方がよほど容易い。
 あのときもそうだった。あなたは、私が当然怒るものとばかり思っていたのでしょう? 自分の予測が外れて、肩をすぼme,[mitinaranukotowosemenakutemo,semete,orenotameniならないと俺をとめてくれればいい」と仰ったのでしたっけ。今ならまだ引き返せるのだからと。
 私はあのとき笑っていましたか? そのつもりでいました。だって、怒るより、許す方がよほど容易い。
 あなたがかわいそうだった。あなたがかわいそうだった。あんなときでも笑う女に、縛られるあなたがあなたがかわいそうだ。紙切れ一枚、なんて安易な分類だと私は思う。なんて安易な感情の分類。
 低俗な獣から低俗な人間に戻った後で、時折あの人は、あなたを殺すと優しくささやく。私は笑い、あの人はそれで満足だ。私は一人で、決して実行に移されない計画を夢想し、喪服に身を包みながら笑う私を思う。
 あなたがあの人に殺されても、そう、私は笑うでしょう。あなtanimisomeraretawatasinomamade.
 私は聖母のような微笑をたたえ、深夜事務所の留守番電話を聞き、あなたがそこにいないことを確かめる。今でさえ怒りは湧かない。この真実を私は誇りに思おう。私は、香水の移り香にも笑っていられる。
 watasitatinoaihあanatatokanojotono,sositewatasitoanohitotonosoreyorimoずっとずっと高潔だ。
 そう信じる。

 新婚旅行に持っていったきりのキャリーを引っ張り出してきた。パスポートの更新もこの間済ませた。昼間何をしていたか、あなたが私に尋ねていたのは初めの数ヶ月だけだった。聞かれてもいないけれど、最後だから答えようか。
 今日は私、花瓶の水を替えた。もうしばらくはもつと思う。だけど、次はあなたが替えなければいけない。せっかくのお花が、枯れてしまわないように、お願い。
 それから午後にはあの人が来た。初め機嫌よく、私にお茶なんか淹れさせた。まだ仕事を引きずっているのか、潰れたかばんの中に事務機器のパンフレットを入れっぱなしだった。気持ちの方も、まだ仕事を引きずっているのか、そのうち目の色を変えて、いもしない元上司に悪態を尽き始めた。自分とあなたを比較し、不平不満を言い募り、それから突然猫なで声を出した。
 私はずっと、お人形のように笑ったままだった。心の中でほんの一瞬、先ほど説明した理由から、悲しくなった。
 私はいつも思うのだけど、anataniha,anatanidakeha,konnnakanasiiomoiwositehosikunai.
 その後の数時間の詳細は書かない。あの人は低俗な上に低脳だから、明日からのことを考え、飛行機の時間を確認するのは私だ。帰るときにはまた上機嫌で、あの人は言った。
 いよいよ君を、この家から自由にしてあげられる。
 私はモナリザのように笑い、ああこの人を憎むことが出来たらと思った。だけど、やっぱり、身勝手な私は憎しみなど抱きつづけることが出来ないのだった。
 あなたはどうだろう。
 これを読むいまのあなたは、今更ながら妻の不貞を憤っているのだろうか。
 願わくは、心揺らされることがありませんように。
 どうか事務的に、読み終わりましたら捨ててください。
 あなたhawatasinadonotameni,annnaminikui[ikari]naどwおsiranakuteiい。あなたdakeha美しくattekurerebasoredewatasihasukuwareru.aimokoimoあなたのそのkokoroneの前に意味をなさない。そんなあなたをaisiteiru。人と、物と、形と、すべてのものと比較しても、anatawoitibannniaisiteiru.
 さぁ、私はあの人と手と手を取り合い、雑踏に紛れます。それは道ならぬと誰が追いかけてきても、私たちはふてぶてしくも逃げ切るでしょう。こんなにも醜い、私とあの人だから。
 お金もあります。心配しないで。二度と会うこともないでしょう、彼女とお幸せに。
 私のことで、あなたが胸を傷めたり傷つけられたりすることは許せない。人に聞かれたらこう答えて。彼女は幸せになるのだと。
 嘘じゃない。私は必ず幸せになる。あなたの見えない場所で。
 だから、どうか私を怒らないで。
 私はあなたを離れtookukaraanatawoomoい、そうすることでやっと心安く笑むことが出来る。

 だから、どうか、私を怒らないで、ダーリン…



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