フォーカス(前編)

 穏やかな笑顔に黒いリボンがかかっている、そんな不釣合いに目を奪われ、焼香のそのときまで、彼がいることに気づかなかった。
 あ、と心の中で呟いた。この場所で、不在によって主役となっている叔父に、圭、と呼ばれていた人。彼はそのまま席につかず、小さな公民館を出て行こうとしていた。
 誰が教えたのだろう。なぜ納棺までいてくれないのだろう。司は思わずパイプ椅子から腰を上げかけ、隣に座る母に注意された。遺影に目を戻す。叔父が笑っていた。いつでも優しかった。叔父なら…追っているだろう。
 追っているだろう。当然だ。
 トイレ、と母に耳打ちして、司は席を立った。邪魔にならないようにすばやく会場を抜ける。中3としては小柄な方だ。
 スリッパをよれたダンボール箱に投げ入れ、履きなれない黒い革靴をつっかける。前につんのめりそうになりながら、司は公民館の重いガラス戸を押し開けた。
 …白い光を、ガラスの反射か何かと勘違いしていた。瞬間思う。眩しいものがある。顔に水滴が落ちてきて、司は凍える息を吐いた。いつのまにか、雪が積もっていたのだ。
 質量が増したようにさえ思える曇り空。今は止んでいるが、一時激しく降ったらしい。数センチの厚みで、道路や、受付の机を置いてある小さなテントの上に、雪が積もっていた。
 司は身を屈め、靴を履きなおした。道路には人が一人いた。喪服ではない。通りすがりにしては、足を止めて司を見ている。知らない人間だ。スタジアムジャンバー。ごついカメラを手にしている。思わず司はその男の、頭のてっぺんから足の先までをまじまじと眺めてしまった。それから、状況を思い出し少し照れた。自己嫌悪とまではいかないけれど…。
 「すみません、あの、俺の前に、男の人が一人出て行きませんでしたか?」
 照れ隠しに声をかけた。男は「ああ、」と低く呟いた。
 「そっちの通りに行った」
 23歳くらいかな、と司は判断した。一体こんなところで何をしているのか知らないけれど、弔問客には見えない。どうも、と一礼し、男の指したバス通りへ急ぐ。
 角を折れると、20メートルくらい先でタクシーが丁度発車したところだった。助手席にはおそらく、「圭」。
 (あー…あ、俺のバカ)
 司は反射的に自分を責めたが、圭を呼び止めて何を言いたかったのか自分でも分からなかった。ただ、追ってみたかっただけかもしれない。コートも持ってこなかった。学らんの腕をさすりながら、すごすごと取って返す。先ほどの男は、まだそこにいた。見られていると意識して、司は無意識に姿勢を正した。
 「…あの、式に…来られたんですか?」
 男はつと視線を逸らした。気まずかった。吐いた息が目の前で白く染まる。
 「……叔父の……お知り合い…ですか…?」
 「…いや、」
 男は一度否定して、それから少し笑ったようだった。唇が歪んだ。笑ったにしろ、あまり気分のいい笑い方ではない。
 「いや、強いていえば、知り合いの知り合い、か」
 司は男を見上げた。背が高いのだ。顔は小さい。手の平は大きい。
 「じゃあ、中に入らないんですか?」
 「撮影許可が下りるなら」
 男はおどけた様子で肩をすくめた。
 「俺は、カメラなんぞやってるもんで、こいつを手放せないんだよ。こんなかっこの奴が中に入って、それもいい絵と見たらシャッター押しちまう…のを、許してくれるなら邪魔するぜ」
 司は男の台詞をゆっくりと噛み砕いて理解して、それからようやく頭に来た。叔父の葬式に、この男は野次馬としてやって来たのだ。
 圭の後姿を思い、それから中にいる祖父母や、父のことを思った。怒りが、足の方から胸まで這い上がってきたとき、司は男の顔を手の平で強く叩いた。
 「帰れよ!」
 そう叫んで、会館の扉に手をかけた。
 「…加賀―――でいいのか? お前も」
 そこで、名前を呼ばれて振り返ってしまったのが悪かった。ストロボの閃光。目を焼かれ、司は瞬きを繰り返した。
 「フォーカス」
 男はそんなふうにふざけて、構えたカメラを下ろした。司はぎっと唇を噛んで睨み返し、何か言い返そうとして言えなかった。
 水滴が、ひさしからぽつぽつと落ちて、司の額や頬を濡らした。冷たくて、降りたての雪は白かった。叔父の死を馬鹿にされることが悔しくてたまらなかった。殺してやりたいとさえ思った。ああ。
 死んだのだ。
 あの人は死んだのだ。
 司は扉をゆっくりと閉めた。それから、冷たいガラスに背を預けた。涙が垂れた。やっぱり、圭と話がしたかった。外ではまた、雪が降り始めたようだった。


 圭は、司の祖母に呼ばれて葬式に来ていたのだと、後から司は知った。呼ばれて、というよりは、許されて、の方が正しい。葬式には来てもよろしい、ただしその後は一切の権利を主張するな、というのが、「こちら」側の意見で、圭に反論の余地はなかったという。
 それを聞いて、司はひどく後悔した。
 やはりあのとき呼び止めておくべきだった。連絡先を聞いておけば、遺品の一つや二つ、渡せたのに。
 司は「圭」のフルネームも、住所も知らない。叔父の手帳などを探れば判明するだろうが、そのあたりのものはすべて祖父母の元にある。司に出来ることといえば、形見分けに何か、と言われたとき、自分にとっての思い出の品と一緒に、何か形に残る、「圭」への遺品をキープしておくことだけだった。
 あちらからコンタクトを取ってくれれば、とも思ったが、圭だとて、司のことをほとんど知らない。数度、叔父の家ですれ違った程度で、向こうは司の顔さえ覚えているか定かではない。
 司も、圭についての一番印象的な記憶といえば、叔父の呼ぶその名前なのだ。
 「圭」。
 両親には苦い顔をされたが、司はそれでもこっそりと、叔父の家を訪れていた。クラブ活動で疲れているときや、定期テスト後の自由な時間、予定のない休日など、中学生の司にとって、そこは一つの隠れ家だった。
 叔父は、家にいないときが多かった。たまにいても、お互いほとんど無干渉で、一度司がコーヒーを入れたときは驚かれた。けれど喜んでいたから、決して司の存在を疎ましく思っていたわけではない、と思う。ただ、人付き合いが極めて苦手だったのだろう。反対に司は社交的な方だったけれど、外の世界で愛想よくしている反動か、叔父の家では大人しかった。ソファで寝るか、叔父の書架を漁るか、フローリングで転がっているか。本当に迷惑でないものか、時折不安にもなったが、一人身の叔父の不器用な好意はたまに感じていたし、何よりその場所にいると、司自身とても安心できた。パワースポットか、癒しの場か、そんなものだった。
 そしてあるとき、叔父が彼を家に連れてきたのだ。その家に他人が招かれるのは初めてで、司は少し戸惑った。寝転がっていたソファから身を起こし、「帰った方がいい?」と叔父に尋ねた。
 「別に構わないよ」と叔父は笑って、それからいつものように、司がそこにいないかのように振舞いだした。安心したけれど、だからといってもう一度横になっていいものか迷っていたとき、叔父がその名を呼んだのだ。
 「圭」
 伸ばしっぱなしの語尾ではなくて、きちんと、最後の「イ」の音まで発音した。圭。司はそれを聞いて、急に居たたまれなくなって立ち上がった。
 「俺、やっぱり帰るね。ありがとう」
 忙しなくそう告げて、叔父の家を出た。頬が赤くなっているのが自分でも分かった。
 もちろん、その一言ですべてを悟ったというわけではないだろう。以前から薄々感づいていた。少しずつ、メモリが増えるように、司は理解していたのだ。その結果の、最後のベールをはいだのが、「圭」、という一言だった。
 あの優しく穏やかな叔父が、祖父母と不仲な理由。
 叔父と、昔は仲がよかったという司の父が、今では互いの元を訪れるたびため息をついて帰ってくる理由。
 司が叔父の家に行くことを、秘密にしなければいけない理由。
 圭、という存在。
 そして司自身が、あの家でなら、楽に息が出来る理由。
 「まぁ…病気とかでなくて…よかったのかもな…せめて」
 叔父は、酔っ払い運転のトラックに轢かれ亡くなった。父はそう言った。いつどこで、かは、司は覚えていない。忘れようとして本当に忘れてしまった。ショックだったのだ。
 この場合の「病気」というのは、要はエイズのことで、そんなふうに父が言ったことが、司にはひどく胸に痛かった。
 圭、と口に出して呟いてみる。叔父のようには呼べない。そして無性に、罪悪感にかられるのだ、司は。
 まるでそっちの方が幽霊のように、葬式に出席していた圭。彼は、叔父を轢いたトラックの運転手が、真っ白な顔で畳に額を擦り付ける姿も見てはいない。叔父の最期の日々を、一番間近で共有していた人が、式の場でおおっぴらに悲しむことさえ許されず、望んでも同情を乞えず、残された痛みを分かち合うことさえ出来ない。
 中学生の司は無力で、圭にそんな無言を強いる力に、対抗する術も知らなかった。家にいることが、耐え切れず息苦しくなったのは、やはりその頃からだった。

 司は、有名私大付属の中学校に通っていて、高校も、その付属への内部進学が決まっていた。進学テストで主席を取ったら、寮に入らせて欲しい。そう持ちかけると、両親は当然いい顔をしなかった。部活も勉強ももっと大変になるから、と司は説得を重ね、結局、主席など取れるはずないとの楽観も手伝って、その約束は成立した。
 それから試験までの約一ヶ月、司は鬼のように勉強した。しかし家では、そんな素振りを見せないようにした。そこまでして家を出たいと、両親に気づかせるのは酷だと思った。一人息子なのである。その一人息子が、ゲイだなんて知ったら。そんなことを考えるときの恐怖が、また司を後押しするのだ。これ以上家にはいられない。絶対にいられない。叔父のことがあって、両親はどこに出しても胸を張れる立派なホモフォビアだ。隠しつづけることが辛いとか、騙すのが心苦しいとか、そんな次元の問題ではない。息苦しいのだ、とても。そんな話題が出ようと出まいと、そこはすでに司にとって「ずれた」世界だった。もちろん、叔父の生き様を回想すれば、理想郷などどこを探してもないことは分かっていた。せいぜいが、そのずれを自分で出来る限り是正し、少しでも居心地のいい、楽に息が出来る場所を、作り上げるしかない。
 しかしやはり、今の司にとってそれは物理的に不可能だと思った。今はまだ無理だと思った。子供だからだと思った。圧倒的に無力で、何も出来ない無念に、司はがむしゃらに勉強した。それまで学年2〜30番代の成績だった司が、その年の私立誠條大学付属高校内部進学テストで一位の座についたのは、そんなわけだった。

 「ってーことでね、俺も俺で苦労してんのよ。その俺の! 誠心誠意真心こもった、たぁいせつなノートを、ただで写そうなんて甘いんじゃないかなぁ?」
 「だって加賀、同じクラスの飛鳥には貸したんだろ?」
 「ふはは。愛」
 「誤魔化すなって」
 高校に入って初めての定期テストが控えていた。司の成績の貯金はまだたっぷりとあって、今年誠條に入学してきた外部組などと比べれば、今回のテストも楽勝に思えた。
 だからといって、人の勉強に手を貸す義理はない。いや、分からないところを教えるくらいならいつでも大歓迎だが、本人の怠惰を甘やかすのは教育上よろしくない。
 「誤魔化してないって。飛鳥はバイトで疲れてて、不可抗力で、授業中何回か寝ちゃってて、そのときのノート見せたげただけ。藤澤は違うじゃん」
 「進度についてけないんだよっ」
 必死に懇願しているのは、3組の藤澤知(ちか)。小学校から誠條にいる、生粋の内部組だ。加賀とは、中学2年のとき同じクラスだった。
 「人のノート見るくらいで理解できりゃ初めから苦労しないと思うけど。…まぁいいや。あのね、俺はね、なんてったって優しいから、藤澤一人くらいに写させる分には全然構わないわけよ。けどねぇ、そっからコピーが流れて、好みでもない輩に俺のノートが利用されるのはやだなぁ」
 「……加賀」
 「藤澤だけが見るんなら、いいよ」
 「…分かった。ノートのために仲間を売ろう」
 「後、報酬にデート一回」
 「おぅ」
 藤澤は、手渡された数学と物理のノートを大事そうに抱えた。司はけらけらと笑い、「これも援助交際の一種かなぁ」などとからかった。
 藤澤は大財閥の次男坊で、なんというか、整った顔立ちをしている。司とどっこいどっこいに背が低いことを除けば、かなりの高得点。ノートを貸すのは、「お友達」だから、だけれども。
 嵐のような勉強漬けの日々を終え、ふと気が付くと、随分友達が減ってしまったなぁ、という感じだった。その場限りの馬鹿騒ぎをする仲間ならたくさんいるけれど、深入りしてくる友人といえば、大分数が限られてしまった。特に外部から入ってきた男子の多くは、司を遠巻きにしかしない。嫌われたかな、嫌がられたかな、司は苦笑するが仕方ない。俺はゲイだよ、と冗談めかして言うようになって、やはり何となく空気は変わった。ゲイだからって、誰彼構わず襲うわけはないのに、どうも警戒されている。俺にだって好みはあるんだけどなぁ、というのが司の感想。女子からの人気はうなぎのぼり。高校に入った途端みんな色気づいて、異性の目を気にするようになった。だから、司に対しても、幼い反応は誰もしない。基本的にお行儀のいい学校だ。助かっている。少しの妥協さえすれば、大分過ごしやすくなった。
 父母には後ろめたいが、寮に入って本当によかった、と思う。部活動に参加していない現状は、多少公約違反かとも思う。中学時代は柔道部で、その頃の戦友など、今でも熱心に勧誘してくれるのだが、何となくもう入る気がしない。嫌がられるかもしれないという不安もある。それに、帰宅部の放課後がこんなに長いとは。
 学校が引けた後、司はいろんなところに遊びに行けた。居場所を分散させることで、酸素不足はましになった。入学してすぐ、いわゆるゲイ・バーをインターネットで検索して、恐る恐る足を運んでみた。そこは、叔父の家から電車で3駅。司はまだまだ未成年なので、初めは顔をしかめられたけれど、叔父の名前を告げ、人を探していると言えば同情された。案の定、叔父はその店を訪れたことがあったのだ。
 「ケイちゃんね、うん、一緒によく来てたよ。でもあれからは、そういえば全然…かわいそうにねぇ」
 叔父と圭の知人にも会えた。その人は圭の携帯電話番号を知っていたが、かけてみると繋がらなかった。
 「番号変えたんじゃないかなぁ? 全部一からやり直すつもりで…」
 その可能性を考えたことがなくて、司はすとんと、悲しい気分になった。そうか、新しい恋人がいるかもしれない。叔父のことなど、もう迷惑かもしれない。
 結局、圭を辿る糸はそこであっけなく途切れた。祖父母と対決するリスクを冒してまで、叔父の遺品を漁ることは躊躇われた。圭がそれを望んでいないかもしれないと自分に言い訳をした。祖父母は、しかし決して悪い人ではない。司には優しい。だから余計に、それ以上どうしようもないと思った。
 その店を中心に、司はいくつかの繁華街を回ってみたりもした。生来の陽気な性質で、それなりに人気者になった。何人か個人的に親しくなる男の人も現れた。自分のことをまったくの子供だと思っていた司は、少し驚いた。女子の前では途端に大人しくなる同級生たちを思い出し苦笑した。
 自分もそのうちの一人なのだと納得した。
 落す落されるの対象になったり、恋愛に憧れたり、誰かとお付き合いしてみたり、そういう世界に入っていい人間なのだと知った。また少し楽になった。
 そして、夕方から夜に代わる時間帯、こんなところでお酒なんて飲んでいる自分を見たら、同級生の飛鳥はきっと、「お前の方がよっぽど不良だ」と拗たように言うに違いないと思った。思ったら、おかしくて少し笑えた。

 飛鳥裕次郎とは、中学1年と3年のとき、そして今年も同じクラスになった。出席番号も近いし、一番よくつるむ友人である。目つきが悪くて怖い顔をしているけれど、基本的にとてもいい奴だと司は思っている。優等生だらけのこの学校で、「不良」というレッテルを貼られるのはある意味スケープゴートだ。そういう存在を、実はみんな待ち焦がれていたのかもしれない。本当はとても気のいい、喧嘩なんてからっきしの奴なのに。
 元から仲が良かったけれど、異質物扱いされているうちに連帯感がさらに強まった感がある。
 「なぁ、最後の問題ってどうやって解くんだ?」
 テストは出席番号順に受けるから、解答用紙が回収された後、飛鳥が振り返って聞いてきた。
 「最後? ええとあれって、答え127分の43でいいの?」
 「知らんって。なんだよその半端な数」
 「うん、だから俺も、約分できるかどっかで間違えたかって不安に…」
 「俺もその数字よ」
 「あ、まじ? じゃあ合ってるね、きっと」
 隣の列の生徒の同意を得て、司は飛鳥に、解き方を簡単にレクチャーした。何人かが集まって、一緒に解説を聞いている。
 「加賀くん、ねぇ、テスト終わったら一緒に打ち上げしない? 空いてる?」
 女の子の高い声に、司は顔を上げた。「いいね」と笑う。なんだか最近、司は半分女子扱いで、それはそれで何かが違うと思わないこともない。けれど基本的に女の子は可愛い。恋愛の対象にはならないけれど、なんだかとっても可愛い。邪険にしようとは思わない。
 「おおい、なんで加賀だけ誘うんだよー」
 周囲の男子が不満げに突っ込んだ。同じことをみんな思っていただろうに、口に出すのはそれなりの勇気がいる。
 「えー、だってー」
 くすくすと、笑い声。
 「だって、加賀くん、ホモなんでしょー?」
 「うわー水野さん、ホモは止めてよー」
 司は努めて陽気に言った。「そうなんだけどさー」
 それから、「でもホモの俺も、さすがに男子一人じゃ怯えちゃうよ。もっと呼んだら?」とフォローしておいた。初めから、そのあたりがお互い狙いなのだろう。
 「だしに使われてんじゃねぇの?」
 飛鳥が、シャープペンシルで数式を写しながら、ぼそりと言った。
 「ん、」
 司はとりあえず笑っておいた。飛鳥はいい奴だ、そう思ったからそう言っておいた。すると飛鳥は不機嫌そうに顔を背けた。照れているのだ。先ほどまで周囲に群がっていた生徒たちは、いつのまにかテスト後の打ち上げ計画に盛り上がって、黒板の前だ。
 「ねぇ、飛鳥は行かないでね、あれ」
 「なんで」
 「なんでじゃないよー。硬派で売ってるんじゃん、飛鳥。ああいうのは止めてね。俺も行かないし」
 「さっき誘われてたろ?」
 「いいよ、別に。もう役割は果たした感じ? だいじょぶだよ、ちゃんとそつなく断るから」
 「あ、そ、」 飛鳥は何事もなかったように、司が説明を省いた部分について尋ねてきた。完全に理解してから、「硬派って何だよ」。
 「飛鳥のこと」
 「なんで」
 「なんでも」
 「どーして」
 「どうしても」
 実は半分、司自身の希望が入っているとは教えてやらない。それは、もう、どんなにゲイだと訂正しても、司がホモホモ言われてしまうのと同じくらいどうしても、だ。
 「理不尽だ」と飛鳥は憮然として帰っていってしまった。まったくその通りだと思いつつ、司は笑顔で下校する。しかし寮に直帰する気にはならず、開店前の馴染みの一軒に逃げ込んだ。
 「開店準備手伝いますー」
 それにしたってまだ早い時間だ。どちらかというと、閉店後の片付けに近い。制服姿の司にとっては都合がいいが、学生とはタイムスケジュールが違うのだ。
 そしてそこで、司は一冊の雑誌を見せられた。
 「お客さんが持ってきたんだけどね。それ、司ちゃんでしょ?」
 写真の専門誌だった。何かのコンクールの一番低い賞。そこに司がいた。中学の学らん姿で。雪のある風景。ぎこちない動きまで見えそうだった。公民館のガラス扉に縋るように立っていた。雪。柔らかい茶けた髪の毛が、いたずらっ子のようにそこかしこに跳ねて。今より前髪が長い。葬式の黒。忌々しいストライプ。頬には涙。
 「………結構美人じゃん俺…知ってたけど」
 「…言うと思った」
 正確には。
 そのときの司は泣いていない。
 肌の上で光るのは涙ではない。水滴か、雪か。そのあたりのもので、それは涙ではない。本当に?
 「それ、あの人の……お葬式?」
 「…うん」
 うん。
 少し、参った。写真のことは分からないけれど、少し、いい写真だと思った。あんな奴が撮ったっていうのに。あんな奴なのに、でもそこにいた司はなんだか自由だった。フレームに切り取られて地上に繋がれて、それでもなんだか自由に泣いていた。先ほどまでの自分が、何をあんなに笑っていられたのか急に分からなくなって、司は今度こそ本当に、心からおかしくなって少し笑った。
 撮影者の名前は「御敏生」とあった。
 「おん?…み、じゃないよね。ご、とか…」
 「おん。本当は『おおん』らしいけど、響きが間抜けだから『おん』で通してるって」
 「…なんで知ってんですか?」
 「だって、本人が持ってきたんだよそれ。前からたまーに来てくれてたし。司ちゃんと知り合いだとは知らなかったけど」
 「……え、その、じゃあ、この人…そうなの?」
 「そうって?」
 「…ゲイなの、」
 「うーん、というか、その人はどっちかっていうと、」
 年季の入ったゲイなら、同類は直観で見破れると言ったりもするけれど、どの程度本当なのか司には分からない。分かる人もいるし、全然分からない人もいる。そんなものだ。あのとき一回だけ会った御敏生は、どちらかというと女ったらしの雰囲気だった。
 オーナーは、両手を胸の前で交差させて、バルタン星人のようなジェスチャーをやって見せた。
 「…なぁに、それ?」
 「えー、分かんないかなぁ。…両刀使い」
 「ああ、え、バイなんだ。わぁ、俺初めて見た」
 「そう? まぁみんな、両方いけても隠してたりするしね」
 「なんで? 隠すんですか?」
 「肩身狭いからね。こういうところじゃ。嫌なこと言われたりするし」
 ふぅん、と、よく分からないまま相槌を打っておく。司は単純に、恋愛対象がほぼすべての人間に広がるなんて羨ましいなぁと思う。なんだか人類愛の極みのように思える。
 それから司は、敏生との関係について質問を受けてしまった。会ったのはこれ一回きり、と何度も繰り返す羽目になった。冗談かもしれないけれど、惚れられているのかとしつこくからかわれた。
 からかわれているうちに、何だか本当にそんな気になってきて、司は慌ててその場を逃げることにした。
 「あ、それ置いてってね。他のお客さんに見せて自慢すっから」
 司はだから、本屋に立ち寄って、同じ雑誌を買って帰った。
 誰かに見せようとは思わなかった。そこに現れているのは司の内面で、それをどんなに親しい友人にも見せようとは思えなかった。わざわざこんな形で見せなくても、分かってくれる人間というのは、ちゃんと時間をかけて分かり合えるだろう。
 テスト最終日に備えて、形ばかり机に向かいながら、司は、もう一度会ってみたいとふと思った。
 知り合いの知り合い、と言っていた。なぜあんなところにいたのだろう。雪の降る中、ずっと?
 なぜあんなことを言ったのだろう。なぜ司を撮ったのだろう。そういえば、勝手に写真を撮られたことを、憤慨する権利が自分にはあるのでなかろうか。
 もう一度、会えたら。
 おかしなものだと思う。あのとき司は、敏生を殺したいとさえ思って、憎んだのに。気持ちというのはどうしてこうすんなりと入れ替わることが出来るのだろう。理性がついていかないくらい。中学時代ずっと親しくしていた友人でも、今ではどこかで司を笑っているのかもしれない。そして同時に、誰か一人の女の子に胸をときめかしているのだろう。自分だって、どこかでは誰かを笑っている。一方で、見下されることに憤る。愛しながら憎めるし、憎みながら愛することを簡単にやってのける。もっと単純に生まれついてくれれば、と思いながら、そんな複雑な心に救われる。
 圭、と声に出して呟いてみた。それはもう人の名前というよりも、司にとって呪文だった。気のせいかもしれない。叔父の発音に、少しだけ近づいた気がして嬉しかった。
 勝手に自分を理解したつもりになっているクラスの女の子たちや、理解することさえ忌避する仲間達を、笑ってやり過ごすのでなく許したいと願った。上の立場から断するのではなく、もっと広い心で、受け入れたいと願った。
 自分は、叔父のように人を愛したいのだ。
 それを知って、司はその夜、一人部屋のベッドの中で少し泣いた。

 次の日、テストの後、藤澤にファーストフードを奢ってもらった。ノートの礼だ。
 世間話をして、なぜか腕相撲3本勝負をしたりして遊んだ。藤澤はなかなか負けず嫌いで、最後には深緑のブレザーを脱いでまで挑んできた。二人の勝ち数が同じになってから、店を出た。ゲームセンターに行くことになった。飛鳥も誘えばよかったかな、と少し思った。飛鳥と藤澤は同級になったことはないけれど、二人ともそれなりに有名人なので、お互い顔と名前くらい知っているだろう。共通の知り合いである司が、よくもう一方の話をすることだし。
 「加賀、飛鳥でも呼べば?」
 タイミングよく藤澤が提案したが、司も飛鳥も、二人とも携帯電話を持っていない。こういうときは不便だ。
 「んー。連絡つかないしなぁ。それに今日も何かバイト入れてるんじゃなかったかなぁ」
 「…偉いな。勤労学生」
 「偉いよねぇ」
 司たちが中1のとき、誠條高校の制服は学らんからブレザーに変わった。そのとき、中高で行われたアンケートで、一人だけ改正反対を主張していた飛鳥を思い出す。買いなおすのが面倒じゃねぇか、と言っていた。金銭的には確かにその通り。しかし中学入学時に買った学らんというのは、3年も経つと大方の生徒にとっては窮屈なものになっている。結局は買いなおす羽目になるのだ。それに、経済的な苦労をあまり知らない多数派は、制服ファッションにもバラエティーを求めるもので、飛鳥の主張は通らなかった。
 「偉いしかっこいいんだ。飛鳥ってかっこいいよねぇ。俺めろめろだなぁ」
 司は、藤澤の背中を叩きながらのろけてみた。はいはいよかったな、と子供をあしらうようにかわされた。こういうとき決して引いたりしないから、藤澤は友達の鑑みたいな奴だと思うのだ。過度のスキンシップにも、ふざけすぎた愛の告白にも、慣れたように対応してくれる。
 「でも藤澤もやっぱかっこいいなぁ。惚れるなぁ。ねぇ、俺の愛を受け止めないかい今ならお買い得よ」
 「はいはい。そのうちな」
 「わぁい、藤澤一つキープ」
 二人で対戦やら何やらしているうちに時間は過ぎて、燃費の悪い若い身体はまた空腹を訴え始めた。別のファーストフード店に入り、腹をなだめてから、「次はカラオケでも」と口約束をして、司は藤澤と別れた。とりあえず駅に向かいながら、さぁてこれからどうしようかと思いを巡らせているとき、ポケットベルが鳴った。
 昨日訪れた店からのメッセージで、用件といえば、『トシキサン、キテルヨ』。
 少し怯んだが、行ってみることにした。

 開店にはまだ早いが、暇を持て余した常連たちが、ぽつぽつと集まってくる時間だった。半地下になった店の扉を、ベルを鳴らして引き開けると、まるでそこだけ真夜中のような照明具合。カウンターに、ジーンズをはいたラフな格好で、敏生が座っていた。
 「なんだお前…誠條?」
 それが、再会して開口一番の台詞だった。それはもちろん、制服で来るような店でもないが、それにしたってあんまりだと司は内心立腹した。
 うん、か、ああ、か、二人の間の距離がいまだつかめず、司は黙って頷いておいた。
 「頭いいんだな。学らんじゃ分からなかった」
 司は答えず、カウンターの一つおいて隣に座ってみた。敏生は取り出した煙草に火をつけている。なんとなく銘柄を確認する前に、箱はしまわれてしまったけれど。
 「…見たよ、写真」
 「ああ」
 「ああじゃなくて…肖像権の侵害じゃん」
 司の言葉に敏生は笑った。相変わらず、何もおもしろいことのないような笑い方だ。
 「名前なんだっけ。…加賀?」
 「司。司法立法つかさどる、の加賀司!」
 「つかさ。肖像権侵害の詫びに今度飯でも奢ってやるよ。暇なとき電話入れろ。夜ならだいたい繋がる」
 「…え」
 これって要するにナンパか? 司が戸惑っているうちに、引きちぎったメモ用紙を渡された。10桁の携帯番号。
 周囲からの好奇に満ちた視線の中、敏生はそれからすぐに金を払うと店を出て行った。残された司は、訳知り顔の大人たちに、危惧と忠告と噂を聞かされる羽目になった。
 いわく、彼はヘテロよりのバイで、とにかく女癖が悪く、泣かせた女は数知れず。聞いてるうちに、思わず司が吹き出してしまうようなエピソードも語られた。
 「オーバーすぎるよ。そこまで来れば普通疑わない? ってか、ギャグ?」
 突っ込むと、最後には笑い話で終わったけれど、要するに根幹としては、そんな感じの人間らしい。君も気をつけなきゃダメだよ、と何人にも言われた。ご心配なく、俺は柔道黒帯で強いんですよ。
 とにかく、御敏生の人間像は、司の知っている叔父や圭とはまるで反対のように思われた。余計に、彼が叔父の葬式の場に来ていたことが謎だった。
 「ねぇ、あいつ、叔父さんと知り合いだった?」
 聞いてみたけれど、反応はかんばしくない。
 「何回か会ったことくらいはあったんじゃないかな。でもそれだけでしょ。司ちゃんの叔父さんは品行方正だったよ」
 だろうな、と思う。別にポリガミーを否定するわけではないが、あの叔父なら多分そうだろう。
 開店の時間が迫ってきて、お酒飲むならせめて着替えてきなさい、と司は店を追い出された。
 今更着替えてまでまた店に舞い戻る気にはならず、司は大人しく寮に向かった。メモ用紙の数字を何度も見て、歌うように暗記した。かけてしまうのだろうと自分で予想した。司、と一度だけ呼ばれた名前を反芻して、そのそっけない響きに頭を降った。一体何を期待しているのか、自分は。気をつけなければいけないものがあるとしたら、それは自分自身の寂しさのように思われた。



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