フォーカス(中編)
「…めちゃくちゃ怪しい、それ」
飛鳥に敏生のことを話すときは、もうすでにばれているかとは思ったが、夜遊び関連のとこは伏せておいた。昼休み。返却された古文の点数に、複雑なため息をついているよりは、と、飛鳥のために変えた話題だった。
「…あーやーし?」
「怪しい。止めろよ会うの。ほとんど見ず知らずと変わんないだろ」
「そんなこと言ったら、合コンで会った女の子だって見ず知らずじゃん」
「知らねぇよ。行ったことない」
「俺もないけど」
「……ろくな噂もねぇんだろ?」
「噂が当てになんないの、よく知ってっしょ? ねーぇ、誠條で、表だか裏だか知んないけど、番張ってる飛鳥裕次郎くん」
飛鳥は言い返せずに、購買部で買ってきた弁当を食い終えるまで黙っていた。
「加賀は、」
「はいな」
「なんで会いたいんだよ、それと」
「あれ、ね、はいはい。あれ。ええと、まず、探してる人のことをもしかして知ってるかなって、それが一点。本人が知らなくても、どっかに繋がってるかもしんないじゃん。それと、やっぱ俺の写真で入賞したからには、一回くらい奢ってもらいたいよね、気持ち的に。それから、」
司は、指先についていたコンビニおにぎりの海苔のかけらを、舐めとるために言葉を切った。
「ええと、それから……惚れちゃったかもって言ったら、飛鳥妬いてくれる?」
飛鳥は急に立ち上がって、どこへ行くのかと思えば教室の隅のゴミ箱に、弁当箱を捨てに行くのだった。そして席に帰って来て言い捨てる。
「誰が」
そのリアクションの意味は一体何なんでしょう、と司は腹を抱えて笑った。それなりに照れくれているのかと、思えないことはないと勝手に判断して、だから勝手に、そう思っておくことにした。
「何はともあれ、気をつけろって俺は言ってんだよ」
「うん、さんきゅさんきゅ、気をつけます。ご心配感謝。愛してっよ」
飛鳥の忠告はおそらくもっともで、司は軽率なのだろう。デートの相手として適切かどうかは、自分でも首を捻る。少なくとも、叔父と圭のような関係には一生かかってもなれそうにない、とそこまで考えて、司は自分の思考の先走りに赤くなった。
向こうには何の打算も下心もないことだって考えられるのだ。言葉通り、受賞の礼として、食事に誘ったのかもしれない。大体自分は、とても子供だし。それに、もっと悪い意図だって、可能性として考えておかないと。
しかし実際、司は敏生を「嫌な奴」以上の悪者には思えない。悪人にしてはストレートで、立ち回りもうまくないし。
その夜、司は寮の緑電話で敏生に連絡を取った。受話器の向こうからはぼそぼそと女の声が終始聞こえていて、呆れた。
「…あのさ。もうちょっとこう…保身のために隠そうとか、しないの? 丸分かりじゃん。恥ずかしい奴だねあんた…」
『俺は自由恋愛に励んでるだけだから、何もちっとも恥ずかしかないね』
敏生はそう切り替えしたけれど、艶めいた女の声を居心地悪く感じるのは、決して司が子供だからというだけはないだろう。
「じゃなくてさぁ、自分のプライバシーを知られるのは恥ずかしくないかってこと!」
『別に。お前が恥ずかしいならもう切れよ。じゃ、土曜の6時な』
軽い確認の後で電話は切れた。司は改めて自分に言い聞かす。一回ご飯を奢ってもらうだけ、それだけ、いやまぁ一回じゃなくてもいいけど、でもそれだけ…
部屋に帰る途中で、同じ寮生の李衛(リ・ウェイ)が、司を見かけて立ち止まる素振りを見せたけれど、司は気づかないふりをした。
あまり世間話をする気分ではなかったからで、別に李が悪いわけではない。李とは中学3年間、柔道部でとても仲が良かった。いや、過去形にする必要もない。今でも友人だ。友人だと、司は思っている。
叔父の亡くなる少し前に、「ねぇ、俺ってまじにゲイなんだよー」と言った相手だ。李は初め笑おうとして、それからいかにも無意識に、身を引いて司との距離を広げた。その反応を見て、司は笑って誤魔化そうとしたけれど、笑うだけは笑って、その後のフォローが出来なかった。後日、柔道部の面々と集まって遊んでいたとき、某美人女優が「レズだ」という噂話が出てきた。司はいつも通り、「あーじゃあ俺とお揃いだ」と冗談っぽく混ぜっ返し、ふと李を見た。李は怖い顔をしてうつむいていた。いつもならそのときの司と同じように、へらへらと笑っているのに。
そのとき、やっぱり友達だと思った。引かれてしまったことはショックで、それ以来特定の誰かにカムアウトしようと思えなくなったけれど、李は李で、自分とのことを考えてくれているのだと思った。だから李は友人だ。友人、だけれど、それでも司は、どれほど彼に熱心に誘われようと、高校でもう一度柔道部に入る気がどうしても湧かないでいる。
自室に戻り、司はベッドに勢いよくダイブした。それから、枕の横に置いたままの雑誌に手を伸ばした。何度も見た。敏生の撮った、司の写真。彼なら分かってくれると、心のどこかで自分は奢っていないか?
もう一度、という言葉は、「会いたい」にかかるのではなく、撮って欲しい、という意味ではなかったろうか。
それはつまり、分かって欲しいということなのか。
そんなに、そんなに、言うほど、苦しい思いをしていないはずだけれど、今は。気の置けない友達もいて、学校はそれなりに楽しい。おかしいな、そんなに、何を求めようって?
辛い。不意に心を思いがかすめて、司は笑った。そっか、辛いか。そう思って笑った。
「あーよかった。今日もカメラ持参だね。あのさ、撮ってよ。俺。プロの人にいっぱい撮ってもらったって自慢する」
「…やっぱり」
「何がやっぱり?」
「お前、撮られるの好きそうだ。目立ちたがりだろ。人気者目指してるだろ」
「目指してないけど人気者よ俺。陽気なゲイで通ってるの。学校じゃ」
土曜日の6時。指定した駅前広場で、司は敏生と落ち合った。会話を交わしながら、司はまったく笑わなかった。この男に愛想笑いは必要ないだろう。不機嫌にさえ見えるぶっきらぼうな物言いを躊躇わなかった。
「あのさ、思ったんだけどバイっていいよね。最後には女の人選んでさ、世間体も家族も万事おーらいじゃん。単なる趣味で奇特な相手をつまみ食いしてりゃいいよね」
フラッシュ。本当に撮るとは思っていなくて、司は真正面からカメラを見据えた。シャッターが降りる。瞬き。
「………ううん――――――ごめん」
敏生の顔は何も見えない。司はうつむいてもう一度謝った。
「ごめんなさい…」
自分は結構ひどいことを言った。どうしてこの人にここまで甘えているのか分からない。
「飯食いに行くか」
やがて敏生が言った。何でもなさそうなその言い方は、精一杯の猫なで声で、司は「似合わないなぁ」と苦笑した。
「金がないから」と敏生が選んだのは普通の居酒屋で、司は少し腰が引けた。
「俺、ばりばり未成年よ?」
「保護者同伴だろ。烏龍茶でも飲んどけ」
「…保護者ってあんた? よく言うよ。自分いくつ」
「20」
「……選挙権あるね」
「だから?」
不器用な大人だと思った。そこだけ叔父にも似ている。「あんた可愛いね」 司が言うと敏生はさすがに吹き出した。「ガキに言われてもな」
「なんで俺の写真撮ったの?」
「お前が撮れって言ったろ」
「じゃなくて。最初のとき」
「ああ…」 敏生のオーダーした何品かの料理が運ばれてきた。つまらなそうに、ビールと一緒にそれらを流し込む。
「嫌がらせ。お前俺のことひっぱたいたろ」
「…だっけ。忘れてた」
「被害者は覚えてるもんなんだよ」
「…………――ねぇ」
司はカクテルを飲んでいた。何も言われなかった。ジュースのように甘くて、調子に乗って何杯もおかわりもした。
「俺と付き合わない?」
土曜日の夜なので店はそれなりに込んでいた。大学生のグループが、座敷で乾杯していた。雑音に紛れてしまっている有線のポップスを、司はなぜか一生懸命聞き分けようとしていた。
「お前いくつだっけ」
「…今年16」
「青田買いだな」
敏生は笑った。唇を歪めるだけの冷たい笑い方で、そんなにまでして笑わなければいけない世の中を、嘲笑しているようだった。
「付き合おうよ。浮気してもいいよ。俺もするから」
敏生は答えなかったけれど、その後金を払って店を出てから、司を見てこう言った。
「次からはちょっとは払え。俺は誠條のお坊ちゃんほど豊かじゃないんだ」
司は、アルコールの入った赤い顔で頷いた。
敏生は、面倒なのは嫌だぜと何度も念を押していたが、酔っ払いの強みで、司は彼のワンルームマンションに上がりこんだ。よくやるよ、と、片隅で理性が囁いた。淋しかったんだ、と、もう片隅で誰かが反論した。
「叔父さんとどんな関係だったの」
「死ぬまで名前も知らなかった」
「なんで来てたの。お葬式」
「……写真撮りに行ったんだ」
「…圭って人知ってる?」
「誰だ?」
「俺の前に、あそこ出てった人。見てたろ?」
「ああ…。知らない。顔だけ。顔だけなら前から知ってた。どっかの写真に混ざってたんだ、あいつ。なんだっけ…どっかの店の中で撮ったやつ」
「それ、頂戴。俺あの人探してんの」
「どうして」
「………うん、」
キスさえ初めてだった。厄介だなぁと敏生は舌打ちした。これまでも2度ほど、他の人とこういう展開になりそうになったこともある。そのたびに逃げてきた。親や、祖父母や、叔父や、飛鳥や、なぜかそんな人たちのことを思い出して逃げた。
「お前携帯は?」
「持ってない。ポケベル」
「知ってるか? 援助交際した男が捕まるのって、女の携帯のメモリから足が出るらしいぜ」
「…ふーん」
「会って3回で飯奢ってやって、その日のうちだろ。これ、結構やばいパターン。素面に戻って、周りの奴らにぶちまけるなよ、俺のこと」
「うん」
かなり小心者だねと司は笑ってやった。
「だってあれすぐ実名報道だろ。こないだやっとスタジオと契約取れたとこなんだ」
「へーぇ、おめでと」
身体に触れられて、改めて、他人とこんなに近くにいることを実感した。震えた。素直に怖いと告げた。でもちょっと気持ちいいとも言った。唇を合わせると今度は舌が入ってきた。受け入れるには少し口を開くだけでは足りなくて、なんだか食べているようだと思った。物凄く震えた。敏生の背にしがみついてかすかに喘いだ。乙女か俺は。一人突っ込みをして震えながら笑った。
次に会ったとき、何枚かの写真を手渡された。一枚はどこかの店の中で、右の方に身体が半分切れた圭が映っていた。顔は十分に判別できる。残りの写真は司だった。真正面から、怒気をあらわにした司。傷つけた傷ついた顔で、うつむいている司。
そうだ、自分だって怒るし、傷つきもする。残されたそれぞれの表情を、司は雑誌に挟み込んだ。笑うことも大切だけれど、笑ってばかりだと忘れそうになる。傷つくことに罪悪感を覚える必要はない。
飛鳥には折を見て、付き合っていると話した。怒ったらしかった。けれどもう、止めろとは言わなかった。学校の友人と遊ぶ時間は、ほんの少し短くなった。敏生は相変わらず女癖が悪くて、司といるときでもひっきりなしに電話がかかってきたりする。そのうち夜道で刺されるよ、と忠告しておく。セックスは、やがて司からも触ったりするようになった。だけど大抵、一方的に煽られて眠ってしまう。毎回そんなものなので、病気の心配はあまりしていない。とはいっても相手が相手なので、性病の有無は確認してある。これで感染したら、司の軽率としか言い様がない。
「敏生ってセックスは大人しいよね」 あるとき半分寝ぼけながら指摘すると、
「淡白なんだ」 と冗談にしか思えないようなことを答えられた。
敏生は女性とも交渉があるから、わざわざ司とも、女相手のセックスの真似事をしなくていい、ということかもしれない。それならそれで構わないと司は思った。性欲より睡眠欲の方が大事だった。
司が敏生と付き合いだしたことは、その世界ではちょっとした話題になった。何人かには呆れられ、笑われて、羨ましがられたり、心配されたりした。
「司はまだ子供やと思って諦めてたけど」 佐伯亘もそのうちの一人だ。「せやけどあいつやったら話は別やで。俺と同い年やん。なぁ、あいつよりかは俺のが絶対ええって!」
亘は大学2回生で、本人の言う通りいかにも善人である。しばらくのお友達期間を経て、司も彼に好意を持った。亘とのデートがてら、司は圭の写真を携え、彼の訪れそうな場所を訪ねまわった。手がかりがないとなると、気晴らしに遊園地やゲームセンターや映画館に行った。よっぽどデートらしいデートだと思った。カラオケやボーリングにも行った。
「あいつとは来ぉへんの?」
「全然!」
学生より暇がないということもあるし、他の女と会っていて連絡がつかないときもある。久し振りに会うときも、部屋でだらだらと、「淡白な」セックスをするだけだったり。
「なんや不健全な付き合いやなぁ」
「だねぇ」
「似合わんて。司には。もう別れ。なぁ」
何度もそう繰り返す亘が可愛く思えて、司はキスで誤魔化した。飛鳥には見せられないなぁと思いながらも、大学生の人とも付き合いだしたよ、と律儀に報告は欠かさなかった。
「何それ」 飛鳥はやっぱり怒っているようだった。
「前の奴どうしたんだよ」
「うん。死んでないよ」
「いいのかよ、それ」
「さぁ、どうだろう。一応みんな了承済みだけどね」
「…やけになんなよな」
ああ、そういう見方もあるのか、さすが飛鳥。司は、やけになって亘と付き合いだしたとは思わない。どちらかというと、やけになって、意地を張って、敏生と別れていない、という方が正しい。
仕事が忙しくなってきたようだ。それはめでたい。
恋人が何人もいるようだ。それはあんまりめでたくない。
そんなことは初めから分かっていたことだし、司も亘と付き合っているからには人のことを言えない。浮気してもいいよと最初に言ったのは司なのだし。
しかしそれにしても、敏生が撮影旅行とやらに行ってしまって、その留守を預かっている間、女の人が一人押しかけてきたのには驚いた。
「敏生は?」
肌の曲がり角を越したくらいの年だった。だけどきっちりお化粧をして、じっくり見なければ荒れているとは分からない。
「…いないよ」
司は、敏生の取った写真を、日付順に整理し直していた。専門的なことは分からないけれど、日付くらいは読めるのだ。
「いつ帰るの?」
「一週間後」
女性はまじまじと司を眺めていた。おかしそうに笑って、「生き別れの弟とかだったら面白いね」と言った。
確かに、二人は似ていた。天然パーマのかかった、薄い色の髪といい、丸い大きな目といい。女は、敏生の好みの分かりやすさに笑ったのだった。
「一週間? それじゃ仕方ないね。あなたでいいや。ねぇ、付き合ってよ」
「何に、」
「来たら分かるから」
強い力で腕を引っ張られて、司は困惑しながらもついていった。しかし、女の行き先が、とある病院の産婦人科であることがそのうち分かって、本気で嫌がった。
「知らないよ、俺、ねぇ、関係ないって」
逃げようとした。なんだかとても怖かった。自分なんかを、そんなところに連れて行こうとする女の気持ちが怖くて、司は懸命に女の手を振り払おうとした。
「関係ないことないでしょ。ちょっとだけだから付き合ってよ。付き合ってったら」
「嫌だよ、帰る、離して、嫌だ」
本当に怖かった。柔道を習い始めるずっと以前に、小学校の校内で痴漢にあったときくらい怖かった。ずるずると、信じられない力で引っ張られた。病院の中まで連れてこられて、司は泣きそうになりながらも逃げられなかった。だって、投げ飛ばすわけにはいかないじゃん、と思う。モンスターみたいに怖くても女性で、しかも身重で。
「こちら弟さん? 付き添ってくれたのね、お姉さん思いね」
看護婦に薄く笑われて否定しなかった。
産婦人科の待合室は、司にとって異次元で、とても居心地悪かった。自分には一番縁遠い場所だと思った。気のせいだろうけれど血生臭かった。ついきょろきょろと、落ち着きなくあたりを見回したくなるのを、ぐっと堪えて俯いていた。敏生の悪口を心の中で連呼して、心の中で絞殺して、射殺した。血走った女の目を思い出しては鳥肌が立った腕をさすった。
どれくらい待ったか分からない。司の元に戻ってきたその人は、やっぱり目が赤かったけれど、それは泣いたからのようだった。化粧も、かなり落ちていた。
帰り道で、女の人は「ごめんね」と司に謝った。司は頷いた。命って、どこから命なんだろうと不思議に思った。
「だって一人で行きたくなかったんだもん」とその人は少女のような口振りで言って、「怖かったから」と媚びた目をした。
うん、と司は頷いた。
「あなた、敏生と付き合ってるの。やめなよ、やめなよ、やめなよ、やめなよ、」
ぽつんぽつんと、雨だれのように繰り返して、それから女性は意地悪く笑った。
「でも、男同士なら子供は出来ないね。お手軽」
でもやっぱりあの男はやめなよ、やめなよ、やめなよ、やめなよ。
「…うん…」
司は、なんだかこれから女の人のスカートが嫌いになりそうで怖いなぁと思った。
「あの男、最低」
「………うん、」
「最低」
「うん」
「でも私も悪いんだけど。安全日とか嘘ついたし。ゴム隠しちゃったし。あんなの好きになっちゃって、私も悪いんだけど」
「うん」
「……なんで好きかな」
「――――――――うん」
敏生は、土産、と称して、膨大なフィルムとホワイトチョコレートを持って帰ってきた。子供扱いして、と怒った司に、敏生は、子供だろと言ってそれから笑った。だから、そんな子供に手ぇ出す俺は変態なんだな、と言って笑った。
それからちょくちょく、敏生は撮影旅行に日本全国を飛び回るようになって、会う回数は減っていった。まるで港港に女囲ってる船乗りみたいやな、とは亘の弁である。
「別れ、なぁ、別れ。あの男、司に愛っちゅーもんを与えてないやん。身体だけが目当てな上に浮気性や。司みたく可愛い子にはつりあわんって」
愛かぁ、と司は苦笑した。改めて言葉にされるとどうにも掴み所がない。
「亘さんはそれ、俺にくれるわけ?」
「え? ああ、おお、あ、当たり前やろっ」
今度は亘が、首のあたりまで赤くなる勢いで照れて、反対に司は冷静になった。
「亘さん、可愛い、可愛い、」
そう茶化して、ぽんぽんと彼の頭を叩く。
雨の日だった。待ち合わせたドーナツ屋で、衣替えをした制服姿を亘に誉められ、司は機嫌がよかった。亘の言葉は、いつでも司を気持ちよくする。誉められて、無条件に肯定されて、自分がそんなにも愛される価値のある人間なのだと錯覚する。
「…俺、結構本気なんやけどなぁ」
恨めしげに呟かれ、そうだ、アイの話をしていたのだと思い出した。
「ん、ありがと」
とりあえず礼を言っておく。
「なんやそっけないなぁ」と嘆かれた。
「でも俺変態だよ」
そう言ってみて、やっぱりこの単語は嫌いだと、司は自分で顔をしかめた。
「あほ、みんなそうや」
司は、この人といる時間をもっと増やしたいなぁと純粋に感じた。そうすれば、もっと好きになれるのではないだろうか。
しかしたとえばこういう場所では、たとえ誰の視線も傘に隠れていたって、その指に触れることが出来ない司だった。
「…………………飛鳥は違うよ」
「誰やて?」
「……クラスメイト…」
亘さん、口に砂糖ついてる、と、司はそれから笑って指摘した。こんなふうに笑うことが、敏生の前では難しくて、案の定その数週間後、久し振りに会ったというのに喧嘩をした。きっかけは、司と亘の関係に対する、敏生の野卑た軽口だった。
「あんたと一緒にしないでよ」
司は初めのうちは冷静に、しかし嫌味を言わずにはいられなかった。
「俺とあの人はね、清く正しいお付き合いをしていますの。世の中の男みんなが、自分みたいにケダモノだなんて思わないでよね」
「ほぉ、まるで自分が健全な高校生みたいな言い草だな」
敏生は笑った。例の、つまらなさそうな笑い方だった。そんなふうに笑ってまで、わざわざ俺に会ってくれなくたっていいんだ、と、司は苛立った。
「みたいじゃないよ、あんたさえいなきゃ俺はそうなの」
「ホモのくせに」
「あんたにまでそんなふうに言われたくない!」
その言葉は嫌いだった。くせに、とか、なのに、とか、そんな言い方も大嫌いだった。司が怒るのを分かっていて、敏生はそんなふうにふざけたのだけれど、女の香水の匂いを漂わせた彼にそう言われたことで、司は普段以上に激昂した。
「何がだよ。自覚しろよいい加減」 しかし敏生は薄ら笑いを浮かべたままで、雑な口調でそう続けた。「自分が不健全な変態で、本番じゃ組み敷かれる方の人間なんだってさ」
「……組み敷いたこともないくせに」
「なんだ、単なる欲求不満か?」
怒りと羞恥で司は真っ赤になった。自分のプライドが胸のどのあたりにあるか、痛みによってはっきりと知った。嫉妬とか性欲とか、この男の前では自分は、こんなにも汚い人間になる。亘の前では、そういうこと全部知らないふりで、自分とはまったく関係のないふりで、笑っていられるのに。笑って、いられるのに。
「…あんたもうやだ…さいてー…」
「別れるか?」
司が黙り込むと、敏生は億劫そうな仕草で前髪をかきあげた。
この男は、自分がいてもいなくてもまったく変わらない、自堕落な生活を続けるのだろうと腹が立った。どうせ自分は子供だし、遊びだし、経験地を上げるための、互いは踏み台だったに違いない。
「…しばらく来ない」
そんな捨て台詞でマンションを出たけれど、思い返すと稚拙な決断だ。付き合おうと言ったあの頃は淋しかった。今は亘がいる。あんな男に、居場所を求めたのは一時の気の迷い、錯覚、若気の至り。別れれば、亘は喜んで、一層司を大事にしてくれるだろう。飛鳥だって安心するだろう。そして自分は…陽気に、笑いつづけるだろう。
先ほどとは別の場所が痛んだ。肺かな、と、司は夜の町を歩きながら苦笑した。ここはまだクローゼットの中かもしれない。空気が薄くて当たり前。泣いて怯えて、こんな狭い場所に、逃げ隠れているなら。
自覚しろよ、という敏生の言葉に、心の中で「してるよ」と言い返した。じゃなきゃこんなに辛がっちゃいない。気づかないままでいられれば、それはそれで幸せだったのだろうか?
いいや、自分自身をフレームから外すわけにはいかない。屈託なく笑ってみせても、ポートレートの背景には、しっかりすべてが映っているのだ。
その夜自慰をした。今までも何度か軽く触ってみたことはあったけれど、いつも途中で罪悪感と睡魔に襲われて、最後までしたのはそれが初めてだった。敏生とのセックスを思い描きながらした。現実では絶対にしてくれない、させてくれないことまで想像した。よりプライベートな粘膜同士の接触を、敏生は面倒くさいだろ、の一言で切り捨てていたが、もしかすると彼なりのセイファーセックスなのかもしれない。
マスターベーションは気持ちよかったけれど当然それだけで、こんなことは何の保証にもならないと司は思い知る。今こんなふうに互いにかかずったところで、一生一緒にいるわけではない。そんな保証は男女の間柄にだってないけれど。深みにはまらないうちに、取り返しのつかないことになる前に、きっぱりと別れてしまった方がいいのかもしれない。ただの友人なら、こんなこと悩まずに済んだのに。それとも自分は、本当に単なる欲求不満なのだろうか。
「…やだやだやだやだ…」
どうして体なんてあるかなぁ、と司はわざわざ声に出して呟いた。
こんな面倒なもの、なければいくらだって誤魔化せるのに。
なければ、自分もみんなと同じなのに。
ポケットベルが鳴った。亘からだった。身体は疲れていたけれど、「探し人の情報アリ」、とのメッセージで、のろのろ寮の公衆電話に向かった。
『中西圭、やって』
「…中西、」
『そんで、本人の連絡先は教えんくれへんかったけど、事情によっては教えたるって。だから、そいつの携帯番号。090…』
「その人は…何者?」
『多分恋人ちゃう?』
「恋人…」
やはりいるのか、と思った。あれから半年近く経っているのだ。尚更、前の恋人の甥なんて、避けられるだろうと思った。それでもとにかく、手帳に読み上げられる番号を記した。
「…ありがとう」
『見直したやろ? 惚れ直したやろ?』
「うん、お手柄」
それから少し迷って、敏生と喧嘩をしたことを告げた。
『そうなん?…うわ、素直に喜びを表していいもんか難しいとこやなぁ』
「ん、いいんじゃない?…あ、ごめん、テレカもうなくなるから、また」
嘘をついた。カードの度数は、もう少し残っていた。二重に後ろめたく思いながら、受話器を置くと、けたたましい音を立ててカードが出てきた。時間はもうかなり遅いので、司は恐縮しながらそれを抜き取った。
「加賀」
そのとき呼びかけられて、振り返ると李衛がいた。
「…何? 珍しく夜更かしだね」
「お前はいつも通り夜遊びか」
「うん」
司はぎこちなく笑った。「もしかして李衛、ずっとこのあたりいたの?」
「…聞いてねぇよ」
「よかった」
「聞かれちゃまずいこと話してたのか?」
「うん、深夜のラブコール」
言ってから、ふざけすぎたかと後悔した。非常灯に照らされて、不気味に緑色に染まった李の顔を見上げた。
「…えと、あのさ、あんまり言わないでね…俺が外泊多いこととか…電話のことも…」
「誰も言いふらさねぇよ。そういや、こないだお前んちからの電話俺が取り次いで、」
「…ここにかかってきたやつ?」
「そう。いつもお世話になってますとか言われたぜ? お前、部活止めたこと言ってないのか?」
思わず顔が強張った。「…李衛、言っちゃった?」
「いいや」
「……よかった。さんきゅ。感謝…。そのへんは全部、しーくれっとえりあなんだよね。禁句。親には。余計な気ぃ使わせて、ごめん」
「…礼はいいから、戻れよ、柔道部」
司は、李のがっしりとした体格に目をやった。李はきまり悪そうに身じろいだ。怯えているのかと思うとおかしかった。自分じゃどうやったって彼をどうにかすることなんて出来やしない。
「中学の引退してから半年以上だよ? 今更俺なんて勧誘してもしょうがないでしょ」
「勿体無いだろ」
「高校入って止めた奴なら他にもいるじゃん」
「加賀」
「――李衛は、俺のこと『更生』させようとか思ってんのかな、もしかして」
以前からの危惧を静かに指摘すると、李は怒ったように黙ってしまった。
「もしそうなら、それってちょっと的外れだよ。俺のこと心配してくれるのはほんとに嬉しいしありがたいけど…」
「そんなんじゃ、ない」
言葉を途中で遮られ、きっぱりと否定された。それで、先ほどの沈黙は、図星を当てられた羞恥ではなくて、傷ついたからだと分かった。
「…そっか。…じゃあ、ごめん。俺、今ちょっと嫌なこと言ったね…」
それから司は、ふと自分の右手を見た。汚れを拭き取っただけで、まだ洗ってもいなかった。急に生々しいにおいがするような気がして、そんな状態で李といるのが居心地悪くなった。
「………李衛、俺にさわれる?」
友達を一人なくすような気分でそう聞いてみた。
「部に入って、誰が俺と組みあってくれる?」
心無いことを問い詰める。
「ねぇ李衛、俺にさわれる?」
ついさっきまで、男のことを考えて、一人でしてたような、そんな奴だよ?
心の中で自嘲したとき、突然に肩を引き寄せられて驚いた。反射的に腰を落してしまった。違う、組み合うんじゃなく、これは試合じゃなく。
抱き締められて、生まれて初めて腰が抜けそうになるくらい、驚いた。
「…え、」
混乱しているうちに抱擁は解けたけれど、司はまだ口を開けた間抜けた表情だった。
「………なんだよ。さわっただろ。ざまみろ」
「……ちゃうやん、いや、ええと、李衛今の変。普通さわるってこういうこと?」
「だって、お前は、気持ち悪くなんか、ない」
それはもちろん、柔道をやっていれば、今くらい密着することもよくあるけれど――
「――――うん、さんきゅ」
よく見れば李は真っ赤だった。司もつられて赤くなった。お休みと言い交わし、それぞれの部屋に戻った。いくら消灯も過ぎた真夜中とはいえ、誰も出てこないとは限らない。李衛は大胆だ。部屋に帰って、改めて叫びだしそうに照れた。
今のも口止めしておかないと。特に硬派の飛鳥には、絶対…
そんなことを考えながら、床についた。結局手を洗わずに寝てしまった。
back next