フォーカス(後編)
前田というらしい圭の恋人に、連絡を取るまでは時間がかかった。期末テストがあったし、その後の週末毎には、両親に呼び戻されたのだ。あまりに帰ってこなさ過ぎる、と嘆かれた。機嫌を取るためにも、しばらくは大人しくしていた。それでも亘とは連絡を取り合っていたが、敏生とは、互いの予定さえもう分からなかった。マンションを訪れたところで留守だろうと思うと、意地を張って電話もかけなかった。何がなくとも疲れる家庭サービスを終えて、寮の自室に戻ってくるとほっとした。そういうとき、棚に置いた一冊の雑誌に手が伸びる。紙面の写真、それと、挟み込んだ写真。感傷だけではもうどうにもならないと分かっているから、司は意を決して電話をした。自分の立場を電話口で説明すると、前田は、一度会おうか、と言った。渋いいい声だと司は思って、どうして自分はこうかな、と少し呆れた。亘が、心配やから一緒にいこか、と申し出てくれたが遠慮した。叔父と圭のことは、司にとって非常にデリケートな問題だった。そう言ってくれたのが敏生なら…もしかすると、頷いていたかもしれないけれど。
前田とは駅で待ち合わせた。互いに服装を知らせていたのだが、向こうが先に司を見つけてくれた。
「君は目立つな」と、彼は言って煙草をふかせた。なんとなく銘柄を確認しようとして、しそびれた。「さぞやもてるだろう」
「…まぁ、ぼちぼち」
「駅の裏に行こう。今日はあいつ仕事だが、万一ってこともある」
「見られたら、まずいですか」
前田は苦笑して、司の前を歩き出した。
「それを今から考えよう」
大きな背中を追いながら、司はどうしてもその背を叔父と比較してしまう。いつ頃知り合ったとか、実際どういう関係なのかとか、聞くのは失礼だろうか考えた。一体どれくらいで、人は、死者と折り合いをつけることが出来るのだろうか。
それなりに人の入ったカフェに落ち着いた。人口密度が高いほど、聞かれたくない話はしやすい。
「養子縁組の話まで出てたんだよ」
「…叔父さんと…中西、さん?」
「そう、あれは一ヶ月でも後に生まれた方が『子』になるからね、もし加賀さんがもう少し早く親御さんの説得に成功していたら、今ごろ加賀圭になってた」
「…知らなかった」
「別に、結婚の真似事がしたかったわけじゃないだろうけど。日本にはパートナーシップ制みたいなものがないし、男女なら内縁でもそれなりの権利があるけど、男同士じゃ何の保証もないから」
保証の一言にどきりとした。もし叔父が亡くなる前にそれが成立していたらどうなっていただろう。少なくとも、制度上は堂々と、葬式の列に加わっていただろう。喪主になっていたかもしれない。遺産もほぼすべて彼の元に行っていただろう。そして、目の前のこの人と、恋することはなかっただろう。
それなら尚更、叔父の遺品を渡したいと告げ、圭の住所と電話番号を教えてもらった。前田はあまり気乗りしない様子だったが、頑なに拒否することはなかった。ただ、最後に、躊躇いながらこんなことを言った。
「…君みたいな子供にこんなことを言うのは酷だけど、出来ればこのままそっとしてやって欲しい…。君に言ってもしょうがないけど…結構辛いことを、言われたみたいだから…君のご家族に」
改めて人に言われると辛くて、司は思わず俯いた。
「いや、すまん…私情だ」
そんなフォローを今更されても、司の記憶は叔父の葬式の日に巻き戻る。誰とも目を合わさないように、自分の方が死んでしまった幽霊の顔で、焼香の後、耐え切れず出て行った圭の後姿を思い出す。
「もう終わったことだし…もう一度嫌な思いを、させたくないし…」
それならなぜ、葬式になんて来たのだと、司は見当違いの怒りを急に覚えた。叔父が死んだ時点で、ひっそりと、司たちの前から消えてしまえばよかったのに、なぜそんな思いをしてまで、故人に縋ったりした。なぜ…なんて、その答えはあまりに単純で、司はすぐに泣きそうになるのだ。
礼を言って、店を出た。目的地のないままで歩き始めた。気が付くと通いなれた学校へと向かっていて、なんでこんなところにいるんだ自分、そう思った。
なんでこんなところで一人なんだ自分。
道端の何気ない電話ボックスを素通りできず、司はその灰色の電話にテレホンカードを滑り込ませた。呼び出し音の後、その人の声が聞こえた瞬間、カードの度数は即座に減った。
「俺」
『ああ…何か用か?』
「今から、行っていい?」
『うちに? …構わんけどな』
「じゃあ、行く」
それだけの会話だというのに、度数は飛ぶように減っていった。携帯電話相手なので仕方ない。司は、電車より少し高くつくバスを使って、敏生のマンションを訪れた。
「…何、これ?」
意地を張って来なかったしばらくのうちに、敏生の部屋は様変わりしていた。大きな家具がすべて消えていた。がらんとしたフローリングには、いくつもの重たげなダンボール箱が無造作に置かれていた。
「また、どっか行くの?」
「アメリカ」
「…ついに海外遠征?」
司は、部屋の隅に足を抱えて座り込んだ。顔を半分膝に埋めて、荷造りを続ける敏生を眺める。
「同じスタジオの大御所が、向こうの出版社に呼ばれてな。つれてってもらえそうなんで、いい機会だから行ってくる」
「…期間は?」
敏生はガムテープを張る手を止めて、司を見ると笑った。膝立ちのままの、その笑い方はぎこちなかった。唇を歪めるだけ、では、少なくともなかった。一生懸命、きちんと笑おうとした顔だった。
「分からん。年単位だろうな」
「…そう、」
そして、また作業を続ける。
「ねぇ、俺帰った方がいい?」
弱気になっていたから、それなりに気を使っておずおずと尋ねた。
「…いや、どっちでも」
だから司はそのままそこに座っていた。邪魔をしないように、静かに静かに息をした。カーテンの外された窓から、光が埃を照らしていた。二人の腕時計の秒針が、微妙にずれたテンポで時を刻んでいた。そのうち司は、奇妙な既知感に襲われた。まるで司などいないように振舞う敏生。けれど冷たい無視ではなくて、司の存在を全身で感じながら、余計な気遣いを決して見せない。
この場所で自分はとても他人で、そしてとても自然だ。
敏生の立てる物音に耳を済ませ、彼の一挙手一投足を、逃さないように目で追って、やがて、静かに涙が流れ出した。生きることが呼吸なら、息をすることが生きることなら、自分はずっと長いこと呼吸困難だった。
叔父は、こんな司のことを知っていたのだろうか?
分かっていたから、あんなふうに微笑んで、司を迎えていてくれたのだろうか?
もしかしたら、愛されているのかもしれない。そう思うと余計に涙が溢れて、フローリングにその粒がいくつも落ちていった。酸素を貪る。それでも声は殺す。瞬きのごとに涙は下睫毛を溢れて零れた。
もしかしたら、愛されていたのかもしれない。
しばらくして、敏生がコーヒーを淹れに立った。帰っていったときには、両手にカップを持っていて、感謝しろ、と司に押し付ける。片手で涙を拭い、もう片手でそれを受け取った。
「…俺がコーヒー嫌いだったらどうしたの?」
「……知るか。吐いてでも飲め」
テーブルがもうないので、二人は直接床に座り込み、カップを何度も直接床に置きながら、時間をかけてコーヒーを飲んだ。
「…圭…って人、見つかったんだ。でもね、俺会いたかったけど、会うなって言われちゃった。当然? かな。大体俺会って何が言いたいのかまだ分かんないよ。けどそれ凄く大事なんだよね、俺にとって。なんだか、凄く、大事なんだよね」
「……お前の叔父さん…」
「何?」
敏生はコーヒーカップを置くと、ふと司に手を伸ばした。前髪に触られて、司はあっけに取られて敏生を見上げた。こんな触り方を、する男だったろうか?
「どしたの?」
指が頬に下りてくるのがどうしようもなくこそばゆく、司は少し笑った。照れ隠しだ。何を血迷っているのか知らないけれど、彼らしくない。だってこんなのは、なんだか、まるで、愛しんでくれているようで、おかしい。嬉しい、死にそうに…。
「ねぇ…なんかコーヒー入ってたんじゃない?」
軽口を叩いて、頬を包む敏生の手に、自分の手を重ねた。顔を見続けるのは恥ずかしすぎて、そっと俯いた。するともう片手のコーヒーが見えて、慌ててそれを、できるだけ遠くの床に置いた。
敏生が笑った。だって、最後の最後で汚しちゃいけないじゃん、と司は言い返して、その自分の言葉に、胸を突かれた。いつ発つのか尋ね、日付が囁かれ、敏生の背に両手を回した。俺淋しがやりさんだから浮気するよ? そう言うと、俺もだ、と返される。もうしてるじゃん、と言えば、お前もな、と。
それからずっと無言で、ただただ抱きあっていた。太陽が沈んでいくのを司は背中で感じていた。明かりはつけちゃいけないのだと思った。カーテンがないから…外から丸見えになってしまうから…明かりはつけちゃいけないのだ。
敏生が顔をずらして、唇を寄せてきた。その舌を舐めるときいつも、司は覚悟を突きつけられているような気がする。遊びじゃ終わらないよ、という覚悟。何かあったとき、自分たちは互いの何も保証できないのだという覚悟。それなのに、こんな近くにいる恐ろしさへの覚悟。
敏生の大きな手が、背中から首筋へと這い上がってきて、司の頭を抱いた。その手の平で、髪の毛がくしゃりと潰れた。
唇が離れると、唐突に声が聞こえた。
「…ダチがいたんだ」
彼は司を至近距離から見詰めた。しかしそれは一瞬で、すぐに身体も離れた。胸ポケットからひしゃげた煙草を取り出しながら、敏生は押し殺した声を出した。
「笑えるけど幼馴染ってやつでな、ずっとダチだったんだが高校のとき女取り合って喧嘩別れした」
ライターが見つからず、敏生は結局煙草を仕舞った。司は、敏生の死角に落ちているライターに気づいたけれど、どちらかといえば吸って欲しくないので黙っていた。先ほどの甘ったるい所作は、きっと誰かが魔法をかけたに違いないと思った。
「それでそいつらは卒業してすぐ入籍して、そいつは運送会社に入って小型トラック運転して酒飲んで人轢き殺して仕事やめた」
一息にそう言ってしまって、敏生は、また吸いもしない煙草に手をやりながら司を見た。
「…お前の叔父貴だ」
司は、その人の顔を思い出そうとしてみたけれど無駄だった。前髪が畳に擦り付けられる音さえおぼろだった。思い出すのは叔父の遺影や、圭の後姿や、雪の中の敏生だった。
そういうのは、「知り合い」とは言わない。そう言おうして止めた。
友達のその人のこと、好きだったんだ? そう言おうとして止めた。
けれど敏生は、もしかすると司の返事を待っているようだったので、司はただ一言「そう」、と答えた。それだけではあんまりかとすぐに思い直して、「あんたでもふられることあるんだ。その女の人美人だったの?」と付け足した。
「……ああ、いい女だった」
司は、敏生の背後に落ちているライターを指差した。敏生がそれを拾って、煙草に火をつける間に、ゆっくりと考えた。
「…ねぇ、あんた、俺のことを、」
考えた末の問いを最後まで言い切ることは、キス以上の覚悟が必要で、司はそれが出来なかった。
少しでも好きかと尋ねることは、司からの告白と同じだった。
好きだと言うことには、セックス以上の覚悟が必要だった。
もうとっくの昔に超えているはずの一線なのに、それを言ってしまうと終わりのように思えた。
圭、圭、圭。心の中で連呼してみた。
叔父のように呼べるはずもなかった。司は、家族を敵に回しても、誰かを愛しぬく覚悟がまだなかった。
思いを寄せ、寄せられる覚悟が、多分、足りなかった。
「笑っちゃうよ! 俺はさ、もうほんと嫌になるよね、全然分かってなかったんじゃん! 保健の授業にむかついたりゲイバー出入りしたり敏生とえっちしたり亘さんとデートしてさ、全然その気になってそのつもりで、でもほんとは全然自覚してなかったんだよ! 自分が世間一般で見て変態なんだとかそういうこと、全部! 差別はいけないって訳知り顔で、結局自分が差別してんだよ、自分のことを! そういう人間なんだって分かってるくせに、そういう人間だって認めてなかったんだよ! 認めたくなかったんだよ! それってなんでだよ、そういう自分を嫌だったからだろ!?」
司は、月曜日の放課後亘を呼び寄せ、二人で入ったカラオケでそんなふうに泣き喚いた。
「俺はゲイだよ、俺はゲイだよ、分かってるよ! なんでだよ、なんでそれが嫌なんだよ自分! ゲイでもホモでもクィアーでも、呼び方なんてなんでもいいじゃん、一番気にしてるのって俺なんじゃん! 俺が一番卑屈だよ、俺が…!」
「…泣かんといてや」
亘は痛々しい顔で司の頭を撫でてくれたけれど、そうされることを期待してこの人選をしたのかと思うと、そんな自分はやっぱり卑怯だった。
「そんなん司のせいとちゃうやん。しゃぁないやん」
そう慰めてくれる亘にだって、一般的な好意以上の「好き」を言えるかというと言えないのだった。
こんなふうに、思い切り傷ついたふりをしていたって、今日もちゃんと一学期の終業式に出た。式の後母親からポケットベルにメッセージが届いたので、こちらから電話し直して差し障りのない近況と夏休みの予定を報告した。
馬鹿馬鹿しい。司はもう何も言えなくなって、結局自分がどうしたいのか分からなくなって、小さな子供のように泣きじゃくって亘に慰めてもらった。
どうして好きだというただそれだけのことに、こんなにも罪悪感を感じなければいけないのだろう。そう問い掛けると亘は一つ小さくため息をついた。
「人を、好きになってるときに、そんなん誰が考えるんよ…」
まるで、本当は自分のことを好きではないのだろうと、責められているような気がした。余計に後ろめたかった。この人は司を好きだと言う。こんな自分を。こんな自分を!
だから、好きだと言ってもらえば、嬉しいが申し訳ない。彼が自分を好いていてくれるほど、自分は彼を好きでもないのに、それなのに言葉だけ好きなどとは言えない。たとえそんなに好きだったとしても、その気持ちを抱えこむ自信がなくて、それなのに言葉だけ好きだとは言えない。
どうせ恋なんて一時の気の迷い、真面目に向かい合う必要なんてない――そんな具合に割り切るには、司の周囲には善人が多すぎた。真剣に司を好いてくれる亘も、生理的嫌悪を乗り越え、友愛を示してくれた李も、本当に一生をかけるつもりで愛し合っていた叔父と圭も、何の気合もてらいもなしに、司と友達をしていてくれる飛鳥も藤澤も。…多分、敏生も。
息苦しさを言い訳に、司自身が一番、ゲイである自分を受け入れていなかった。マイノリティへの「差別はいけない」という立場で、自分の傷には敏感で、それでいてその二つを本当に結びつけることはせずにいた。嫌な奴だと思った。みんなに申し訳なく卑怯だと思った。夏休みの数日を寮で閉じこもっていると、李衛に電話だと呼び出された。
「…なんで電話の取次ぎなんてやってんの?」
「俺来年の寮長目指してんだ。クラスの連絡網だってよ」
「…うざ…」
ついぼやくと、李は驚いたようだった。
「珍しいな、そんなふうに言うの」
「…うん、」
夏休みクラスのみんなで集まって、ローカルなテーマパークに遊びに行こう、というのが用件だった。かけてきた女子は、絶対に来てね、と念を押した。
「ん、まぁ、予定があえば。それで俺は次の奴に回せばいいの?」
『あー、ううん、ごめん、悪いけど飛鳥くんに回してくれる?』
「……飛鳥?」
『うん、よろしくです。無理ならいいけどって言っといてくれないかな』 どうやら、出席番号一番の飛鳥には、とりあえずお義理で回すだけらしい。
『ところでさ……ねぇ、二人が付き合ってるってほんと?』
声をひそめられた。二人、が誰を指すのか、司はしばし分からなかった。
「何? え…俺と飛鳥? そんな噂出てんの? へーぇ」
『うん、ほんと?』
司はあははと声を出して笑い飛ばした。「いやぁ、俺としては嬉しいけどさ、飛鳥が怒るよ、それ」
じゃあ回しとくね、と陽気な声を出して、司は受話器を置いた。彼女に腹を立てても仕方ないけれど、なんだか物凄く不機嫌になっていた。人の気も知らないで、無責任な。ごくごく普通に笑えてしまった自分にも苛立った。笑うことか、と思った。
それから、乱暴な手つきで飛鳥へ電話をかけた。
「遊びに行こうって。クラスのみんなで。日付は…」
手帳で確認して、司は思わず言葉に詰まった。敏生の出発日だった。
「…日の、水曜日だって。行く?」
『まぁ…たまには付き合いよくしとかないと…。その日バイトないし』
「行くんだ、飛鳥」
耳に入ってきた自分の声が、分かりやすくご機嫌斜めで、少し驚いた。飛鳥は他人には付き合いづらいと敬遠されているけれど、本人はいたって気さくだし、女の子も普通に好きだし、別に。
『お前は?』
「………俺…飛鳥が行くなら行ってもいいけど…」
大きな受話器を肩で支えて、司はもう一度手帳を見た。敏生、と、荒れた字で一言記されたその日。
「…ごめん飛鳥。あのさ、その日みんなと合流する前、ちょっと付きあってくれないかな」
『何に?』
「うん…野暮用。ごめん、かなり私用、ってか、飛鳥とは関係ないことなんだけど。俺一人じゃ心細いからさ…ダメかな」
『別に。いいぜ』
「さんきゅ」
いつものように、その後すぐ「だから飛鳥アイシテルよ」と続けようとしてさすがに止めた。噂を聞けば、きっと物凄く嫌がるだろうなと思い、ごめんねぇ俺のせいでと申し訳なく思った。ごめんねぇ、飛鳥まで巻き込んで。関係ないことなのにね。飛鳥には、全然まったく、関係のないことなのにね。
水曜日。どこに行くとも分からずに、飛鳥は他愛無い話をする司に相槌を打つ。司は腕時計を何度も確認しながら、足を速めた。飛行機の便は聞いていて、そこから逆算して、家にいるかいないかぎりぎりの時間を選んだ。会えても会えなくても、どちらを想像しても動悸がした。会いたいのか会いたくないのか、どちらを思っても唇を噛み締めた。
ワンルームマンションに辿り着いて、飛鳥も漠然と司の意図を知ったらしかった。最近の事情は何一つ話していないから、詳しいことは何も、分からないはずだけれど。
チャイムを鳴らす。司はとても、緊張していた。部屋の中からは何の物音もしない。もう一度鳴らして、それからドアにそっと手をかけた。開いた。靴の一つも、そこにはなかった。熱いものが胸に、込み上げてきそうになって、司はすぐに扉を閉めようとした。そのとき足元に、何かが吹き飛ばされてきた。
ドアの隙間に挟まっていたらしい。愛想ない茶封筒。拾い上げると、薄い筆跡で、司の名前が書いてあった。
どきりとした。
どうしてこう気障ったらしいんだ、かっこつけなんだ、そう思いながら、後ろに立つ飛鳥からは見えない位置で、封筒から中身を引き出した。想像していたような、手紙ではなかった。一枚の写真がその中に入っていて、司はそれを見て顔を歪めた。
いつ撮ったのか…誠條の冬服を着た司。道端のスナップ。そしてその写真の中で、司はとても自然に、隣を歩く友人を見詰めていた。
とても自然に、誰かを愛していた。
暖かで、穏やかな視線は、何よりも雄弁に彼の恋心を語っていた。
いつも冗談にして、笑ってばかりいたその恋を、司は本当にそのときまで、自覚することがなかったのだ。
(飛鳥は違うよ)
(飛鳥は)
(飛鳥)
時間的にも空間的にも切り取られた、ただ一つの真実と自由だった。
好きだというその気持ちは、言葉からも社会からもすべてしがらみから自由だった。
人を好きだというその気持ちは。
初めから、そういうものではなかっただろうか?
自分の心さえ置き去りに、だから傷む胸も、罪悪感に潰されることなく。
覚悟が、必要?
自問して司はイエスと応じた。
もちろん。
覚悟はいるさ。
人と人が関わるなら、もちろん必要さ。
だけど?
―――だけど。
「加賀?」
声をかけられて振り返った。
写真をポケットにねじりこんだ。
ドアが閉まった。
「なんなんだよ。ここ、誰んち?」
「……うん、」
「お前の…その、知り合い?」
「うん。――恋人。でもしばらくいなくなるんだよね。今多分空港向かってるんだよね。…ねぇ、」
司は少しだけ目を逸らしながら、飛鳥に頼んだ。
「飛鳥、俺に、行けって言ってやって」
なんとも他力本願だと自分で苦笑する。だけど、飛鳥だって少しは悪い。鈍感なのも、極めれば悪い。飛鳥がそうだから、自分も、最初から諦めてた。
「…………なんだかわかんねぇけど…。ってか、そういうことって自分で決めろよお前…」
飛鳥は呆れたように首を振った。
「まぁ、でも、あれだ。…お前そいつとつきあってんだろ?」
呆れているのか、それとも怒っているのかもしれない。どうだろう。司には、よく分からなかった。
「だったらさ、責任、取ってもらえよ」
「…うん」
鈍感だけど、飛鳥は優しい。そう思って、司は笑った。
「うん、さんきゅ、飛鳥、愛してっよ」
司は走り出した。追いつけなかった後姿に、今なら間に合うかもしれない。
最後の手段とばかり、カードでお金を引き出して、タクシーを待つ間に電話をかけた。
「行くから!」 司は怒鳴った。
「行くから、待ってろ!」
タクシーが来たので、返事に躊躇う敏生の言葉を待っている暇はなかった。
携帯電話をまだ持っていてくれて助かった。最後の最後まで…待っていてくれたのだろうか? 自分を? そう思うことは傲慢だろうか? だけど最初から彼は、誰よりもはっきりと、司を見ていてくれたのだ。
その小さな空港には、中学の修学旅行で来たことがあった。ロビーを探す。日本人にしては長身で、目立つはずだけれど、国際線も抱えこむ空港の中では紛れてしまう。目の中に流れ込んでくる汗を袖でぬぐって、司はあたりを見回した。腕を、掴まれた。
「何やってんだ、お前?」
見つけるつもりだったのに、また見つけられてしまった。しかし今はそんなこと不問にして、司は安堵に深いため息をついた。
「…あんたさぁ…もう、サイテイ…」
跳ねる息の下から、かすれた声を紡ぐ。
「…ご挨拶だな」
「こんなもん最後に…残してく?」
「……ああ」
胸に押し付けた、くしゃくしゃになった写真に目を落とし、敏生はサングラスの奥で笑ったようだった。
「フォーカスだろ?」
「…何…言ってんの?」
「ガキはガキらしく、ガキとつるんどけって話」
「………あのねぇっ!」
写真ごと拳を、その胸にどんと叩きつける。
「かっこわりぃ男だなあんた、機械ばっかに頼ってんじゃねぇよ、ちゃんと見ろよ、今。何のために俺ここにいるって?」
乾ききった喉が気持ち悪かった。司は敏生を見上げた。色気のない案内放送がロビーに流れる。上等だよ、お似合いだね、司は笑った。
「女癖悪くてさ、外面だけかっこよくて中身情なくて最低だよほんと。たまにしか優しくないし。…あんたがずっと優しくしてくれれば、俺はずっと笑ってれるかもしれないけど、そんなの無理だって知ってるからいいんだよ。だってさ、それでも、」
司は、サングラスを外した敏生を見て、ちくしょうやっぱりかっこいい、と思った。
顔だけのくせにかっこいいぜ。そう思って、背伸びをした。
「それでも俺、あんたが好きだよ」
囁いて、唇を合わせた。こんな、公衆の面前。その場にいる一体どれくらいの人間が、その行為をアメリカンスタイルの別れの挨拶と見てくれるというのか。怖くて震えた。震えながら、敏生の唇に、ビブラートのかかったため息を吐いた。
「敏生」
雑な呼び方だった。乱暴で、ちっとも愛しげじゃない。
「待っててやるから感謝しろよ。それまで男磨いててやるからさ。その頃にはガキなんて言わせないよ。高嶺の花になっててやるから…安心して、行っておいでよね、アメリカ!」
じっと見詰めてくる瞳が、やっぱりどうしても怖かった。だけどそのレンズに自分の像を焼き付けるために、司は目を逸らすことをしなかった。その瞳の中で、加賀司は自由だろうか?
こんなにもこんなにもこんなにも、棘だらけのタブーに縛られながら、それでも自由にこの彼を、愛せているのだろうか?
離陸する飛行機を見送り、電車とバスを乗り継いで寮まで帰った。
門のところで待っていてくれた飛鳥を見て、初めて号泣した。
――突然手紙を送りつけてすみません。もしかすると、前田さんから聞いているかもしれませんが、僕は加賀恭彦の甥で加賀司といいます。――
その日は随分と暑い日だった。
1時間くらい前に喫茶店に到着した司は、一番冷房のあたるテーブル席で、頬杖をついて窓から外を眺めていた。
一組の若い男女が、互いの腰を抱いて密着しながら歩いていた。この暑いのに、愛って偉大だなぁと司は半分呆れて半分感動した。
――叔父の家で何度かお会いしたことがあります。といっても、僕はあなたが来るといつも、照れてしまってすぐ帰っていたので、覚えてらっしゃらないかもしれません。――
オーダーしたアイスコーヒーは、運ばれてきてすぐに、一息で、3分の2くらい飲んでしまった。ストローを氷の山にがちゃがちゃ突き入れる。帰り、もし時間があれば本屋によってバイト情報誌でも買おうと、ふと思いついた。ポケットベルはやはり不便で、携帯電話を持ちたいのだ。メールが出来るだけでも、亘とのコンタクトが取りやすい。飛鳥にどこか紹介してもらえないかな、と、外の青信号を眺めながら思う。二人でファーストフードの店員でもすれば、それはそれでおもしろそうだ。
――叔父が亡くなってからずっと、あなたを探していました。迷惑かもしれないと大分悩んだけれど、もし、ご迷惑でなければ、一度会ってもらえないでしょうか?――
バイトでもしある程度の金が溜まれば、出来ればパソコンが欲しい。けれどさすがに寮でインターネットは無理だろう。高い切手代と国際電話の料金がかさむ。こうなると、海を隔てたこの距離は大きい。
女子高生のグループが横断歩道を渡ってきた。夏休みのクラブ活動だろう。揃いの半袖白シャツが眩しい。うちの一人とばったり目があって、あるかないかの微笑を交わした。店内には数年前の流行歌が小さな音量でかかっていて、それが司のカラオケでの十八番に変わったので、司は軽く指先でリズムを取った。
――考えてみれば僕は、あれだけあの家に入り浸っていたのに、叔父とも、あなたとも、ほとんど話をしたことがないのです。今更、と思われるかもしれないけれど、僕は叔父とあなたの話を聞いてみたい。(そしていつか、僕の好きな男の話も、聞いてもらっていいですか?)――
点滅する青信号。車のホイール。通りの向こうの薬局ののぼり。腕時計。司はゆっくり視線を動かしながら、自分の鼓動の早さに苦笑する。
初デートみたいだ。ストローの先を指で折り曲げてまた戻す。
――僕の知る叔父は、とても自由で、幸せそうだった。僕は本当に叔父のことをよく知らないけど、あなたをとても好きだったことだけは分かる。あなたを呼ぶ叔父の声を聞けば、誰だってそれが分かっただろう。曇りなく誰かを愛するということの誇りと喜びを、僕は確かに、あなたの名前で知ったのだから。――
歩行者信号が赤から青に変わる。何組かの足が横断歩道を渡りだした。司は背筋を伸ばして姿勢を正した。すっかり薄くなったコーヒーに目を落し、それから喫茶店の入り口を見た。
そこに、自分の心の在り処を見つけようと、真っ直ぐ見詰めた。
悔し涙にレンズを曇らせてはいけない。恐怖に手が震えてピントがずれてもいけない。初めからそこにあるものに、そう、後はフォーカスを合わせるだけなのだ。
ベルが軽やかな音を立て、そしてその人は、やって来た。
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