いぬひめさま
「ひぃふぅみぃよぅいつむぅななやぁ
ここのつとぉ
やまからこぞうがやってきた
ひぃふぅみぃよぅいつとせやぁ
やまべのおにはやまへおかえり」
この国のお殿様には、四人の姫がいた。上の姫君と中の姫君は、とうの昔に他国にお嫁入りしていた。
今お城の片隅で童歌など歌っているのは、一番幼い姫君だ。連日の雨でぬかるんだ泥沼のほとり。肩書きには到底ふさわしくない汚れた着物と素足で毬などついている。
お城の皆は、彼女を「犬姫(いぬき)」と呼んだ。
薄黒い肌と、枯れ木のような腕と足。その容貌が、四六時中彼女の側にいる老犬と酷似していたからである。
犬の齢は誰も知らない。犬姫を産んですぐ亡くなった北の方が、お家元から連れてきた老犬であった。
姉の三人の姫とは、母も違えば美しさも違う、そんな犬姫を、周りが扱いかねていることも事実。
また、故人である北の方と、老犬「いぬき」の間柄を疑う、卑しい流言もあるものだった。
「犬姫、犬姫、」
着物の裾を気にしつつ、ぬかるみに近づいてきたのは、犬姫と五つ年を隔てた姉姫…末の姫だった。彼女は犬姫を気遣う数少ない人である。その輝かんばかりの顔立ちは、上二人の姫にも優るとも及ばず、年齢から見てもそろそろお輿入れの時期と、もっぱらの噂であった。
「犬姫、汚れるわよ。こちらにおいでなさいよ」
姫の澄んだ声に、今まで犬姫の傍らでうずくまっていた「いぬき」が、緩慢な動作で顔を上げた。薄黒い体毛で半ば覆われた黒い瞳は淀んでいた。図体ばかり、類を見ず大きい。
末の姫は、「いぬき」に見詰められ動作を止めた。まったくこの獣ときたら、迎えを待つばかりの老いぼれだというのに、風聞ばかり悪くする厄介者なのだから。
「…ぃふぅみぃよぅ」
犬姫の薄い唇から、しわがれた歌声が洩れた。ついで毬が手を離れ、泥が跳ねた。末の姫は軽い悲鳴を上げ逃れようとしたが、朱の着物には瞬く間に汚い斑点模様が付いた。
「犬姫、」
憮然として妹を見やると、犬姫は歌を続け、
「うえのひめさまやにささる」
と。
末の姫が言葉の意味を計りかねている間、「いぬき」は低いうめきで欠伸をしていた。
お嫁に行った上の姫が、凶矢に倒れ亡くなったとの報が、末の姫達の耳に入ったのは、それから三日目のことだった。信頼して預けた娘が、不埒者の手にやられたのは許しがたい不始末と、殿様はその隣国に戦を仕掛けた。一月ばかりの乱の末、姫の義兄弟の首は荒地にさらされた。半月ほどでその首は消えた。人々の噂によると、闇夜に紛れやってきた巨大な獣が食らったのだという。
この戦に怯えた中の姫は、姉姫の弔いと称し里帰りをした。
同じ頃末の姫は、犬姫の口から、また不吉な歌い文句を聞いていた。
「……なかのひめさまとこにふす」
末の姫の心中に、少なからず疑惑の念が生じなかったといえば嘘になろう。卑しい流言で身体を壊した先の奥方が、側室の娘たちを恨んでいたとしても不思議はない。その怨恨が、愛犬と、愛娘に乗り移っていたとしても。
「犬姫、あなた何故そんなことを言うの」
問うても、返事はなかった。犬姫はいつもの、腫れぼったい瞳で末の姫を見詰めるだけで、「いぬき」も、午睡から覚める様子はなかった。
犬姫の言葉通り、中の姫は突然吐血し、故郷で床についた。その腹に赤子がいたことが分かったのは、姫が息絶えた後だった。中の姫の婚家は、実質上二人の人質を無くしたことになった。
姉姫が相次いで他界し、末の姫は恐れた。産声を上げることもなく死んだ赤子の体が、いつのまにか消えたことも、その恐怖を増幅した。そして国内には、故・北の方と「いぬき」の呪いという噂が、まことしなやかに流れたのだった。
そんなある日、城内に壮絶な悲鳴がとどろいた。断末魔の響きに駆けつけた人々が見たのは、「いぬき」に喉笛を食いちぎられた殿様の無惨な姿。そしてボロボロの姿でそれを見詰める、犬姫だった。
末の姫は戦慄し、「いぬき」を殺すように命じた。老犬と引き離されるとき、犬姫は初めて大声で泣き喚いた。父親が死んだときには、事情も、泣き言も、何も漏らさなかったというのに。犬姫はそれから数日、内にこもり、ひとりでいた。
一方「いぬき」の亡骸を抱え、皆は途方にくれた。このようなおぞましい、恐ろしいけだものを、さてどうするべきか。するとそこへ、旅の修行僧という者が現れた。
「噂をお聞きし、お役に立てるかと思いやって参りました。その犬畜生、わたくしめが供養いたしましょう」
僧は、「いぬき」の亡骸と、一晩山にこもった。戻ってきたときには、すでに老犬の姿はいずこにもなかった。
さて、主に亡くなったお城では、次の殿を早々に決めなければならなかった。血筋の者に男児はおらず、末の姫が婿を取ることとなった。末の姫の美しさに加え、この国の広大な領地が手に入るとなれば、各国のおのこがこぞって名乗りを上げた。しかし殿が、娘らの不幸にも負けず築き上げてきたこの国を、そう簡単に他国に引き渡すも口惜しい。婿は自国から選ぼうと決め、目に止まったのは例の修行僧だった。
「いぬき」の一件から、彼は城でもてなしを受けていた。機知に富み、また類い稀な美貌の持ち主で、末の姫も気に入っている。あの化け物を始末してくれた恩もあれば、あれ以来不幸も起こっていない。これはなかなかの逸品ではないか。
盛大な婚儀の行われる中、犬姫は歌った。
「すえのひめさまおににくわえる」
皆がそれを聞き、恐れた。その夜は、厳重な警備が配された。末の姫は、夫と共に奥の一室に。
かがりびが灯る深夜、黒い影が末の姫のいる離れへと走っていくのを、兵が見た。叫び声と共に矢が飛び交った。影は充分にすばしこかったかが、それでも一本の矢が刺さった。てんてんと血の跡を残しながら、影は末の姫と扉一枚のところまで走った。そこで矢が、胸に刺さり息絶えた。
それは犬姫だった。困惑する人々は、末の姫の悲鳴を聞いた。それほどまで近くにいなければ、聞き逃していたであろう悲鳴が、室内から聞えた。
扉を破り侵入した人々は、今にも鬼に食われんとする姫の姿を見たのだった。集まった人々の手で鬼は成敗されたが、末の姫の悲しみようはなかった。
おそらく犬姫は、「いぬき」を追って山へ入っていたのだろう。そして修行僧の姿から、異形に戻った鬼が、「いぬき」を食らうのを見てしまったのだ。
これまで国に災いをもたらしていたのは、「いぬき」ではなくあの鬼であったと、人々は深い悔恨にかられ、犬姫を丁重に葬った。
後日談である。
三人の姫の母である狩衣の君が、「いぬき」に殺された夫の遺品を眺めていた。そしてその中に、上の姫を射った矢と、毒薬があった。
狩衣の君はしばらくそれらを見詰めていたが、また元通り薄絹に包むと、他の品々と共にしまいこんだ。犬姫の墓参りに行くのに、時間が惜しかったのだった。この君の心情からも、この付け足しが全くの蛇足であることが分かる。
(初出:1997年9月20日発行箕面・豊中高校文芸部合同部誌「修羅場」)
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