KNOCKIN' ON YOUR DOOR (後編)
災難は、忘れた頃にやってくる。その日の一部始終を忘れるには早すぎたが、家に帰って一息ついて、制服のままテレビを見て、さぁ風呂でも入るかと思っていたとき、飛鳥の家の電話が鳴った。
「はい、飛鳥…」
『………まさし、そっちに行ってへんか?』
佐伯だった。思わず掛け時計に目をやった。「帰ってないんですか?」
11時半になっていた。
『いや…行ってへんのやったらええんや…。ほな、』
何もよくはない。一方的に終えられた短いやり取りを反芻し、飛鳥は加賀へ電話をかけた。佐伯にかけなおしたかったのだが、この家の電話には番号通知の機能がついていないのだ。
加賀は誠條の男子寮で暮らしている。取次ぎを頼み、5分ほど待たされ、外泊届が出ていると伝えられた。ポケットベルでは役に立たない。
飛鳥は、もうすぐ帰ってくるはずの両親に心配無用との書置きを残し、自転車でまさしの家へ向かった。
伊ノ原の表札の手前のところで、同じく制服姿の加賀が壁にもたれて飛鳥を待っていた。
「ほんとに来るとは思わなかった。微妙。千円くらい賭けてりゃ良かった、亘さんと」
「…何か、あったのか?」
「分からない。亘さんの携帯に、ここの家の人から連絡あって。まさしくんが帰ってないって」
「佐伯さん、中?」
「そう。俺はちょっと関係ない人だから。飛鳥来るなら外で待ってようと思って」
家出。もしくは営利誘拐。二字熟語と、四字熟語。
「心配?」
加賀が表情の見えない顔で尋ねた。
「こないだ会ったばっかでしょ。今日だって、あの子が勝手に逃げ出してどっか行っちゃったんだから、飛鳥は関係ないよ」
飛鳥は自転車を路肩に停めて鍵をかけた。
「…巻き込まれたからには、付き合う」
「……そんなだから巻き込まれるんだよ」
加賀は笑った。「飛鳥がそんなだから、俺、どんなにつれなくされても飛鳥のこと愛してっよ」
いつもの軽口。どの程度本気なのか、分からないのも毎度のことだ。
「浮気すんなよ。恋人二人いんだろ」
「うん。……でもね、これって、俺のせいかな」
「どれ?」
「俺が亘さんと付き合ってなかったら、よかったのかな。いたいけな小学生を、傷つけずに済んだと思う?」
妥当な返答を探っていた。そのときインターホンから、佐伯の声が二人を呼んだ。
『司、飛鳥くんもおるか?』
「いるよ、やっぱ来たでしょ、ほらね」
なぜか加賀は自慢げだ。
『今開けてもらうから、中入って来ぃ』
伊ノ原邸は、外から見た以上にゆとりある空間に建てられていた。石灯籠のある和風趣味の前庭を、車庫を横目に通り、二人は佐伯に迎え入れられた。
「悪いねんけど、今日まさしと別れたときのこと、ご両親に説明してくれへんか」
「いいですけど…あの、連絡はないんですか」
「…あった」
「本人から?」
「ああ、まさしやった」
「なんだ。じゃあ、」
「誘拐されてる…て、言うてた」
思わず立ち止まりかけた飛鳥の肩を、加賀が押して歩かせた。
「電話、まさしやったから問題やねん。ご両親は、疑っとる」
何も言えなくなった飛鳥の代わりに、加賀が冷たいくらい落ち着いた声で尋ねる。
「狂言じゃないかって?」
「そうや…。まさし、これまでに何回か補導されとるし…。狂言誘拐も、一度やったことあるらしい。やから今回も、自分らの気ぃ引くための、芝居やないかって」
「じゃあ、警察にもまだ」
営利誘拐なんて無駄だと繰り返していたまさしを思い出した。
突き当たりの、おそらくは応接間に通じるドアの前で、加賀は一度だけ立ち止まった。
「ねぇ、俺は何者ってことになってるの?」
「………俺の、もう一つの家庭教師先の教え子」
「そう」
安堵と諦めの混じった、複雑な「そう」だった。扉の向こうの広い洋間には、一組の男女しかいなかった。身内の人間を呼んでいないのだった。関係のない人間だから呼ばれたのだ、と悟った。外聞の悪い結末を迎えても、差し障りがないように。
女性は、20代といっても通用する若々しい化粧をしていた。飛鳥を見て一瞬無意識に顔をしかめた。加賀と違って、特にご婦人方に受けのいい、人当たりの良い顔立ちでもないし、服装も雑だし、飛鳥にとっては慣れた反応である。男性の方は恰幅のいい紳士である。しかしいかんせん、まさしの父親としては若干年配のように思われた。母親の連れ子かと邪推もしかけたが、記憶の中のまさしの目鼻立ちは、父親譲りのようだった。
「飛鳥さん? まさしがお世話になったようで…」
年配の人間に「さん」付けされるのは珍しい。飛鳥はまだ直接尋ねられてもいないのに、今日一日の出来事をつっかえつっかえ話し出した。
早朝裸足で歩いていたこと、女性の財布をすったこと、迎えの車を前にして、走って逃げて行ってしまったこと。どれも、二人にとっては驚愕に値しない話のようだった。加賀だけが、初めて聞く伊ノ原まさし像に、じっと耳を傾けていた。
話が終わると、父親がもう一度、飛鳥に対して謝罪と礼をした。
「いえ、俺が、車に乗るまでちゃんと見ておけば…」
あのあたりは、バスターミナルから外れてしまうと、あまり車の小回りがきくところではない。おつきの運転手も、車を止めている間にまさしを見失ったという。
「そのことですけど…」婦人がおっとりと、微苦笑しながら切り出した。「あの子の、一人芝居でないかと思うんです。以前にも、ボイスチェンジャーを使って同じようなことを…。あのときは私たちも大騒ぎをしてお金も用意したんですが、結局、いろんな方に迷惑をかけるだけになってしまって…」
「だけ」かどうかはあんたたち次第だったんだ、と飛鳥は思わず言ってしまいそうになった。まさしが、それだけのことをして求めていたものを、与えることが出来なかったら今があるのだと。
しかし飛鳥は所詮、数日前からまさしを知っているに過ぎない。彼らの10年間と、自分の数日。その距離が飛鳥に、常識的な無言を強いた。
「だけど、もし本当だったら?」
加賀が、その場で初めて口を開いた。
「交渉をすべて人質に任せきるような誘拐犯が?」
子供をいなすように紳士が微笑んだ。
「可能性はあります。たとえば……そう、声を隠さなければならないような…比較的近しい人物による犯行とか…」
「司。失礼やで」
「だって、これは事件でしょう!?」
加賀が佐伯を睨みつけて叫んだとき、テーブルの上の電話が鳴った。
まるでそれが礼儀のように、数度ベルをやり過ごし、紳士は「紳士的に」受話器を取った。
「まさし…? ああ、お父さんだ」
まるで、親戚の家に泊まりに行っている子供と、話しているようだった。異常だと飛鳥は感じた。狼が来たぞと叫ぶピーター少年。
「お金のことなら心配しなくていい。それより早く帰ってきなさい。佐伯先生や、お友達の飛鳥さんも心配して…」
営利誘拐なんかしても無駄だよ。そんなまさしの絶望的な声音が聞こえるようだった。
「え? ……いや…分かった」
困惑した視線と、受話器が、飛鳥へと向かった。「まさしが、代わってくれと」
今度は飛鳥が困る番だった。何を言えばいいのか、聞き出せばいいのか、緊張して受話器を耳に当てた。
「もしもし、」
『飛鳥…?』
「おう、俺。…お前、さ、」
『………僕……飛鳥に、ネクタイ返さないと……』
「…あ?」
反射的に尻のポケットに手をやった。そのとき電話は切れた。切れました、と告げて、受話器を戻す。ネクタイは、いつのまにか消えていた。いつ取られたのだろう。いや、それよりも、それがどうしたというのだろう。
「何を言ってました?」
「…さぁ…? なんか、よく分からなかった…です、」
首を傾げる。ネクタイ?
「誘拐犯」の要求金額は、相場――が、どんなものかは知らないが――よりかなり低額なようだった。はっきりと口にしなかったが、調達は容易く、その金額もまた、この誘拐劇を子供じみたものに見せる一因らしかった。
「子供には大金かもしれませんが…」
こう言ったとき、伊ノ原氏はふと飛鳥と加賀を見た。すぐにかぶりを振って、続ける。
「実の我が子と比べたら微々たるものです。万一のためにも用意はします」
警察へ通報することについての言及はなかった。それが、「万一」のときのための、まさしを案じる親心でもあると暗に匂わされては、部外者は何も言うことは出来ない。
「夜遅くに呼び立てて本当に申し訳ない。まさしが無事戻ってきたら、食事にでも誘わせてください」
もうお引取りを、ということらしかった。この夫婦がこの夜を、どのような話をして明かすのか興味があったが、あまりほのぼのしたものではないだろう。
3人は無力感に引きずられるようにして屋敷を後にした。石灯籠のある前庭を通っているとき、飛鳥は例の黒塗りの外車を車庫に見つけて近づいてみた。
飛鳥にネクタイを返さないと。
「加賀!」
抑えた声で呼び寄せる。
「お前、視力いいよな?」
「飛鳥よりはよかったと思うけど…」
「あれ、見えるか? 後部座席の、シートの隙間に挟まってるの」
車のウィンドウは、かすかにスモークがかかっていて、色調はかなり分かり辛い。それでなくても真夜中だ。シートベルトの先っぽや、カバーのタグや、その他いろいろな可能性が考えられないでもなかった。
「……S.H?」
加賀が目を細めてそう読んだ。「…これ?」自分の胸元から指先でつまむ、濃緑の、ネクタイ。
「司ー、飛鳥くん、早くせんと入り口閉められるでー?」
僕、飛鳥に、ネクタイを、返さないと。加賀が先ほど言った。「比較的近しい人物の犯行」。だけどそれなら、誰よりまさしの両親が気づいていそうなものではないか? まるで親戚の家に泊まりに行っている子供。あの反応は異常だ。関係のない人間だから呼ばれた。…何のために?
狼が、来た。
「飛鳥はお人よしだね」
加賀が街頭の下で微笑む。
「本当に、まさしくんの一人芝居だったらどうする?」
「……こないだ、現国で読まされたやつあっただろ。茂み…? えっと、」
「『藪の中』?」
「そう、それ。あれさ、別に、誰が本当のこと言ってるかってクイズするようなもんじゃないんだろ?」
「……そうだね」
「本当でも嘘でも、誰かが動いてやらなきゃ――」
「…………お人よし」
「別にお前に付き合えなんて言ってねぇぜ?」
「弱いくせに何かっこつけてんの。こんな美少年のボディガードがそこらに落ちてますか。拾いなさい。お買い得だから。『ゲイのくせに』、俺は強いよ?」
「どうせ俺はヘテロのくせにお人よしだよ」
「これからショタコンと呼んだげる」
「……。佐伯さんはどうする?」
「あの人は常識人だから止めるだろうねぇ。でも、未成年二人で歩いてて補導されるとやばいから、連れてこう。あの人こないだ二十歳なんだよね。それに、俺たちだけじゃそもそも、その運転手さんの住所が分からない。致命的」
飛鳥は公衆電話から家へ連絡を入れた。加賀と共同発表の準備をしていて、遅くなったから寮に泊めてもらう…。加賀はPTA連中に受けがいいので、だしに使うには都合がいい。夜間勤務から帰ってきてお疲れの母親は、疑念を抱くことなく、「迷惑かけないように」と寝ぼけながら釘をさしただけだった。加賀も、どこかしらに電話をかけていた。
初めのうちは一人だけ状況が分からずしかめ面の佐伯だったが、伊ノ原の運転手さんの住所を知らないか、と問われ、おいおいおい、とさらに顔を歪ませた。
「わけわからんけど…でもそんなら、先に伊ノ原さんに伝えて、警察に通報すんのが真っ当やろ?」
「多分動かないですよ、あの人たち。なおさら狂言だって言うかもしれない。…実際、これは誘拐劇だと思います。まさしじゃなくて、大人の」
佐伯はその妙な顔のまま、夫婦の様子を反芻しているようだった。飛鳥を見て、ため息をつく。
「もしそうやったとしても、それでどうすんねん? 結局まさしは、これからもあの家で生きてかなあかんねんで? ちょっと関わっただけの俺らが、どうにかできるもんか?」
飛鳥は少し言葉に詰まった。加賀が、「ちょとだけ出来そうなもんならやるしかないでしょ」と佐伯の頭を軽く叩いた。飛鳥は、加賀がそれ以上佐伯に危害を加えないように、詰まっていた言葉を吐いた。
「俺たちまさしよりは大人に近いんだから…このままあいつを、大人に絶望させたら、なんか、取り返しつかないような気がするんだ。………気が、します…」
俺は司らよりさらに大人に近いんやけどなぁ、とぼやきながら、佐伯は携帯電話を取り出した。伊ノ原家の家事手伝いの女性と交流があるという。
「……うーわ、亘さん、浮気?」
「違うて…。あっちが勝手に言い寄ってきただけやて…」
今夜だけで、この二人の痴話喧嘩にも慣れてしまった気がする。
深夜のコールを、彼女は側に立つ飛鳥にも洩れ聞こえる、嬉しそうな声で受け取った。加賀が佐伯の足を踏んだ。
「いや、そうやなくて…そういう用件やなくて…」
加賀の攻撃をかわしながら、佐伯はなんとか目当ての情報を引き出そうとする。期待していたお誘いではないと分かって、その人は途端に不機嫌になった。耳に残る金属製の声で、調べてくれた住所と電話番号を告げると、捨て台詞はこうだ。
『なによ、あんたホモだったの!?』
メモを取りつつ加賀がふきだす。電話は切れた。
「俺の心は傷ついた。名誉の負傷や。これは勲章モノやで」
「はいはい。ほんとのことでもあんなふうに言われちゃ傷つくよね。よしよし」
現金にも機嫌を直した加賀が、笑いながら佐伯の頭を撫でた。
「でーもなぁ、やっぱやめといた方がええんとちゃうの? 向こうがやけになって傷害沙汰になったら何かと問題やで。ほっといたら、無傷やろ?」
多分、身体の方は。
この場で唯一の成人男性として、佐伯が渋るのも理解出来るが、すでに住所を聞き出したからには妨げはない。
「亘さんは来なくてもいいよー」
ぷいっと顔を背け、加賀は飛鳥の自転車に二人乗りした。
「げっ、司!? 補導されても知らんで!?」
「飛鳥、出発進行」
「…いいのかよ…」
「いいよ。この住所じゃ住宅街ど真ん中だし、巡回なんてやってないでしょ。亘さんの責任問題になってもやばいし。あーあ、俺っていい子!」
苦笑して、飛鳥は自転車をこぎだした。ペダルはさすがに重い。加賀が飛鳥の肩に手を乗せて、佐伯へと叫んだ。
「吉報待ってて!」
「待ちやって!」
佐伯はしばらく、自転車を追って走っていたようだったが、数分もしないうちに振り切れた。
「ほーら、日ごろの運動不足がこたえるこたえる」
加賀がけらけら笑った。
「さぁってと、おじさんとまさしくんが、別のとこにいたら全部おじゃんだよね。ホテルとかマンションとか。飛鳥の運次第ですか。賭ける?」
「学食の食券3枚」
「おーらい」
自分がとりたてて強運だと思ったことはない。あえて振り返れば、誠條に受かったことくらいだ。けれど、すべてが伊ノ原の家の手中で行われていることなら、空間的な広がりは極力抑えられているはずだった。
「ま、そもそも全部飛鳥の妄想かもしれないんだしねぇ」
それもその通り。勘でしかない。
「その場合は、全部終わった後、飛鳥ってばこんなにバカだったんだよって指差して大笑いしたげるから心配無用だよ」
「……いいダチを持ったよ」
「だろ。誇りなさい。敬いなさい。称えなさい。俺ってば健気」
これで当分、加賀には頭が上がらないかもしれない。全部が飛鳥の思い込みで、まさしが仕組んだ狂言誘拐ならそれはそれでいい。一番安全で害がない。自分はまさしを信じているのか、いないのか、そんな質問には答えられないのだ。出会って数日。互いを知るには短すぎる。どうしてここまでするのかと、その答えは浪花節かもしれない。お人よしで、だけどそれは加賀だって同じだ。
どこまでが嘘で、どこからが本当だろう。誰が敵で、誰が信用に値する人物か。愛情って一体なんだった?
境界線がはっきりと見えるくらいなら、こんな世知辛い世の中で、無闇に傷つくこともないのだ。
そこはお世辞にも高級とは言えないマンションだった。10年経てば、アパートと名称が変わっているかもしれない。自転車から身軽に飛び降りた加賀は、小さく短く口笛を吹いた。
「食券一枚は奢るよ。ラッキーだね。今時何のセキュリティもないなんて」
左ハンドルの外車を運転していても、私生活は逼迫しているのだろう。本当に本物の誘拐である可能性もあるな、と、心の中で少しだけ怯えた。切羽詰った人間なら、本当に危険かもしれない。
さて、どうしよう?
「加賀ー、おい、飛鳥。来たぞー」
少し離れた路地裏で、こそこそ作戦会議をしていたとき、原付のヘルメットを抱えた巨体がぬっと現れ、飛鳥はびびってしまうところだった。
「うまく抜けれたんだ。さすが李衛」
加賀が小気味よく手の平を打ち合わせた。飛鳥が家へ電話しているとき、加賀は李の携帯電話にかけていたらしい。
「寝てたよ俺は。お前ら元気だな。こんな夜遅くに」
「何を仰る。まだまだ夜は長いのよん」
「規則正しい生活は武道家の義務だぞ、加賀」
「俺はただの遊び人だからね」
飛鳥も、おそらくは加賀も、運転手に顔が割れているのである。「李はでかくて目立つけど」とは加賀の弁。「その分顔の印象は薄いんだよね。もし見たことあっても覚えられてないよ。行ってらっしゃい」
アバウトだなぁ、と李はぶつぶつ文句を言っていた。詳しい事情を聞いてもいないのに協力してくれる。よほど加賀に恩を売りたいのか、「俺の人徳だね」と、加賀は自慢そうにしていたけれど。
深夜のチャイムは意外によく響く。李は自分の鳴らしたその音に恐縮し、身体を小さく丸めていた。部屋の主は出てこない。飛鳥と加賀は、マンションの通路側に面した植え込みの影で様子を窺っている。もう一度李がチャイムを鳴らす。3階の端の部屋。扉がゆっくり開いた。
声は聞こえないけれど、言ってもらう台詞は決まっていた。
「夜分にすみません。俺、昼間、上の階に遊びに来てたんですけど、そのとき鍵の入った財布を落としたみたいなんすよね。見かけませんでしたか? 女物の、赤い小銭入れなんですけど…」
思った通り、やり取りはすぐに打ち切られた。李が静かに階段を下りてくるのを見届け、一足先にその場を離脱。
「財布の説明したときに、奥の方で物音がしたよ」
李はあくびをしながら報告した。「怖い顔したおっさんが一人出てきた。結構強そう。他に人の気配は多分なかった」
「加賀、食券3枚」
「…………おーらい」
加賀は情けない顔で天を仰いだ。
「なんてこった。飛鳥との夜のランデブーが高くついちゃったなぁ」
芝居がかった口調で嘆く。今の今まで半信半疑だったらしい。飛鳥自身もそうだったので、無理もない。
「日ごろ俺を邪険に扱ってた報いだ」
そんな李の主張を聞いて、タイプこそ違うが、この二人は似たもの同士なのだと飛鳥は納得した。
「さぁてどうします。部屋に入らなきゃどうしようもないよね? 3階じゃ、窓からの侵入は無理だしねぇ」
「ドア開いたときも、チェーンはしっかりしたままだったぜ。あれはさすがに引きちぎれねぇ」
「ネクタイ見つけたことと、マンションがぼろくてインターホンもなかったことと、これで運使い果たしちゃったんじゃない?」
縁起でもない。だいたい、飛鳥の運ばかりに期待しているが、加賀や李や、それにまさしの運だって残っているはずだ。なければ作る、とも思ったけれど、さすがに恥ずかしくて口に出すのはやめた。
「おっさんを外に出せばいいんだよな…。一瞬でも、チェーンが外れるんだから…」
「誘拐犯が外に出るシチュエーションってどんなかな」
「人質の食料調達とか、取引の電話かけに行くとか…」
「こんな時間に?」
「じゃあ、いっそ、初めからまさしのことで話があるとかって誘い出す…」
「警戒するでしょ。もっとこう、慌てて周りの確認しないくらいに飛び出してもらわないと…」
誘拐犯が慌ててしまうような不慮の事態…。たとえば、今、同じことを、あの部屋の中でまさしが考えていたとしたら?
「戻ろう。すぐ駆けつけれるところ…階段の踊り場がいい」
財布、の合図にまさしが気づいたなら、すぐ近くに飛鳥が来ていることも分かっているだろう。信用、してくれるだろうか? 敵を。
マンションの階段に足をかけたとき、頭上からけたたましい音が聞こえた。ガラスか何かが割れる音だ。飛鳥は身も凍る思いで、加賀か李か、どちらかに向けて「行ってくれ」と頼んだ。身軽な加賀が、一足飛びで階段を上っていく。無関心な夜の町の中で、2階の一室に明かりが灯った。住人がドアから顔を出して飛鳥たちを見たが、音には無関係と分かってすぐ引っ込んだ。
やっぱり無謀だったろうか。今更、不安に持っていかれそうになる。自分の行動で、取り返しのつかないことが起こっていたらどうしよう。
加賀が、ドアの死角になるような場所で待っていた。飛鳥の見ている目の前で、がちゃがちゃとドアが震えた。中から、扉は開いた。血相を変えたジャージ姿の男性が出てきた一瞬を狙って、加賀が動いた。柔道は護身術、俺ちっちゃい頃よく痴漢にあってさぁ。寝技うんぬん、と、どちらが本当の動機か知る術もないが、とにかく加賀の強さは本物だった。転がるように飛び出してきた男の、自分より高い首筋に、加賀は一閃、手刀をお見まいした。足も動いていたようだが、飛鳥にはよく分からない。音もなく人が倒れる、そんな光景を見るのは去年の春以来だ。他校生に因縁をつけられ、取り囲まれたとき、助けに入ってくれた加賀が全員をノックダウンした。それが、「誠條の飛鳥裕次郎」神話の元になったエピソードなのだが、なぜかちまたに流布する噂からは、加賀がその場にいた事実さえ消え去っていた。
のされてしまった男を、加賀と李が扉の内側に引きずる。
「おい、試合なら今のは反則取られてるぞ」
「細かいなぁ、李衛。いいじゃん、ジャッジがいるわけでなし」
まったく、とんでもない学園の王子様だ。
二人の脇を通り、飛鳥は土足のままで部屋に上がりこんだ。奥の和室。散乱するガラスの破片。そして、左足から血を流した、まさし。
両手を後ろで縛られ、口を塞がれていた。人質が、バンソウコウでは足りない怪我を負うのは、不測の事態だったろう。救急車を呼ぼうとしたのか、コンビニに医薬品を買いに行こうとしたのか、主人に判断を仰ごうとしたのか、そのあたりは謎だけれど。
自分のせいだろうか、これは。李に、携帯で119番してもらった。うろ覚えの止血処置をして、手首と口を解放してやる。ぷはっと大きく息をついて、まさしは、「痛い」と顔をしかめた。白いソックスが血に濡れていた。
「当然だ、バカ」
叱りながら、次の質問を恐れた。
「……お父さんとお母さんは?」
答えられなかった。心配していた、と告げるべきだと思った。まさしの、それでも諦めたような目から、ぼろっと涙が零れた。
「飛鳥!」
加賀の大声と物音で、はっと後ろを振り返ると、意識を取り戻した誘拐犯が仁王立ちしていた。とっさにまさしを庇ったが、庇うまでもなく飛鳥が殴られた。ガラスの破片で、二の腕が切れた。飛鳥が体勢を立て直す前に、李が男に足払いをかけたがかわされた。李は腰を落とし、突進してくる男の腕を胸に抱えた。背負い投げが決まるかと思ったが、畳に散らばるガラス片に、李はためらった。その隙に、男は李を壁際に追い詰める。加賀が必死になって、李を助けようと後ろからかかっていったときだった。
数人の男がなだれうって部屋に駆け込んできた。
「警察だ! 大人しくしろ!」
紋切り型の台詞だった。飛鳥は生まれて初めて警察の捕り物を間近で見た。警官の後から、佐伯が恐る恐る入ってきて、この常識人が通報したのだと知った。
ようやくサイレンの聞こえ始めた救急車より先に、まさしは警察に保護された。
翌日は三人とも学校に行けなかった。息子の行動に無関心な飛鳥の家はともかく、李は寮を無断で抜け出してきており、その説教も待ち構えていた。そして事は、人騒がせな「誘拐ごっこ」として片がついた。そう、ごっこ遊び。
飛鳥の考え通り、まさしを誘拐した側とされた側は共犯だった。もともとは運転手の経費使い込みが発端だったという。それは、伊ノ原家にとっては、由々しき、とは言えない金額だったが、内々に処分するには大きかった。親会社への体面もあって、金策に走ることも難しい。当の運転手も、この家に長年勤めてきただけあって、そうそう簡単に解雇など出来ない、大人の事情があったらしい。
伊ノ原氏は、何かしかるべき理由をつけて、「戻らない金」を作る必要に迫られた。そして、以前に一度息子が起こした狂言誘拐を思いついた。関与した人間からすれば、茶番劇以外のなにものでもなかったのだ。ただ一人、事情を知らされていなかったまさしを除いて。子供を傷つける意図はまったくなかった。彼らは、まさしも納得済みの計画だったと主張し、まさしはそれに頷いた。怪我は、不慮の事故だったと。
無力な見届け人として選ばれた佐伯たちの勝手な行動がなければ、まさしはその身体に、かすり傷一つ負うことはなかっただろう。そして冷えたまさしの心は、凍りついていたかもしれない。
「…俺、バカなことしたのかな」
まさしが両親を庇ったと聞いて、飛鳥は思わず呟いた。
「でも、あの子は、飛鳥に助けてって言ってたんだよね」
加賀が答えた。
「あの子にとって、よかったのかどうかなんて分かんないよ。もしかしたら、救われたのかもしれないし、結果的に余計なことだったのかもしれないけど、でも分かんないよ。…飛鳥は偉かったよ」
助けを求めた相手に助けられたことで、まさしが、少しでもこの世知辛い世の中への絶望から救われたなら、と思う。それにしても加賀に慰められて、飛鳥は少し後ろめたかった。
真夜中、伊ノ原の家の前で、まさしが傷ついたのは俺のせいかな、と問う加賀に、飛鳥は即答してやれなかったのだ。
すぐに、否、と言ってやれればよかった。
それはお前のせいじゃない、と。それはまさしの心の中の問題だから、と。今、加賀がそう言ってくれたように。
深夜の捕り物騒ぎから数週間。李が、次の公式試合を棄権することになったと聞いて、飛鳥は「まこと寮」に謝罪に赴いた。
「いや、どうせたいした試合じゃねぇから」と李は手を振ってそれに応えた。
「それよりどうだ、やっぱ柔道部入らんか?」
飛鳥は苦笑して、丁重に辞退した。そして、どうしてそこまでして加賀を部に戻したいのか尋ねてみた。
「俺はな、加賀に借りがあるんよ」
李は声をひそめてそう教えてくれた。この世は、未返却の貸しと借りで溢れているらしい。
「中3のとき…その、奴がカミングアウトっちゅーやつをしてきたとき、俺は逃げちまったんだよな」
言われてみれば、飛鳥は加賀に、そんな正式な(?)カムアウトなどされた覚えはない。いつのまにか、そういった軽口やジョークに慣らされてしまって。
「思わずこう、身を引いて、それで、それは治るのか、とか、更正しろ、とか、な。言っちまった」
それまで李は、同性愛など身近なものとして考えたこともなかったのだと言う。ましてや、数年来の親友が、そんな「異常な」性癖を持っているとは、夢にも思わなかった。
「それまで、俺の国籍について他の奴らがどうだ言うとき、加賀の奴は一緒になって戦ってくれてたっていうのにな。偏見とか差別意識とか、俺なら分かってくれるとあいつが信じて告白したことを、俺は無下に撥ね付けて…傷ついた、だろうと、思う」
そのときから、加賀は李に対して距離を置くようになったという。高校の柔道部に入らないのもそれが理由なら、自分には、彼を誘いつづける義務がある。
誰の、どんな親しい人間の心の中にも壁があって。
どうしてもその壁が邪魔なんだ。その向こうに、開かれた世界があるのが分かって、その壁の存在も痛いくらいに自分で分かって、それでも崩せなくて本当に嫌になるけれど、自分はずっと、その壁を叩きつづけているような気がする。差別意識とか、偏見とか、そういったものが自分のここにもあるのが、本当によく分かって、加賀を逆恨みしたくなったときもあるけれど。
「正直言えばまだそういうのは理解できねぇよ。気持ち悪いとも思っちまうけど、でも加賀はいい奴だと思う。理解してやりたいんじゃなく、理解したいと思う」
李が言うほど、加賀がそのときのことを根に持っているとは飛鳥には思えない。しかしそれも、李の心の問題なのだろう。
衣替えの時期が近づいていた。なくしたままのネクタイを、もう一本購入すべきか否か、飛鳥は迷いながら一人だけで賭けをしていた。
まだ暗い早朝の町を、自転車をこぎながら新聞配達に回る。これはこれでいい運動だから、やはりもうしばらく原付は見送ろうと思う。加賀と李、あの二人を念頭に置くのは比較対象が悪すぎるが、それにしても自分の腕っ節のなさはなんとかしたいものだった。相変わらず、喧嘩を売ってくる他校生から、逃げ回る日々が続いている。
最後の一軒に新聞を配り終え、飛鳥は、さっきから付近をうろついていた、制服姿の小学生に声をかける。
「乗るか?」
少年は、嫌そうな顔をしながら、こくんと頷いた。左足には包帯がまかれている。なんだかんだ言いつつも、彼の家はあそこだった。
彼の両親が、どの程度の罪に問われたのか、飛鳥は知らないままでいる。
少年を荷台に抱き上げ、飛鳥は自分もサドルにまたがった。
「…あんたに聞きたかったんだけど」
「あ?」
「加賀さんてどんな人」
「…ちょっと待て、どうしてあいつだけ『さん』付けだ?」
「だってあの人強いから」
「……弱くて悪かったなぁ」
子供は正直だ。飛鳥は一瞬だけ、柔道部に入部しようかと思ってしまった。
「僕はね、お兄さんと加賀さんのことを聞いて、それはお兄さんの汚点だと思ったんだよね」
まさしは、飛鳥の傷心など意に介せず話を続けた。
「だから加賀さんは『敵』だった。けど、あの人、悪い人じゃないね。…あんたも」
まさしは、家のほうのごたつきもあって、しばらく入院していた。その間に、加賀は何度か見舞いに訪れていたらしい。ゲームでつったのか食い物か…何にせよ、すっかり懐柔してしまったようだ。
「佐伯さんにとって、加賀がいいもんかどうかなんてわかんねぇよ。ほっとけよ。幸せそうにやってんなら何よりだろ。そんなことよりお前は、お前の敵と戦ってりゃいいんだ」
こんな小さな子供の心にも、李の言う壁はあるのだろう。その壁を叩く拳の痛みを、まさしは、加賀に責任転嫁しようとしていた。飛鳥にもとばっちりだった。でも、それはもういい。
「両親なら相変わらずだよ」
諦観したようにまさしは告げた。朝早くに風を切って自転車に乗っけてもらってるのは気持ちいいね、ほんとにやになっちゃうよ、そんな具合のひねくれ方だ。
「まぁ、な、難儀な世の中だから」
飛鳥は何の答にもならないことを言って返した。
「世知辛いな」
「…まぁね」
知ったような口の利き方で、まさしはそれきり黙りこんだ。
でも、愛があれば平気。そう続けたのは加賀だったろうか。
伊ノ原の家の近くまで来て、まさしはやっと口を開いた。
「あんたのネクタイをね、加賀さんに渡そうとしたんだけど、あの人受け取らなかったよ」
「……なんだって?」
そんなこと、加賀は一言も言っていなかった。
「それはまさしくんにあげるから、戦利品はそれが最後ってことにしときなよ、だって」
「あいつ…勝手に…」
「だからもらっとくよ」
許可を取るのではなく、それは一方的な通知であった。飛鳥は、ネクタイ代を親から捻出する言い訳を、加賀に考えさせることに決めた。賭けは勝ったのか、負けたのだろうか。
じゃあね、またね。まさしはバイバイと手を振って、門の向こうに入っていった。自らを傷つけるものを敵と呼ぶなら、彼の「敵」はその扉の向こう側にもこちら側にも、うじゃうじゃといる。自分の心の中にさえいる。さあ、どうやって戦おう?
小さな拳で、血が出るほど強く、何度も、この胸を打てばいい。
もっともっと広い世界への、入り口を探すのだ。
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