安全地帯の鬼

 怪我して以来、包帯を巻いたその左足を少し引きずって歩くのが奴の癖になった。右足を出して、次の左足を繰り出すまで、刹那の休止がある。
 秋分も過ぎて真っ暗な早朝を、小さなフォルムがゆっくり前を行く。見つけてから数回ペダルをこげば、大きな車輪の円周はあっという間に小学生のコンパスを追い抜く。「乗るか」「うん」 互いに愛想もそっけもない。
 奴は落ち着きなく荷台の上から足をぶらぶら揺らす。三國学院の制服も衣替えして、長くなったズボンの裾に白い包帯は隠れた。
「ちゃんと歩けよ、お前」 老婆心ながら忠告しておく。「体育とかどうすんだよ」
「もとから嫌いだから問題ない」
「休み時間とか」
「本読んでるから」
「遊べよ、ちったぁ」
 言いながら、自分が小学生のときはどうだったか思い出そうとした。その頃はまだ公立で、学力に関する馬鹿げたプライドが頭をもたげる時期にも早く、要するに能天気なガキだったような。
「…お前、友達いないだろ」
「あんたもね」
 生意気だ。それでいて週に一二度は必ず自転車のライトの中に現れる。そんな彼の左中指に、真新しい包帯を見つけたのは、随分と冷え込んだある秋の朝だった。
「…なんでお前いつも怪我してんの」
「彫刻刀で切っちゃったよ。図工で版画彫ってる」
「へぇ…」
 痛かったな、とまさしは言い、満身創痍だな、と飛鳥が笑い、それで終わりだった。
 ジャージー素材の上下に移った新聞のインキの匂いを、むせ返るような金木犀の香りが圧倒した。


 文化祭という一大イベントも終わると、定期考査が近づいてくる。教室の後ろには、クラスの出し物に用いた段ボールの束がいまだ片付けられず山になっていた。
「飛鳥、次移動ー」
 その段ボールに上履きを軽く取られながら、クラスメイトの加賀司が呼んだ。前の授業から引き続き、半分眠りかけていた飛鳥は、言葉にならない応答をした。
「……おー…」
 加賀が抱えているのは物理の教科書だ。それを寝ぼけ眼で確認し、同じ物を机の中から引っ張り出した。ノートと筆記具をセットにしている間に、周囲には誰もいなくなってしまう。
「どこー!?」
 こちらも教室を出て行こうとする加賀に問うと、「物理実験室ー」と陽気な声。
 どこだっけかな、それ、と思いながらとりあえず人の後ろについていく。
 そういえばこういう些細なところで、最近加賀はべったりしなくなった。たまに他の男子生徒にふざけてちょっかいを出しているのは見かけるので、スキンシップが嫌いになったわけではないらしい。
 おかげで、合間合間のこういう時間、飛鳥は大抵一人で行動している。先ほどのような気遣いは変わりないので、喧嘩をして嫌われたとかいうことでもない。以前が以前だったので、過剰に反応しているだけかもしれない。
 一抹寂しく思うのは多分自然だ。そしてその寂しさにすぐにも慣れるだろうことも当然だ。
 とりあえず眠い。欠伸で浮んだ涙を袖で拭うと、濃緑の生地に少し染みた。渡り廊下を通って、あまり馴染のない特別棟へ入る。
 物理実験室はまだ開いていないらしく、前の廊下に生徒たちが溜まっていた。加賀が飛鳥を見てひらひら手を振った。また欠伸が出た。

 廊下の少し離れた場所で、加賀司は他の男子生徒とじゃれながら、飛鳥眠そうだなぁと心配していた。
「そういや最近飛鳥とつるまないのな」
 加賀のスキンシップ攻撃に耐えかねたか、そのクラスメイトが話題の矛先を彼に向けた。「お前が側にいないと、あいつ当社比2倍怖そうだ」
「自粛してんの」
 自画自賛しながらそう告げると、何だそりゃ、と顔をしかめられた。
「なんで?」
「俺の麗しい献身の精神の所以」
 さらに顔をしかめられた。言い方こそふざけていても、中身は結構本気なのだが。
 つまり説明をするなら、噂が――加賀と飛鳥がデキテイル、という例のやつが――次第におおっぴらに騒がれるようになってきたので、迷惑をかけたくなくて、ということである。そのために大好きな飛鳥の側に行かないなんて、自分は奉仕精神豊かだなぁと、加賀はもう一度自分を褒めてやった。
 迷惑をかけて嫌われるのは嫌だった。
 物理の教師が、中からのんびりと扉を開けた。生徒たちが教室へ入る。加賀と飛鳥は出席番号が前後しているので、こういうときは大体隣の席になる。さきほどまでの献身の精神はひとまず廊下に置き去りにして、加賀はいそいそと着席した。等加速度運動の単元で見せてもらったモンキーハンティングの機材が、まだ仕舞われずに黒板の横に置かれていた。
「飛鳥眠そう」
 欠伸を繰り返しながら椅子に座る飛鳥に声をかける。飛鳥はすぐに実験テーブルに突っ伏した。
「すぐ授業始まるよ」
「ん、」
「制服汚れるよ。ネクタイも。新しいのに」
 まるで本当に世話女房みたいじゃないか。だけど、だって、他に飛鳥を見ている人間などいないのだから仕方ない。そう思って、加賀は少し満足した。夢見がちな少女たちに何と言われようといいじゃないかという気分にもなった。きっと飛鳥はそんなことくらいで自分を疎ましがったりはしないだろう。怒りはしても。
 そんなふうに、加速度的に上昇していた気分が、どんと沈まざるを得なくなったのはその日の放課後だった。
 清掃担当区から教室に戻ろうと、加賀は廊下を歩いていた。3組の教室横を通り過ぎたとき、背後から呼び止められた。振り返ると、教室から廊下に向けた窓が一つ開いていて、そこから友人の藤澤知が上半身を乗り出していた。
「はいはい、何?」
 加賀は浮かれて踵を返した。しまりのない笑みで向かい合う。
「ちょっと…。あ、でも、帰り際でいい」
「え、何、らぶらぶ下校?」
「いやそれは…部活あるから無理だけど」
「おーらい、ちょい待ってて。超特急で荷物取ってきます」
 宣言した通り、走らない程度の早足で1組の教室まで帰り、また戻ってきた。3組には、もうほとんど人が残っていなかったので、加賀は「失礼します」と一礼し、他教室へ踏み込んだ。
「加賀、さ、文化祭いろいろ回ってた?」
「んーん。クラス当番以外はだいたい飛鳥としけこんでました。愛のらんでぶー」
 そうふざけてみた。真実は、不要な机の積み上げられた空き教室で、万年睡眠不足の飛鳥が眠る横、他のクラスメイトのポケットゲームで遊んでいただけだ。
「何? 何かあった?」
「…うん、あのさ…えーとだな…」 藤澤は、自分の鞄の持ち手を弄りながら、教室から他の生徒がいなくなるのを待った。「漫研の部誌って、じゃあ、知らないよな?」
「漫画研究部?」
 あまり縁のないクラブの名を出され、加賀は首を傾げた。
「知らないって、何を?」
「あー、と、…だからその、文化祭で売ってた、漫研の部誌に、載ってた漫画が…男と男の、」
「ああ、恋愛物?」
 苦笑した。「女の子、そういうの好きだもんね。いいよ気使わなくて。慣れてるし」
「ん、いや、それだけじゃなく、そこに出てくる二人が…どう見ても…………お前と飛鳥なんだな」
「……うわ」
 言われて、加賀は何となく納得してしまった。なるほどそう来るか、と思った。
「…それは問題だねぇ」
「うん…。勿論名前とかは違うし、知らない奴が見たら全然分からないとは思うんだけど…」
「知ってる人が見たらもろばれ?」
「もろ、じゃなく、ちょいばれ…いや、結構ばれ、かな…」
「藤澤、それ持ってるの? とりあえずどんなか確認したい…」
「今度持ってくる。貸すよ」
「さんきゅ」
 肩をすくめ、それからふと気になった。「なんで藤澤それ買ったの?」
「俺じゃなく」 すると彼はものすごく嫌そうな顔をした。「兄が。文化祭来て」
「ああ、巧さん」 反対に加賀の声はかなり弾んだ。「が、買ったの?」
「OBだから」
「そっか、誠條か」
「そんで漫研もOBだから」
「なるほど」
「漫研だけじゃなくて生研も鉄道研究会もブラバンも図書部もOBだ」
「すごいね」
「全部幽霊部員だったくせに」
「それじゃ文化祭回るの大変だったろうなぁ」
「節操なしなんだ。ほんとに!」
 藤澤は子供っぽい悪口を重ね、加賀は、普段あまり見れない彼の一面を大いに楽しんだ。
 それから藤澤が家庭科部に去ってしまって、一人になってから落ち込んだ。あーあ、と声に出してため息をつくと、知らない教室ではやけに響いて、余計に空しくなった。自分のやっていることや抱いている思いなんて、所詮他人から見れば空想の産物に過ぎないのか。
 そんなことをぐるぐる考えながら、最後にはやっぱり、飛鳥に申し訳ないなぁ、と思った。


 新聞配達は連日の業務だから、勿論晴れる日ばかりとは限らない。大きなビニールの雨合羽を着て、とにかく事故にだけは遭わないように、それから新聞を濡らさないようにと、注意深く自転車を漕いでいた。
 担当地域の最後の一軒に配り終え、雨粒の滴り落ちるポストから手を抜いた。さて後は集配所に帰るだけ、と視線を上げると、子供用の傘が視界に入ってきた。辺りは深夜とも思える暗闇だ。ゆっくり近づくと、いかにも雨が染みてきそうな革靴が見える。
「今日は乗せれねぇぞ」
「うん」
 傘を持つ手首が白かった。暗くて色彩はおぼろだったけれどそれだけは目に付いた。真っ白だった。
「家まで送ってやるよ。こんな大雨の中、ガキが出歩く時間じゃねぇぞ」
「…あんた、これ似あわない」
 まさしの右手が雨合羽の裾を握った。
「余計なお世話だよっ」
 そのまま歩いた。ずっと握られていたので、サドルには跨らなかった。自転車を押して歩いた。聞かれもしないのに、まさしは、僕はあまり器用な方じゃないから、と言った。
「図工とかあまり得意じゃないんだ。だからすぐ怪我する。でも自分でしたことだからね。誰のせいでもなくて」
「俺も副教科はあんまり好きじゃないな。面倒だし寝れないから」
「それで保健室行ってたら作業が遅れて、しょうがないから放課後残ってやってたら、そういうのってちょっといい子すぎるんじゃないかって言われて驚いたな」
「あー…。ガキなんだな、みんな」
「そうだね。……びっくりした」
 まったく驚いたようには見えない無表情だったが、そこのところには突っ込まないでおいた。濡れた雨合羽を掴む小さな手は冷たそうだった。いずれそんなこと全部大笑いできるようになるさとは言わなかった。まさしは相変わらず少し左足を引きずっていて、それだから一緒に歩くとすぐに時間が過ぎた。早すぎる朝の雨が降り続いて、まさしはそれ以上怪我について何の説明もしなかった。
 次にまさしと会ったのは2日後の朝で、その次はその翌日だった。初めに彫刻刀で切った左の中指は、すっかり皮膚も元通りだった。左足を引きずる癖は直らなかった。左手首の包帯は、見るたびに新しかった。いつ見ても丹念に、何重にも巻かれ、真っ白で、その下の傷を覆い隠していた。
「いつ見ても満身創痍だな」
 そう言うとびくりと肩を震わせ、そうだねと応える。そんなに怪我ばっかするくらいなら、版画なんてやめちまえばいいのに。そう言うと、そうかもねと応えた。それ以上何も言えなかった。左手首の白い包帯。


 定期テストが近づいてきた。教室の段ボールはさすがに片付けられ、飛鳥は加賀のノートを借りた。
 昼休み、食堂横のコピー機でせっせとノートのコピーを取る。一枚10円の張り紙の横には、テスト前のノートコピー禁止、の文字も躍っていたが、背に腹は代えられない。
「あとどれくらいー?」
 加賀が、紙パックのお茶をストローで啜りながら近づいてきた。
「政経と英語」
「…そっか。じゃあ俺先教室帰っとく。ノートちゃんと持って帰ってね」
「おう」
 加賀は空になった紙パックを律儀に畳んでから捨てた。それからコピー済みのノートをごく自然な動作で手に持つ。
「あ、そうだ……飛鳥、放課後空いてる?」
「ああ、いや今日は…コンピュータしに行く」
「ネット? へぇ?」
 珍しいね、と、加賀は首を傾げた。「でもじゃあいいや。たいした用事じゃないし」 そう言って少し笑った。
「飛鳥が珍しいことするの止めちゃ勿体ないもんね」
 それがどういう理屈か分からないけど、じゃあ俺も行く、と言われなくてよかったと思った。
 明日からは、テスト前につきコンピュータルームの利用が出来なくなる。加賀の言うとおり珍しい行動だとは自分でも思うけれど、図書館で調べ物、よりは大分ましだ。世の中は便利になった。
 政経のノートをまた1ページ捲っては複写し、加賀の後姿を見送ってから、佐伯さんの話題を振ればよかった、と思った。加賀の同性の恋人は、まだまさしの家庭教師を務めているはずだったから。

 放課後、中高合同のコンピュータルームに足を運び、混雑していたそこでしばらく待たされた。ゲームをしていたらしい中学生が、教師に注意を受けて退室し、席が空いた。利用証明書代わりの生徒手帳を提出し、端末へ向かう。操作は授業で習っていたので、とりあえず検索サイトまでは順調に辿りつけた。何という言葉で検索をかければいいのか迷った。日本語を習いたての人間のような、そんな片言を入力し、エンターを押す。
 サイト検索で引っかかったページは、専門的過ぎてパスした。医学のことなど分かるわけがない。コミュニティがあったので、そこの掲示板を少し覗く。スクロールしているうちに、それを指す新しい言葉を一つ覚えた。その言葉でもう一度検索してみた。
 するとかなりの数のページが引っかかった。いくつか適当に選んで閲覧した。若い女…というか、少女が多いように思えた。小学生男子、なんて言葉はどこにも出てこない。少女たち自身が運営しているホームページが多くて、周囲の人間からの意見は、先ほどのような医学的なものを除外すると、見つからなかった。数十分もすると嫌気がさして、目も痛くなったきたように思えたのでログアウトした。
 何のためにこんなことをしたのだろうと思った。何を調べようとしたのだろう。
 たくさんの人がいることは分かったけれど、彼は彼でしかないし自分は自分でしかない。
 そういう職業についているわけでもないのに、パターンに当てはめて、マニュアルを探そうとするのはいささか誠意に欠ける態度だ。そんな気が今更してきた。


 同じ放課後、加賀はクラブ棟を訪れていた。一つ一つ丁寧に扉を見ていったけれど、漫画研究部の部室は見つからなかった。見つからないことで、せっかくの勇気が挫けかけた。明日からはテスト前でクラブ活動がなくなってしまう。やっぱり止めようかと立ち止まっていたときに、同じクラスの女子に出くわした。袴姿の彼女はなぎなた部員だった。ダメモトだと思い尋ねてみると、お目当ての部室はここではなく、普通校舎の3階隅にあることが判明した。
「ありがとう栗原さん」
「いいけど加賀くん漫研入るの?」
「うん、クリエイティブな青春謳歌するのもいいかなぁと思って」
「本気ー?」
 教わった場所は小さな部屋だった。上の階では用具入れになっているような、そんな小さなスペースだ。墨のようなもので描かれたポスターが貼ってある。目の大きい少年のイラストと。漫画研究部・文芸部、の文字。少し腰が引けながら、ノックしてみた。
「はーぁい?」
 しばらくそのままで待っていても扉は開かれず、あ、自分で開けるのか、とノブに手をかけたとき、同じように思ったらしい声の主がさっとドアを開いた。
「あ……こんにちは」
 加賀の姿を見て、動作が固まってしまっている女生徒には見覚えがあった。同学年だ。顔に見覚えが、というより、髪に覚えがあった。彼女は、おそらく校内で一番に髪が長い。前髪以外は綺麗に揃って、腰の近くまで伸びている。こんなに間近で見るのは初めてだけれど、健やかに美しい。それで、とても目立つ。
「…加賀司くん」
「はいそうです。ええと…そちらは確か…」
「……森山さくら。です」
 少し丸みを帯びた身体を折って、森山さくらは小さくはじめましてと言った。部室には他にも何人かがいたようだったが、森山さくらは扉を閉めて、そこに背をついて加賀と向かい合った。
「それで、な、何のご用件でしょうか」
 加賀は鞄から例の小冊子を取り出し、これの責任者を、と言いかけた。
「きゃー、きゃー、きゃー」
 最後まで言い終わらないうちに、森山さくらは悲鳴を上げた。「なんでそれ持ってるのー!?」
「なんでって…文化祭で売ってたんだよね?」
「私ずっと売り子してたもん。買ってくれた人覚えてるよ加賀くんはいなかったし1組の人もいなかったー」
 そもそも生徒で買ってくれた人はいなかった、と続けられて納得した。だから藤澤以外気付かなかったのか、よかった。
「…ちょい待った。生徒じゃなかったら誰が買うの?」
「PTA関係。親とか先生とかがお義理で」
「……やばくない!?」
「やばくないよプラトニックだし! ちゃんと顧問の検閲も嫌味言われながら通過して…………って、あ、ちょっと待った。それはつまりその…あれのことを言ってるんだよね?」
 指示代名詞が、部誌の中の例の短編を指していることは分かりきっていた。頷く。
「………加賀くん読んだんだ」
「うん、それでちょっとその、話が。…ええと、部長さんいる?」
「…私」
「え?」
「うちの部2年がいないから。私。部長」
「ああそうなんだ…」
 少し困った。困っていると、森山さくらも少し困った様子で首を傾げた。
「………上行かない? 人来ないし。もう少し時間たてば夕焼け見れるよ。綺麗」
 森山さくらは、部室の斜め横にある階段を登り始めた。後をついていく。4階を素通りし、その上にはもう屋上へ向かう階段しかない。森山さくらはそこを登った。
「この上何かあるの?」
「机」
 答えの通りだった。屋上へ出る扉の前の、ほんの少しのスペースだけを残して、踊り場にはいらなくなった机が2、3段に積み上げられて放置されていた。
 森山さくらは、そのうちの一つに腰かけた。その机にだけ埃が少なかった。左右の窓からは空が大きく見えた。長い髪の毛が、扇状に机の木目を覆い隠す。
 自分も腰かけるつもりで、机に積もった埃を手で払おうとしていると、森山さくらはハンカチを差し出してくれた。びっくりするほど、四方にレースの縁取りが豪華なハンカチだった。レースで埃が拭けるのか、と思ったけれど、びらびらのそれらに取り囲まれて、きちんとコットンらしき面は残っていた。ありがたく、手近な机を拭いた。黒いハンカチは真っ白になって、なんだかおどろおどろしい模様を浮き上がらせた。加賀は非常に申し訳ない気持ちになった。
「ああ、いいよ別に。黒いんだからしょうがない」
 森山さくらはそう言って、汚れた面を内にして折りたたんだ。それならなぜそんな非実用的なハンカチを携帯しているのかと思ったが口には出さなかった。
「…それでね」
 森山さくらが言った。
「その…あれだよね、モデル問題」
「うん」
「……ごめんね、一言の了承もなく」
 森山さくらは居心地悪げに肩をすくめた。
「描いた、子も…誰とはちょっと言えないんだけど…悪気はなくて…その、凄く、二人の関係に憧れてて…」
 森山さくらは、首の後ろの髪を両手で触る。そういう問題じゃないんだけどな、と加賀は思った。鞄から出したA5版の部誌をぱらぱらと捲る。問題の作品は巻末だった。素人目にも、絵は一番整っていたし、作品としての出来もいいように見えた。
「その……ごめんね」
 言おうと思って、用意してきた台詞はあった。あったのだけれど。
「本当にね、二人を茶化そうとか、単にネタにしてやれとか、そういう気持ちで描いたんじゃなく…」
 鞄にしまう。混乱している森山さくらは気付いていないようだったけれど、問題作を描いた人物は部長だと、部誌の中には書かれていた。
「本当に、ただ、憧れて…」
 言おうとしていた言葉はあった。


 …俺はホモじゃないけど、って言うんだよね。漫画の中でさ。ホモじゃないけど、あいつだけを好きなんだって。
 でもさ、悪いけど、俺はホモだよ。ホモ「なんか」だよ。
 同じように、女の子たちはたまに言うんだよね。
 私はノーマルだけど、ストレートだけど、って。ホモネタにきゃーきゃー言いながら。
 「ホモじゃない」ことは、少し高い位置にあるみたいに。
 安全な場所からだけ見てるんだね。
 ううん、別にレズビアンになれって言ってるわけじゃないよ。
 だけど、誰にだってセクシュアリティがあるなら、俺は同じ場所に立って話がしたい。
 やったやってないでオレたちを判断するのはやめて欲しい。
 受攻で俺たちを区別するのはやめて欲しい。
 俺は生きてるんだから、みんなと同じに、俺だって、セックスだけで毎日を過ごしてるわけじゃないんだからさ。


 森山さくらは見当違いのところで一生懸命に弁明していた。いいなぁ、と思った。いいなぁ、と思った。これを最初に読ませてもらって、加賀は藤澤に開口一番こう告げた。「これ描いた子、飛鳥のことが好きなんだね」。愛情があることがひしひしと伝わってきて、これ以上ないほど古典的な恋愛の――それもどちらかといえば異性愛の――筋道が、憧憬と嫉妬に彩られていた。
「…もういいよ、ありがとう」
 言葉を遮ると、森山さくらは不安げな表情になった。
「もうこれは売らないで欲しいし、続きとかは描かないで欲しいけど、……それでいいよ」
「…怒ってる?」
 小さな声だった。机についた、少女の小さな手の下の、波打つ髪の毛を少し見つめた。
「…俺はともかく」 それから全然違うことを答えた。「飛鳥は女の子が好きだよ。よかったね」
 途端に、森山さくらの顔がぷっくりと丸いトマトのようになった。
 いいなぁ、と思った。本当は羨むことなんか何もないはずなのに。少し妬けた。そして心の中でだけ、そっと思った。
 好きならきちんと近づきなよ、人をだしにしないで。
 俺を君や誰かや他の女の子の、代わりにしないで。
 それは怒るべきことだと思った。だけど怒りは湧かなかった。少し寂しくなって、目の前の人間が少し愛しくなって、少し泣きそうになって少しこらえた。
「べ、つに、そうじゃ、そういうわけじゃ…」
 森山さくらは絶句して、忙しなく視線を動かした。加賀は窓の外に目をやってみた。ゆっくりと赤い雲が線になって伸びていた。

 コンピュータルームの近くまで来て、それからやっぱり入るのはやめた。すると飛鳥が丁度出てきた。
「あ、ごめん」 思わず謝った。
「何が?」
「ストーカーぽくて」
 そう言うと笑われた。
「…飛鳥、髪の長い女の子は好き?」
 聞いてみた。ほとほと自分は奉仕精神豊かだなぁと自画自賛しながら。
「嫌いじゃない。……何? 紹介してくれんの?」
「やだ」
「なんだよそれ…」
「なんでも。どうしても」
 飛鳥は笑った。それから、両手を使って軽くジェスチャーをした。「こういうことをさ」
 右手で何かを持って、左手首の内側に当てる仕草だった。「リストカットっていうんだって。お前知ってた?」
 突然の話題にクエスチョンマークを浮かべながら、加賀はとりあえず頷いた。
「知り合いの女の人が、よく切ってた。知り合いっていってもほとんど知らないけど。よくお店で…、っと、」
「…何の店?」
「……いやまぁそれは今はおいといて」
「若い人?」
「うん。短大生かな。鬱めくとざくざく切っちゃうんだって。傷口ホッチキスでくっつけてたときあって、あれはちょっと…男には辛かった」
 思い出して顔をしかめた。日ごろは加賀よりこういう話に弱いはずの飛鳥は何も言わなかった。そんな飛鳥の態度に少し不安になった。
「…なんで? 飛鳥、んなことしないよね? したら怒るよ?」
「…怒る?」
「怒る、すっごく怒る。あと、俺の知らないまに誰か女の子と付き合いだして、それだけじゃなく若さに身をまかせ激情のままに狼になって避妊に失敗していきなり見舞い金くれとか言われても怒る!」
「……だからな。なんだよそれ…」


 また次の朝が来た。まさしはその日もやっぱり足を引きずっていた。「乗るか」。「うん」。
 まさしは荷台の上で、左手首の包帯を弄んでいた。そのうち包帯の端が解けてしまった。はじめは巻きなおそうとしていたけれど、努力するほどに出る反対の結果に苛ついて、ほどき始めた。くるくると巻いていく。
 飛鳥はペダルを漕いで、新聞を一部引き抜き、ポストに突っ込み、またペダルを漕ぐ。最後の一軒に配り終えて、少し離れたところで自転車を止めた。サドルから降りると、まさしも降りた。巻ききった包帯をポケットにしまう。向かい合ってみた。それから黙って、まさしの袖のボタンを外し、ジャケットごと捲り上げた。赤い線がいくつも白い腕に走っていた。新しい傷跡は、まるで皮膚に埋め込まれた長虫のようだった。白く、また赤かった。


 *


 ホームルームの時間は大抵何かの教科の補習になるけれど、たまに自由時間が出来る。ドッヂボールや中当てやサッカーなど、人気のボール遊びがすぐ候補に上がり、運動場を偵察に行った女子が、もう6年に取られてる、と報告する。
 中庭は5年生が場所取りをしていて、下足室前では2年が大縄跳びをしている。
 どうしてもっと早くに行かなかったのか、自分勝手な文句が出て、でもこのままじゃせっかくの自由時間が終わってしまうから、みんなでとりあえず体育館横のスペースに移動する。面倒くさい。けれど休み時間とは違って、これはクラス行動らしいから、仕方なく、騒がしい女子のグループの後をついていく。足を引きずりながら。遅れてついたときには、高鬼をすることに決まっていた。
 最初の鬼を決めるのにまた一悶着があって、結局おどけた男子が推薦されて鬼になった。範囲が狭いので、数えるのは10秒。
 みんな散り散りに、または固まって、逃げていく。仕方がないから、手近な階段を目指す。走るのが遅い。辿り着く前に数を叫んでいた声は絶えて、すぐ追いつかれ、肩を叩かれた。
「伊ノ原が、鬼」
 うん、と頷いて、それなりの大きさで声を出し、10を数えた。一番近いところできょろきょろしている大人しめの男子を狙ったけれど、追いつく前に逃げられた。そのうち何とか、足の遅い女子を捕まえた。
 今度はなるべく遠くへ逃げたつもりで、しかし数度目の鬼にまた当った。いい加減要領を飲み込んできた皆は、今度はそう簡単に捕まえられない。
 ぺちゃくちゃ友達とおしゃべりをしていたり。鬼をからかいに、高いところからすぐ近くまでやってきたり。だけど触ろうとするとすばやく身を引く。笑っている。何度か同じことを繰り返し、そのうち同情したのか触られた。
 やっと安堵してまた遠くへ逃げようとした。そのとき不意に、背中を押された。強く突かれた。反射的に体重をかけた左足が痛んで、顔をしかめた。
 振り返ると、先ほど交代したばかりの鬼がいた。
「伊ノ原が、鬼!」 笑いながら。
 きちんと10数えたか、なんて文句も言えなかった。ふざけたにしては強い力で、だけどふざけただけなのもよく分かった。近くで女子の笑い声が弾けた。
 ため息をついて10数える。一人の男子に狙いを定め、持久戦で捕まえた。そして背を向けて逃げようとすると、また背中を強く叩かれた。振り返ると、鬼がいた。
「伊ノ原が鬼な!」
 ―――体育館の壁にかかる時計を見ると、この時間が終わるまで後15分あった。もう誰とも目を合わさずに、引きずった足で、のろのろ階段を上がった。鬼が高いところに上がることを、非難する声が、痺れた背中から聞こえた。教室に戻った。曇り空で暗い。担任も消えて誰もいない。外から歓声が流れ聞える。鬼のままで着席した。
 黒板に目を向けると、担任が書いていった連絡事項があった。行為をなそうと、ぼんやり帳面を取り出した。開き癖のついた連絡帳の、白いはずのページに、見たことのない落書きがいつのまにかしてあった。黒々と。悪意にも至らない、それは唐突に背を突き押されるようなそんな強さを持っていた。子供っぽいと見下すほどには困惑していた。油性マジックで書かれた2、3の言葉は、ありのままで自分と、自分の家族を嘲笑していた。
 他の誰よりも空に近い場所で、筆箱からカッターを出して左手首を切った。皮膚が破れて、伝った血は赤かった。
 鬼の血だ。
 そう思った。


 *


「痛そうだ」
 そう感想を述べた。まさしは息を詰めて、こちらの反応を窺っていた。
「…痛そうだ」 もう一度言った。予想していたこととはいえ、それ以上何を言えばいいのか分からなかった。問題にすべきことは何か、それが分からなかった。
 しばらく、冷えた空気が無言を請け負った。自分がひどく辛い思いをしていることに飛鳥は気付いた。それはなぜかと問い、一つずつ答えを探った。
「死にたいと思うか?」
「――ううん、多分…」
「…俺はカウンセラーや医者じゃねぇ」
「知ってるよ」
 ただの高校生だ。そして目の前にいるのはただの小学生だ。言葉を選ぶ必要がどこまであるのか分からない。他人の心身の問題に、そこまで立ち入っていいのか分からない。
 また、張りつめた沈黙が落ちる。一つ向こうの路地で、別の新聞を運ぶバイクの音がする。
「…こういうことを、やめるべきだと思わないなら、お前は病院に行ったほうがいい。それは、少なくとも、俺にこんなことを言わせるお前の義務だ。…やめたいと少しでも思ってるなら…そうできる方法を考えよう…何が出来るか分からないけど、俺も協力する…」
 まさしは感情の見えない目でじっと飛鳥を見つめて、やがて言った。
「――なんで、あんたが?」
 反射的に、勿論手加減はしたけれど、拳で彼の頭を殴った。
「知るか」
 殺意さえこもった低い声を吐き捨てた。次には泣きそうになった。仕方ないから、貧弱な、冬の木のようなまさしの身体を抱擁した。数秒間。
「ざけんな。俺の中からお前のこと全部消せる超能力もないくせに、でかい口叩くな、ガキ」
 泣きそうになった。また腹を立てた。こんな奴他人だった。人の気も知らない子供だった。お前なんか大嫌いだと強く思った。勝手に死ね。勝手に生きろ。知らない、知らない、知ったこっちゃない……
 大真面目だった。真剣に腹を立て、どこまでも真剣に傷ついていた。
 ぶつかり合うと傷がつくのだ。当然だそれは。本当に泣きたい。なぜこんな子供相手に、賢明な距離を取ることが出来ない。余裕ある、安全な場所から、第三者の意見を言うことが出来ない。
(――だって、そんな場所、どこにもない――)
 悔しい。
「…なんで、あんたが怒るの?」
「――お前には関係ない。お前のことも俺には関係ない。それで終わらせるなら全部それっきりだ。だけど俺はやっぱりむかついてんだよ。理由なんか知るか。んなこと恥ずかしくて言えるか馬鹿野郎。お前に口出すのが自己満足だの偽善だの、思いたいなら思え。それで終わらせたいなら、俺のこと切り捨てて、どっかで勝手に野垂れ死んで生きろ」
 まさしの右手が伸びて、一筋だけ頬に垂れていた涙が拭われた。その指が彼を傷つけたのだ。それなのに、その指がまた償おうとする。皮膚を切った指が。


 お前の敵は、少なくともそんな、生白く細いお前自身の腕じゃない。
 お前の武器は、そこらのカッターや彫刻刀のような、そんなせこい刃物じゃない。


 睨み付けてそう告げると、まさしはようやく顔を歪めた。その表情を隠すために明後日の方向を向いて、ぎゅっと手を握った。傷つけた右手と、傷ついた左手は、取り替えても気付かないくらいよく似た形をしていた。
 彼はアスファルトの道路に両足をついて、その右手と左手で、強く、きつく、二つの拳を作った。



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