世界を支える一本の木

 碧緑の影がまぶたに落ち、残照の中まどろんでいたアニュスは、やっとのことで目を覚ました。夢を妨げたのは、今にも西の地平線に沈もうとする天道が、その光で作り出した世界樹の葉陰だった。
 「…アニュス…!」  欠伸を、誰の目も憚ることなく盛大にしていたとき、風になびく背の高い青草を掻き分け、もう一人の少女が現れた。
 「やっぱりここにいたね、アニュスちゃん」
 少年のように短く切られた色素の薄い髪の毛を、無造作に風邪に揺らせながら、アラステアは言った。太い幹に手をかけて、覗き込むように微笑んでいる。どこか退廃的に、気だるそうに、皮肉げに。
 「日替わりの鎮神役を不精して、何か大事な用があるかと思えばこんな所で昼寝とは。いい身分だ。こっちはお前さんのおかげで、終わったばっかのお祈り役を押し付けられたんだぞ」
 アニュスは重い三つ編みを億劫に重いながら、アラステアの横をすり抜けた。
 「アニュス! 面倒な作業を代わってやった、厚い友情に感謝と詫びは?」
 男物の衣装のアラステアは、あっさりアニュスに追いついた。世界樹の影が広く、草原を二色に分かち、そしてその中にはアニュスたち二人しかいない。世界を支えていると言われる世界樹、見上げてもその果ては、雲に隠れて決して見えない大樹、その周囲は、村人たちの暗黙の了解として、近づく者はいなかった。世界樹の頂上には神がいるのだと。
 「アニュス・デ!」
 答えないアニュスに業を煮やし、アラステアは彼女の腰帯を軽く引っ張った。
 「いい加減におしよ、お嬢さん。さもないと今日から女の子たちに、いけない噂を流してしまうよ」
 アニュスは顔をしかめアラステアを振り返った。お祭り好きの彼女なら、彼女に憧れる村娘たちの嫉妬の対象に、アニュスを持ってくることくらいわけないだろう。
 「あたしゃぁ、今更どんなふうに言いふらされようと構わないからね」
 アラステアは事も無げに言った。もう17の年を数えているというのに、婚約者の一人もいないと、アラステアの両親はよく泣いている。
 「だけどアニュスちゃんは困るだろ。あたしと違って」
 アニュスは一応、婚約の儀を終えた特定の相手がいた。村一番の長身で、整った顔つきと誠実さを併せ持った、彼はアラステアの兄だった。
 「うちの兄貴はどっちか言うと潔癖症だぞ。今更見放されたら困るだろ」
 アラステアとはまた違った意味で、アニュスも村の問題児には変わりなかった。人一倍優しく包容力のあるホザーナ以外に、彼女を引き受けようなどという奇特な青年は今のところ、いない。
 「ほらほら、あたしは別にどっちでもいいんだよ」
 面白そうに急かされて、アニュスはしぶしぶ礼を言った。
 「そうそう。いつになく素直で可愛いよ」
 長身を折ってそう囁いてから、アラステアはくっと笑い出した。アニュスは一人で草の中をまた歩き始める。アラステアは笑いながら、緑の上に少しだけ突き出たアニュスの頭を追った。
 「覚悟をしときよ。寛大なあたしはこれだけで許しといたげるけど、頭の固いジジイたちは、お前さんが帰ってきたらすぐにでもとっつかまえてやろうとてぐすね引いて待ってんだ」
 アラステアの声が降って来る。アニュスはちらりと振り返り、アラステアの首から上が完全に草の上に出ていることを再度確認した。ちょっと背が高いからって…と、胸のうちで不合理な文句をぶつける。口に出さないのは、そうしたが最後、アラステアの毒舌が矢継ぎ早に返ってくることが予想できたからだ。
 背の高い草が繁る世界樹の一帯が切れると、そこからはもう彼女たちの村…居住区となる。アニュスが額に巻いた白い布を締めなおしていると、草原を出てきたアラステアが、ふざけて背後からのしかかってきた。しかし邪険の扱われ、アラステアは、これから一晩中説教を受けようアニュスを置いて、茅葺の住居へ帰っていった。
 家では、牧畜の世話を終えた兄・ホザーナが、割り当ての作業をしながら待っていた。はぜる焚き火に照らされた彼の、作り物のような顔を、アラステアはしばし見詰めた。
 アラステアは、自分に気づき、今日はご苦労だったらしいねと微笑むホザーナに、皮肉ではない笑みを返した。実際、アニュスの影響で信仰心が薄れてきた彼女にとって、神と世界樹への祈りで一日を終えるのは苦痛だった。しかし誠実であるからこそ信仰深くもあるホザーナのために、村娘の義務は欠かさない。彼に手渡された白湯で身体を温めながら、アラステアは心の中で自嘲していた。婚約の引く手数多だったホザーナがアニュスを選んだのは、単に彼女が独り身で、しかも相手など見つかりそうになかったからだ。もし、自分が、彼の妹でさえなかったら…。
 アラステアは、抑えきれず込み上げる、重苦しい想いと共に、親友のアニュスを思った。
 その頃、アラステアの言葉通り村の長老たちに捕まりそうになっていたアニュスは、親兄弟のないのをいいことに、再び脱走を繰り返していた。数枚の布を寒さしのぎにくすね、彼女は再び世界樹のたもとにいた。誰も入ってこないこのあたりは、彼女にとって最高の逃げ場だった。
 勿論アニュスだとて、別にすべての作業を怠けているわけではない。生きていく上で必要なほかの仕事はきちんとこなす。しかし、信じてもいない神への祈りだけで終日潰す巫女役だけは、我慢ならなかった。村人たちは皆無条件にこの世界樹を畏れ敬う。その重畳から自分たちを見ているという神の存在を、信じている。この世界樹が、世界を、支えていると。
 夜風に吹かれ、アニュスは少し身震いした。風が凪ぐと、闇の音が聞えてきそうなしじま。そしてまた、草擦れの音。身を凍らすのは寒さというより孤独だったが、アニュスはここ以外、来る場所を見つけられなかった。アラステアの元へは行けなかった。アニュスとホザーナの契りの儀式は、次の収穫の季節と決まっていた。もう時間はあまりない。その残り少ない、ホザーナとアラステアの共有する時間に、自分が割り込むわけにはいかない。
 もし彼らの所に行ったとしても、きっとアラステアは、二つ三つの皮肉だけでアニュスを迎えてくれたことだろう。そしてアニュスとホザーナを、あの物憂げな瞳で自覚もなしに見詰めるのだ。
 だからこそアニュスはまた考える。本当に神様がいるのなら…なぜアラステアたちは血を同じくして生まれなければならなかったのか。なぜ自分たちは生きていくのに、他の動植物を犠牲にしなければならないのか。獣や天候に怯えなければならないのか。なぜ…
 眠ろうとしたが、草のなびく音と夜の寒さが邪魔をした。火も焚かずに屋外で眠れるのも、この辺りしかない。それを村人たちは、野生の獣を寄せ付けぬ神の恩恵だと言うが、アニュスは真実を知っていた。獣が恐れるのは神ではなく、この一帯にしか生息しない、青草独特の香りだった。
 結局アニュスは、一晩中世界樹の深遠たる末を見上げていた。繁った葉で星空は見えない。確かに彼女とて、この大木以上に巨大なものは見たことがなかった。その先端は、誰も見ぬ天の果てに続き、それでもまだ尽きぬと…
 取り止めのないことを蒸そうしながら、アニュスは身を縮め、空が白むのを待った。東の草が、根元から光を浴びていく。それを見届け、ようやく彼女は立ち上がった。固まった身体をほぐし、村へと帰る。朝になれば皆忙しく、アニュスに構う者がいないだろう。それに今日は…そうだ、隣の村から、物々交換をしに、人がやって来る日だった。
 思い出し、アニュスは口元を緩めた。村のみんながずっと待っていたのと同様に、変わり者のアニュスも、この日だけは普通の娘となって、珍しい飾り物や保存のきく食物に群がった。
 そしてこういうとき、日没ほどになり人々が荷を片付け始めるといつも、アラステアの前にはたくさんの贈り物が積み上げられた。彼女は、特に何と交換したわけでもないのに、山ほどの飾り物を手に入れるのだ。一度アニュスは、アラステアに文句を言ったことがある。
 どうせあんたはそんなもの付けやしないのに、と。するとアラステアは苦笑して、手近にあった耳飾などを放って寄越した。そして言うのだ。これはあたしの、常日頃からの誠意の賜物なんだぞ。アニュスは言い返した。誠意? お遊びの口付けのお礼でしょ。
 アラステアはそれらを、他の女の子たちを口説くときに使用する。しかしどうしてもアニュスには、アラステアのそんな行為を、責めることは出来なかった。アラアステアが本当に贈りたい相手を、贈って欲しい相手を、アニュスが奪い取っているのだから。

 ざわめきがした。他の村の一行が、重い荷物を担いでようやく到着した。人々は思い思いに、採りすぎた木の実や、小さくなった衣類を持って出てくる。しかしアラステアはいつも通り、何も持たずに異邦人の側へと近寄った。装飾品に興味はないし、あったとしても不自由なく手に入れることが出来た。生活必需品は、穏やかな顔つきに反しやり手の兄が、難なく持ち帰ってくるだろう。彼女が欲しいのは、自分の知らない様々な情報だった。
 「よぉアラステア! そこ行く色男はアラステアだろう?」
 先に声をかけてきたのは、アラステアがいつも話をねだる、顔なじみの男だった。
 「どうだい、お前もいっぱい」
 勧められた杯を傾けて、アラステアがぐいと口元を拭った。商人は、彼女を完全に男だと思っている。
 「アラステア。世界樹の葉はまだ落ちないかい」
 「まだまだだね」
 男は露骨に肩を落して見せた。世界樹は、一年を通し葉をつけているが、毎年一定の時期だけは、その緑の葉を少なからず地に落した。そしてそれらは、神の守りとして、大変貴重に扱われるのだった。勿論、世界樹の周囲は本来立ち入り禁止なので、闇取引としてのみの商品だったが。
 「それより何か聞かせとくれよ。あたしゃそれだけを楽しみに待ってたんだぜ」
 アラステアは外の世界に焦がれていた。ある村では、女でも婚姻せずに狩をするという。彼女は並みの男よりずっと足も早いし、ある程度なら力もあった。女だからと子供さえ育てて置けばいいという風習には納得できなかったのだ。
 「アラステア、アラステア!」
 そのとき叫び声と共にアニュスが駈けて来た。
 「ちょっと匿ってよ、もう、長たちってば、こんな日まで私を神殿に閉じ込めようとするんだって!」
 アラステアが話をしていた商人の背後に隠れ、アニュスはそれから、と言った。
 「ホザーナがあんたを探してたわよ」
 アラステアは、文句を言いながら通り過ぎる村の長老たちをやり過ごし、ホザーナの元へと向かった。彼女の姿を認め、ホザーナは微笑み、手にしていた首飾りを差し出した。
 「…あたしに?」
 正直あっけにとられ、アラステアはその朱色の玉をまじまじと見詰めた。
 「アニュスちゃんに渡せとか?」
 それしか考えられず、余計な期待は禁物と自分に言い聞かす。
 「いいや、お前にだよ。アニュスには、心配しなくても、他のものを受け取ってもらった」
 気に入らないかい、とホザーナは少し瞳を曇らせて言った。アラステアはしばし無表情に首飾りを見つづけ、結局手を伸ばせずに笑った。どこか投げやりに、そして皮肉げに。
 「悪いけど、兄さん。別にいらないよ。アニュスにあげな」
 「…分かった。じゃあお前は何が欲しい?」
 淋しげに、差し出していた飾りをしまい、ホザーナは改めて尋ねた。彼とアニュスが結ばれるまでに、もう一度商人たちがやって来るのは難しいだろう。妹に贈り物ができる、最後の機会だった。それを嫌というほど理解していたアラステアは、どんな男より女より美しい彼の顔を見詰め、答えを返した。
 「……世界樹の葉が欲しい」
 そして片手で口を覆うと、顔を背け笑い出した。絶対に無理な注文をと、思いついた物だった。最後の餞別を素直に受け取れるほど、彼女は大人にはなれなかった。
 「冗談だよ。別に何もいらない。あたしに気を使う必要ないって」
 そう、笑いながら言った。そして、丁度通りかかった娘に軽口を叩きつつ、アラステアはホザーナから逃げ出した。カモに使われた少女は、アラステアが去ってからも、しばらく顔を赤らめ立ち尽くしていた。
 誰の元にもならない、美しいだけのアラステア。12にもなれば婚約者を持つ少女たちにとって、気軽に「恋愛」できる彼女の存在は大きかった。

 日が沈むと同時に、盛大な火が焚かれ、その場にいる全員が杯を酌み交わした。村人も、そうでない者も、子供や老人、病人以外は皆が集まった。アラステアは相変わらず、婚約者をうっちゃって来る娘らに囲まれていたが、夜の中を、焚き火の灯りだけを頼りにうろついているアニュスを見つけ、声をかけた。
 「ちょいとそこ行くお嬢さん! 何をしてるのさ?」
 「ああアラステア……ホザーナを見なかった?」
 問われ、アラステアは眉をひそめた。こういうとき、相方のいる若者たちは、カップルで時を過ごすのが普通だった。それを、あの生真面目を絵に描いたようなホザーナが、アニュスをほったらかしにしている…。
 アラステアが娘たちの輪を抜け出すと、一緒になって探し始めた。
 「家は?」
 「誰もいなかったわ。おじさん達にも聞いたけど、知らないって…」
 不安げに言うアニュスの肩を抱きながら、アラステアも次第に言い知れぬ恐怖に襲われた。最後に会ったのは、いつだった?
 「……アニュス」
 不意に立ち止まったアラステアを、アニュスは見あげた。もう大分探したのかと問われ、アニュスは答えた。ええ、もうかなり。
 アラステアの身体が小刻みに震えた。
 「………大人たちに頼んで……探してもらおう、アニュス……世界樹の辺りを……」
 「…アラステア?」
 「早く…っ」
 自分の身体の震えを、笑い飛ばすことが出来ずに、アラステアは自らの肩を抱いた。
 (…じゃ、お前は何が欲しい?)
 (何が欲しい?)
 (……が)
 アニュスが何事かを察し、駈けて行く。しばらく後に何本ものたいまつが世界樹の草原に入っていった。
 (何が欲しい?アラステア…)
 ―――世界樹の、葉が欲しい。
 凍りついたような身体をなんとか動かし、アラステアは大人たちを追った。草草の上のほうで輝く、たいまつの光を頼りに、彼女はそびえる大樹を目指す。
 なぜこんなに寒いのだろう。世界樹がどうした、どうしたというのか。何をこんなに怖がっているのか。あんなにも、信心深い、ホザーナであるから…
 ざわめき、ざわめき、ざわめき、叫び声…アニュス・デの。
 アラステアは走り出した。草の先端が顎を掠め、皮膚が切れた。樹の幹の周囲、草が切れる円に飛び込むと、アニュスが涙を目に留めたまま、アラステアにしがみついてきた。
 「駄目よ駄目よ駄目よ! あんたは見るんじゃないわ、アラステア!」
 渾身の力で押し留めようとするアニュスを振り払い、アラステアは駆け寄った。足もとに黒い液体が流れてきていた。その先の、誰かの上衣をかぶせられた人型が、ホザーナか。
 「罰が当ったんだ」
 低い声が低いところでした。
 それはアラステア自身の内なる声でもあった。
 「恐れ多くも、神の樹に登り、その樹葉を盗ろうとした…罰が当ったんだ」
 アラステアは、アニュスが長老を平手で打つのも見ていなかった。その視線はただ、白い布から突き出した、ホザーナの右手に釘付けだった。炎に照らされて、白い腕は赤い。その細く長い指が、死しても掴んでいるのは……翠葉。世界樹の葉。
 ―――世界樹の葉が欲しい。
 アラアステアの、その望みをかなえるために、ホザーナは人目につかぬよう日が落ちてから世界樹を登った。そして闇に足を取られ、落ちたのだ。アラアステアの、望んでもいない願いを、叶えるために。ホザーナは死んだ。

 「アラステア…! アラステア…!」
 冥夜。ホザーナの亡骸を大地に沈めたその夜。いつのまにか姿を消したアラステアを、アニュスは探し回り、いつもの草原にやってきていた。
 「アラステア!」
 幾度目かに名を呼んだとき、アニュスは彼女を発見した。草草の中、所々に生えた小さな花を摘む、アラステア。小さな小さな花弁は、大体が落ちてしまい、ただ茎だけがひょろ長い花を、何本も抱え、アラステアは夜風を受けていた。胸元には、アニュスが見たことがない朱色の首飾りがあった。
 「…アラステア」
 細く震える声が、それだけで届く距離になったとき、アニュスはまた呼んだ。途端アラステアは、抱えていた花を地にばらまいた。
 「アラステア」
 アニュスは彼女に抱きついた。アラステアの身体に引っかかっていた花が落ちていく。力いっぱい抱き締めてやると、アラステアはようやく涙を流した。
 「……兄さん…兄さん、ごめん…あたしのせいだ…ごめん…」
 ぼろぼろと、アラステアはアニュスの頬に涙を落した。なぜあんなことを言ったのだろう。つまらない嫉妬のせいで。
 月が輝いていた。しかし月だとて、自分たちがそれを見るように、見守っていてはくれぬのに。
 (…罰が当った…?)
 アラステアを両親のもとへ送り届け、アニュスは再び草原へ来る。途中、アラステアが摘んでいた花が一本落ちていて、それを拾って、樹の根元へとやってくる。
 (天罰…?)
 それは嘘だとアニュスは思った。ホザーナのどこに罪があった? 本当に神様がいるというなら、なぜ彼に罰を下した? なぜ殺した? なぜこんなにも、自分を、そしてアラステアを苦しめる?
 鼻先で揺らしていた花に風が当り、最後にひとひら、残っていた花弁が更に割れた。アニュスは茎から指を離す。そして見あげた。世界樹。ホザーナを殺した、神がいるという、世界樹。
 (本当にあなたがいるなら……答えをください、神様)
 アニュスは太い幹の窪みに足をかけた。二本の長い三つ編みと一緒に、自分の体を持ち上げた。ホザーナに登れるなら、彼よりずっと身体の軽い自分も、登れる。
 アニュスは世界中を登った。しばらくすると、初めの枝にたどり着き、登るのはずっと楽になった。登って登って、よじ登って、時折太い枝で身体を休め、朝が来た。ホザーナが命をかけて手に入れた世界樹の葉。その中でアニュスは眠った。帯で枝と自分を強く縛って、赤くなった掌を優しく握った。そして目を覚ますとまた登った。登ることは少しも辛くなかったが、他のことが辛かった。例えば、独り残してきたアラステア。
 アニュスは決して下を見なかった。見たとしても、繁った葉に隠されたであろう地上を、しかし見てしまったなら、もう二度と足が動かなくなるよう感じた。
 そして、ある程度疲れが襲ってきたときは、上も見ずに登った。ただ次にたどり着く太い幹まで、腕と足を持ち上げた。どうしても腹が減れば、仕方なく葉を食べた。なんて罰当たり。笑う。それだけの食事は少し辛かったが、我慢できなくもなかった。それよりもずっと、登ることが重大だった。幾度目かの夜と夜明けを、そして落日を、アニュス・デは木の上で過ごす。掌は擦り切れて、真っ赤になって、潰れて、血でまた赤くなった。足も同じく。どれくらいの時間登ってきたのか。もう彼女には分からない。ただ、もう地上へは下りられない。ただ上へ、上へと、登るだけ。
 いつのまにか、もっと低いところではその姿も声もなかった鳥たちが、アニュスの周りに来るようになっていた。甲高くも低くもない、心地よい声で、小鳥はアニュスに語りかけた。まだよ、まだまだもっとよ、樹はもっともっともっと高いのですもの。
 「ええ、分かってるわ。私は登るの」
 アニュスは登った。ただ登っていった。もう時間も距離も、理由も、登るという行為の中で消えていった。
 まだよ、まだまだよ。まだまだもっとよ。樹は、もっともっと高いわ。
 登った。登りつづけた。そうして登るうちに、雨風を受け、それでも登るうちに、アニュスには自分の心身まで失ってきたように思えた。ただ登る。それだけのことにすべてが費やされた。登る。登る。登った。どこまでも。尽きるまで。
 そうしているうちアニュスは、自分がもう随分と長い間、食べも眠りもしていないことに気づいた。そして小鳥が囀った。
 もう少し、もう少しよ。
 もう少しだけ…アニュスは登った。そしてようやく、彼女は、葉の切れ目に到着したのだった。最後の小枝に、注意深く手をかけて、彼女は頭を、樹木の先から持ち上げた。
 初めに見たのは、空。自分の側を流れる雲。彼女はできる限り背伸びをし、片腕を幹に絡めた。大空の中、彼女はついに、世界樹の頂上へと登りつめたのだった。
 「あ…あ、あ……」
 アニュスは、ずっと使っていなかったためにもつれる舌で、それだけ言った。何を言うべきなのだろう。目の中に飛び込んできたのは、はるかな地平線。遠い地上。所々に上がる煙。山。草原。川。
 …いないわ、とアニュスは思った。思ってから、誰が、と反復し、自答した。
 神様。
 いないわ。やっぱりいないわ。いないじゃない。
 「アニュス・デ! あんたは正しかったわ!」
 大きな大きな、しかし確かに果てのある大樹の頂上で、アニュスは大声で泣き笑いした。
 「アラステア! ホザーナ! 見なさい、やっぱり誰もいないのよっ!」
 碧緑の世界で、アニュスは泣きながら、笑いながら、考えた。
 アラステア…彼女を残していってから、どのくらいの時がたったのだろうか。ホザーナ…彼が死んでから、一体どのくらいの時が?
 「ああアラステア……かわいそうな子…!」
 独り残された彼女は、どうしているだろう。自分にはもう、この高い樹を地上まで伝う力はない。
 「かわいそうに……かわいそうに」
 アニュスは大きく天を仰いだ。そしてそのとき、丁度彼女の真上にやってきていた太陽が、彼女の瞳を焼いた。まぶたから脳に、一直線に走る、光。アニュスは自分の手が、木肌を離すのを感じた。踏み出した足は宙を蹴り、彼女はまっ逆さまに、落ちていった。
 最後に見た太陽…空の宝玉は、アラステアの胸にあった朱の首飾り。
 アニュスは空中を落ちていきながら、自分が浮いているように感じた。久し振りに、身体のどこにも力をいれずに、落ちていく時間はあまりに長かった。風圧さえも感じない。自分の身体が少しずつ、空気に溶け入っているようだった。
 (ああ…本当に私は落ちているのかしら)
 自分の身体は、本当にあるのだろうか。世界樹の頂上に着いたと思ったのは、その途中で息絶える自分の、最後の幻ではないだろうか。いや、初めから、あんなにも無心に登りつづけていたのは、本当に自分の身体なのか。ただ、魂だけではないのか。
 そう考えている時間にも、アニュスはどんどん落ちていく。しかしそれにしては地上が遠い。本当に自分は落ちているのか。そんな感じは全くしない。むしろ…
 (アニュス…)
 (アニュスちゃん、兄貴は空に落ちてったんだぜ…)
 そう、今、アニュスの魂は、空に向かって一直線に落ちていた。
 登るのに費やした時間の、また数倍の時を経て。
 アニュスは、世界の反対側の、世界樹の頂上にいる自分に気づいた。



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