VIRGIN QUEEN
彼に女のように扱われるたび――概ねそれはベッドの上に限定された――自分は男なのだと強く感じた。やがて互いの情熱は、ファミリーレストランのコーヒーより薄くなって、そこに浮かべた角砂糖のように溶けて消えた。
2年後、職場の後輩にあたる女性と婚約したという彼について、仲間たちは「一過性」だとか「仮性」だとか、やっかみと侮蔑を交えて評した。
真性だろうと仮性でも土星でも、そこには何の優劣はないはずだ。セクシュアリティはグラデーションだし、時と共に流動的だ。第三者が口出しする問題でもない。
大事なのはあの時、17だった自分と、21だった彼は、それでも確かに好き合っていたはずだということだ。幼いながらに。拙いながらに。すべてのものに怯えながら、それでも。
「あれ、今の佐伯のはにーはいくつだっけ。…おっと、」
大学生協前の上り坂で、話を聞いていた鳥子は、ブーツのピンヒールを溝に引っ掛けてこけそうになった。
「今年17」
鳥子が体勢を立て直すまで、亘はしばし足を止めた。
「じゃあ一緒だ。17と21」
「…そやな」
鳥子とは一昨年、大学入学したての頃に出会った。教養課程の教室で、何度もすれ違っていたが認識はしていなかった。それがあるとき、亘と同じセクシュアリティを持つ知人…つまりは同性愛者の集まった飲み会で顔を合わせ、互いにどこかで見たなと探りを入れて、事実が発覚した。
しかし鳥子はレズビアンではないという。しばらくして、キャンパス内でも鳥子と行動を共にすることが多くなった亘に、お節介な知人は忠告をくれた。
「あの子は好奇心でゲイが好きなんだよ。付き合わない方がいいって」
女性である鳥子にことあるごと話し掛けられデートに誘われ、もしかして彼女は自分を恋愛対象として見ているのか、嬉しいながらも複雑な心境を持て余していたときだったので、その忠告はどちらかと言えば亘を救った。
明るく可愛い鳥子と一緒にいるのは楽しかった。彼女が、いささか古めかしい「おこげ」という俗称で陰口を叩かれていることは、気にはなったが、彼女との交際を止める理由にはならなかった。
「…なんで鳥子、んなに俺の話聞きたがるんや? しかも元カレの方」
「好奇心」
「あ、そ…」
「あ。よっちゃん! よっちゃんジャスアミニッツ! こないだの近藤せんせの課題さぁ…!」
購買部から出てきたカップルの女性の側を呼び止めて、鳥子はしばし高い声で世間話に講じていた。遠慮のない教授への軽口に、亘は思わず当の本人が近くにいないか窺ってしまった。小心なのだ。
「佐伯さぁ」
カップルの男性の側が、煙草に火をつけながらはみだし者同士の共感を持ってか小声で話しかけてきた。
「佐伯、あの子とつきあってんの?」
鳥子のことだ。亘は苦笑した。「いんや? 違います」
男と女が多くの時間を共有していたら、それは普通そういうことになるのだろう。または、そういうことの予備軍。分かりやすい。
「俺は別にいいんだけどさー。佐伯知らないなら教えといた方がいいと思ってさぁ。あの子……」
見え見えのナルシズムで煙草をふかす、偽善的とも言い難い下世話な噂話。
副流煙と一緒に、「男の連帯感」などを吸わされている気がして、亘は無性に司に会いたくなった。
漢字の数が一緒だね。
始めて会ったとき、司は今よりさらに小さく、本当に子どものようだった。ともすれば、子ども料金でバスに乗れそうだとからかうと、それは無理、と一刀両断された。人懐こい笑顔。
「漢字?」
「うん、一文字名前」
ふわふわした髪の毛はどちらかというと女の子のようで、一般に、男性らしい男性に惹かれることの多いゲイにとっては扱いづらいタイプに思われた。そう、亘でさえ年少の部類に入るその店で、そんな子どもがいることに驚いた。人のことは言えないが、どう見ても未成年。さすがに酒は飲んでいないようだったが。
「俺は、司っていうの。司法立法つかさどる、の加賀司」
「…いくつやの? もう家帰った方がええんちゃう?」
司は一瞬きょとんとして、それから少し俯いた。「……うん、そうだよね、そうする」
途端にカウンターの中から、佐伯っち何説教してるの! と軽い怒声が飛んだ。
「説教ちゃうで。でももう遅いし、危ないやん」 焦って弁明をする。
「俺強いから大丈夫だよ、夜道」
責められる亘をかばうようにそう言って、司が背の高いスツールから身軽に飛び降りた。
「でも、うん、亘さんの言う通りもう帰らなきゃ。連休だからさぁ、昨日から実家帰ってるんだ、俺」
帰りたくないなぁと言外にぷんぷん匂わせていた。寂しげな顔に、思わず口にしたのだ。
「でももう遅いで。帰らな。…送ったろか」
司はまたしてもきょとんと沈黙し、それから照れくさそうな笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。俺強いから。…ありがとう」
素直な子どもだと思った。物珍しさからだけでなく、彼がマスコット…いや、アイドル扱いされている理由も分かった。それが1年と半年は前のこと。
それからちょくちょくと二人で会うようになった。司はしばしば口にした。ありがとう。
家は全然遠くはないけれど、両親を騙して寮住まいをしていると司は話した。冬に亡くなった叔父さんの恋人を探しているのだと言った。叔父さんも俺も多分ゲイだけど、でも遺伝とかじゃないよねぇと笑った。人探しに付き合うようになった。司は言った。ありがとう。
下心を抱くには司は幼すぎると、そう思っていたのに、やがて彼が別の男と…交際を始めて自分の本心を知った。
そんな話題には到底不似合いな、明るくはしゃいだ遊園地の空の下だった。「俺ねぇ…敏生とえっちしたよ」
青天の霹靂。亘はギャグでなく持っていたアイスクリームを地面に落としてしまった。今のがボケなら突っ込まねば。いや、自分の行動の方がよほど突っ込みどころ満載だ。
「…なんで?」
気の利いた合いの手など入れられるはずもなく、亘はそう返した。司は困った顔で、手にしていた遊園地のガイドマップに目を落とした。
「なんでって…」
いくつやの? もう家帰った方がええんちゃう? もう遅いし。危ないやん。
まだそんな。そんな。司。まだそんな年ちゃうやん。
金魚のようにぱくぱくと口を開け閉めし、亘はどっと疲れを感じた。照れくさそうな、しかしある意味では幸せそうな司が、数年前の自分に重なって見えた。
「…そ、それやったら、司、せめて俺ともつきあおっ」
………なんでやねん、自分………
というわけで、司にとって亘は初めから「2号さん」なのだ。司の本命はあくまで、浮気性で有名、バイへの偏見をさらに煽っている諸悪の根源のようなあの男。子どもの司に手を出すようなノンモラルな、同い年の、カメラマンなんて横文字職業。
「別れ。なぁ、別れ。司にそういう不純なつきあいは似合わんって!」
ことあるごとにそう訴えた。信じられない。だって、司は。
「なんでそんなに反対してるの? 他にもっと生真面目な相手だったら、じゃあ浮気されてもいいんだ?」
鳥子に茶化され、拳を握って反発したのを覚えている。
「司まだ15やでっ!? 子どもやん! 子どもはそんなんせんでええのっ!」
子どもは、だって、何も分かっていやしないんだ。何も考えないで、好きならするのが自然だと思っている。
冗談じゃない。
こんなことは司には直接言えない。精一杯考えたと反論するだろう。子どもだけど、子どもだけどと、主張するだろう。昔の、自分のように。
後悔しないと思っているのだろう。今こんなにも愛しているのだから、どうなっても構わないと心底信じているのだろう。だけど違う。風化しうる記憶よりも、どんなにか、肉が疎ましいか。生きている限り消えないのだから。事実は。
多分司には、まだ分からない。
分からないままの司が愛しい。
矛盾している。
「幸福なセックス」が、司との話題に上がったことがある。
そのうち司側の意見が8割方のろけに変わったので、不愉快になって話を打ち切った。デートの残り時間を、二人ともわざとらしくいちゃついた。
幸福なセックスがあるとは亘には信じられない。気持ちいいだけのセックスならいくらでもあると思う。だけど相手との関係性において、セックスは無益だと思う。時間が止まる。何も分かり合えない。動物のようになる。終わった後後悔する。本当に分かりあいたい相手となら、セックスなんてやっている暇はない。
自慰にも同じことが言える。いつもいつも後悔する。理性でコントロールできない欲望が疎ましい。司、ごめん、司。謝るのに真っ最中はそんなこと考えられない。司と、こんなこと、したくないのにしたいんだ。
交際を始めてたった数ヶ月で、司の本当の恋人は仕事の関係で日本を離れた。ほっとしたと同時に怖くなったのは、司がそういう関係まで自分に求めてきたらどうしよう、ということだった。生協食堂で、知り合って一年ほどが経過しようとしていた鳥子に小声で相談した。
「やりゃいいじゃん」
けろりと鳥子は言ってから爆笑した。「いやいや冗談。悪い。子どもだもんね、佐伯のハニーは。やーいロリコン」
隣のテーブルが気になって、それは言葉の意味が違うと指摘しなかった。
「冗談です。ごめん。要するに佐伯っちは自分の助平心が怖いのだな」
「…その言い方は…」
「今更何を恥ずかしがるよ。鳥子わかんなぁい。自分だって初体験そのくらいなんでしょうに。じゃあ、いくつになったらいいのさ。18? そしたら一応男も結婚できる年齢だよね」
鳥子は、亘の奢ったレモンソーダをストローでしゃかしゃかかき混ぜていた。飲み物と同じレモンイエローのタンクトップの上に、白いフリルシャツを重ねていた。ジーンズに安っぽいスパンコールの付いたミュール。
「そんなの、佐伯が自制すりゃいいだけの話じゃん。聞いてたら、佐伯が思うほど相手傷つかないよ。自制できない自分に傷つくのは佐伯でしょう。そういうのは自業自得というよ」
けど。そこで言葉を止めて、鳥子は少し考えるために時間を使った。
「けど、ま、結局どんな言い訳しても、そんなの佐伯側の理屈にしかなんないよね。佐伯のことでしかないよね。私わかんないよ。佐伯は、まるで、処女信仰してるみたいに思える。お綺麗なままのツカサくんに癒されたいんだ? …したのしないの、それがそんなに大事なことなの?」
飲み終わった紙コップを鳥子がゴミ箱に捨てに行く。彼女がいないそのときに、近くのテーブルから、同じ学科の男が亘に声をかけてきた。
「佐伯、今のカノジョ?」
「…ううん」
「いや、もしそうでも構わないんだけど、知ってるのかなぁ。あの子ってさぁ…」
鳥子が戻ってくるまでに、その馬鹿野郎は離れていった。同じ空気を吸わせたくなかったので有難かった。
その後二人でバスに乗って映画を見に行った。行きは空いていたけれど帰りはある程度人がいて、乗車口のすぐ横の一人がけ座席しか空いていなかった。
「鳥子座るか?」
「どもども」
鳥子はそこに嬉しそうに腰掛け、内緒話をするように声を潜めた。「佐伯っち居てありがたいなぁ。私ほんとはこの席かなり苦手なの」
「なんで?」
「混んでくるとさぁ、このすぐ後ろとか、横とかに人が立つでしょ? それが男の人だと、なんか、取り囲まれてるみたいで凄い圧迫感あるんだよねぇ」
結構怖い。そう呟いた鳥子は一つため息をついて、亘は、自分が彼女の恋人になれたらよかったのにと、わずかながら始めて思った。
「はっぴばーすでー!」
その日最初の授業が終わったあと、鳥子が講義室に姿を現しぱちぱちと手を打った。
「おめでとう因縁の21歳」
「……どうも。オオキニ」
鳥子らしい祝いの言葉にがくんと頭が垂れた。
「でも悪い。実はプレゼントがまだないのです。そのうちあげましょう。感謝しなさい」
「…感謝だけ前払いなんかい」
前の席に後ろ向きに座り、鳥子は亘のノートを取り上げた。そういえば鳥子もこの授業を受講しているはずなのだった。ぱらぱら目を通している。前払いの感謝の形として、その行為を黙って許した。
「ハニーからおめでと言ってもらった?」
「…学校やからな。携帯持ってへんし」
「あらら。かわいそ」
よしよしと頭を撫でられた。教室には、そのまま昼食を取る学生らが残っていたので、また誤解されるなぁと心の中で苦笑する。
「いいねん。放課後会うから。今日は観覧車乗りに行くんやで。司はええ子やからプレゼントも絶対用意してくれてるはずや」
「ごちそーさまっ」
さらにのろけながら、亘はマナーモードにしていた携帯電話に目を落とし、メールの着信があることに気づいた。
「おお。ケイタから祝いのメールが」
「あんなのでも人の誕生日なんて覚えてるもんなんだ。アツシのこと以外はアウトオブ眼中だと思ってました。悔い改める鳥子の図」
胸に手を当てて見せた鳥子を笑えなかった。メールは、件名こそ「誕生日祝いのお役立ち情報」だったものの、本文は祝福とは縁遠かった。「お前振って女とくっついたあいつだけど、子ども出来たらしいぞー。新居も近くらしいから、そのうちパパと遭遇すっかもな!」。
腹が立ってすぐに消去した。デリート、デリート。しかし知ってしまった事実は消えない。
「佐伯っちどしたの? ケイタが馬鹿書いてきた?」
今日の鳥子は、胸に真っ赤なハートの模様の入った、白いニットを来ていた。胸の膨らみが女らしかった。しかし何も感じなかった。それより司に会いたかった。寂しかった。鳥子のせいではないけれど、鳥子のことは友人として大好きなのに、今彼女といたい気持ちになれなかった。一度立ち上がりかけ、それから、どうせ司は今学校だと気づいてまた座った。鳥子が自分の挙動不審をじっと見つめて、今度は何も言わなかった。
夕方に駅前で会った司は制服だった。自分とのデートには、人目を気にして私服が多い司だったが、濃緑のブレザー姿は知的で司によく似合っている。だから、司がたまに制服のときは亘は言葉を尽くして褒める。やりすぎると女子高生好きのオヤジになると自覚していたが。
「誕生日おめでとー! プレゼントは俺! 嘘!」
開口一番、悪意ない冗談をホームランのように打ち飛ばし、司はプレゼントの包みを差し出した。
「お金なくてごめんね。でも愛は多少あるので許して」
「多少かい」
「うん、若干よりは随分多い感じで」
若干よりは随分多い感じの愛は眼鏡ケースと眼鏡拭きだった。本人は謙遜したが、それはデパートの包装紙で丁寧に包まれていた。司は2年になってアルバイトを始めていたので、高校生にしては確かに「若干よりは随分と」張り込んだ買い物のようだった。
「ありがとなー。むっちゃ嬉しい」
しかし、そのアルバイトは亘とのデートの時間を大幅に縮めていたし、それで受け取った金の大半が、国際電話代に消えているのも知っていた。今更だ。ライバルが海の向こうだといえ、状況は何も変わっていない。近くにいる自分が有利なことはいえば…キスができる、くらいのものだろうか。
二人で海岸沿いの列車に乗った。海が珍しい司ははしゃいで車窓を眺めていた。平日の割には少し遠出で、駅を過ぎるうちに、司の制服を目に留める人は少なくなった。デートスポットとして有名な、ウォーターフロントの観覧車は、やけに間延びした速度で夜の空を回っていた。
「うーん…揺れるゴンドラに淫靡な想像がかきたてられる」
列に並んで、司が腕組みをした。
「かきたてられるなや…」
とりあえず頭を叩いておく。まったく。この子は。
「結構人いるねー。もっとがらがらだと思ってたのに」
「意外にカップルだけじゃないねんなぁ」
「…俺たち兄弟に見えるのかな。友達は難しいかな」
女性3人のグループが、司を見て「あの子ちょっと可愛くない?」と囁きあっているのに気づいた。俯いている司の代わりに少し視線を投げておく。自分は、見知らぬ女性から注目されるような子の、恋人なのだという実感が、まるでないのだった。
(お前ふって女とくっついたあいつだけど、子ども出来たらしいぞー)
「うわぁ。結構揺れてない!? 揺れてない!?」
やっと順番が来て乗り込むと、司が本気で驚いた声を上げた。
「…司、仮にも武道家なんやから動揺すなや」
「えー。わーきゃー言うのがおもしろいんじゃん」
係員がぱたんと扉を閉めて、しばしお互い無言になった。
「夜景夜景。うわー照れるねっ。照れるっ」
わざとらしく司が足をばたつかせた。
「こらっ。揺れるやろっ」
「俺は武道家ですから動揺しないのです」
「俺が怖いんやっ」
白状すると、司はにやりとして勢いよく立ち上がった。
「つかさーっ」
思わず扉に付いた取っ手にすがってしまった。司は身軽な動作で向かい側から席を移動して亘の隣に座った。
「お約束シチュエーション」
笑っているが、結構照れているのは分かった。
「高かったり、揺れたりするのが、どきどきを高めるんだよね、こういうのって。ほら、吊橋ですれ違った男女は恋に落ちるって言うじゃん? アクション映画の男女は絶対くっついちゃうとかさ。すぐ別れるらしいけど」
漢字の数が一緒だね。司と始めて会ったとき、自分だってまだ未成年だった。一応は年単位の時間を共に過ごしてきたけれど、まだ、肩が触れ合うくらいの距離は恥ずかしい。純情だ。司だって。
子どもなのに。
「…俺が司くらいの年につきあっていた人、もう結婚しててんけど、子ども産まれたらしいねん…。なんかなぁ…人様のもんになったんは分かってたのに、なんで今更それでショックなんか分からんわぁ…」
過去を振り返り振り返り、何を今更そこにある傷を探るのだろう。司がいるのに。司がいるのに。
「それは…ショックなんじゃない? 俺も敏生がそこらで種撒き散らしてるの分かってても、実際子連れの女の人と会うのは恐怖だもん」
のんびりと司が応え、更に落ち込んだ。寂しがっている自分の前で、俺は別の男が好きだと宣言しなくたっていいのにと思う。
「あ、ごめん。そういう問題じゃない? うーんとね…」
ああ、そうだ、誰も彼も、体を繋いだって心を繋ごうとしたって、結局は自分のものにならない。
…自分が勝っていることなんて。今手を出せばキスできる距離でしかない。
そう思っていると、司の方から顔を寄せてきた。恥ずかしがり屋の司にしては大サービスだ。
キスをした。軽く触れ合い、啄ばみ、わずかに吸うだけのいつものキス。
あの男のことを思い出していたから、つい、その気持ちよさに溺れて、何度も繰り返すと司が苦しげに呻いた。その声が良くて、調子に乗って舌を入れようとして、やってきた官能的な嵐に反対に我に返った。
突き放すと、司はきょとんとしていた。子どもっぽい顔で唇だけ濡らして。
混乱して泣きそうになった。情けない様子でうなだれた亘の顔を、司は両手で包んだ。ゆっくり唇が近づくのを、押しのけてそれから謝った。
綺麗なはずの司の顔が、能面のようだった。
司を愛しいと思う。自分を、理解できない司だからこそ愛しく思う。そのままでいい、そのままでいいのだ、彼は。
鳥子。不意に女の髪が香る。
(佐伯知らないなら教えといた方がいいと思ってさぁ。あの子……)
鳥子。
彼女に言うべき言葉などない。
同じように、司にも何も求めない。彼を好きでいる、それとこれとは、違う、まったく別の問題なのだ。
「ごめん。…でも、俺が勝手に寂しがってるの、司で埋めたくないんや」
「…じゃあ俺は何も出来ないの」
司が低い声で問うた。
「何も、せんでええんよ。司は司で…」
どう伝えればいいのだろう。人に、他人に、出来ることは限られていると。どうしたって、心のすべてを占めることは出来ないと。
「本当に…もう充分やねん、司は…」
抱き寄せようと伸ばした左手が、司の肩の上、数センチのところで固まって動かなくなった。
自分で驚いて、手の甲を見詰めた。
数秒後には無理矢理、温かい司の身体を抱き締めていた。
けれど彼に触れることに躊躇したその時間、なぜだか感じた別れの予感は、確信にさえ近く、祈りよりは脆く――
出来ることが、ないからといって、側にいることが無意味だとは決して思わないのに。
アルバイトである家庭教師が入っていない曜日、鳥子が買い物に付き合えというので5限の授業を諦めた。大学最寄の駅からいくつか離れた、大きな駅ビルに連れ込まれた。
今日の鳥子は緑色をしたミニ丈のワンピースに、紺のジャケット。上からフューシャピンクのロングマフラーをぐるぐる巻いていた。
「何買うん?」
「光物のアクセと、香水と、ブーツと、限定コフレ、」
「全部買うん?」
「を、見るの」
まずは婦人装身具のコーナへ、エスカレーターで上った。
「ほら、今度パーティあるじゃん?」
鳥子が言うのは、地元にあるゲイ・レズビアン支援団体主催のクリスマスパーティだ。普段はリブ系の話し合いをメインとしているややお堅いグループだけれど。
「ディスカスには出ないけど、夜のパーティには乱入するのよん。だから光物は欲しいんだ。できれば2連のチョーカーがいいな」
その類いの大手団体とは距離を置いている亘と違い、鳥子は持ち前のコネクションで、そういった集まりによく遊びに出る。最も、ヘテロである鳥子が顔を出すのを嫌がるメンバがいることも事実だ。
「なるたけチープなのがいいけど、五千円までなら出すぞ。さぁ、乗り込めー」
17の頃は。亘もゲイ・リブに今以上の興味があった。
返信封筒に団体名は書きません、個人名です、というグループに加入したこともある。大学・専門学校生中心のそこから、初めて返って来た封筒のリターンアドレス…それが、彼だった。
「一目惚れだった? 佐伯は面食いぽいよね」
「ちゃうで。向こうから惚れられてんよ」
「へー」
鳥子は、お目当てに近いゴールドの2連ネックレスを、散々迷った末に断念した。それから化粧品売り場で、試用品をいくつか愛想よく受け取ると、熱心に香水を眺め始めた。
「めろめろだった?」
「…そら、な」
「優しかった? ……この匂い、どう?」
「…鳥子には甘すぎや。…優しかったで」
「バニラ駄目? ちぇ。…これは?」
「…まぁ、鳥子っぽくないことも、ない。…これは?」
香水を染み込ませた綿の入った小ビン。ブランド名を見ても分からないので、亘は手当たり次第に嗅いでいってみた。
「これ、ようない?」
差し出したビンを、鳥子はしばらく離さなかった。
「悪くないけど、これなら佐伯の方が似合うかもね」
「女物やろ?」
「うん。…でも、いいかも。……いいね。よし、げっちゅ」
「おいおい。いいんかい、そんなんで」
鳥子は店員に、その香水の番号を告げ、さっさと支払を済ませた。少し個性的で強い、しかし媚びるところのないような、そんな香りだった。
「んで、佐伯のほうも、めろめろになったんだ」
「…めろめろってなぁ…」
苦笑して言葉を濁したけれど、勿論当時は惚れていた。そう思い込んでいただけかもしれないが、出なければあの一線は超えられない。
彼は優しく、そして自分を好いてくれていた。
その優しさを、上手に未来に繋げられなかったのは、自分たち二人の責任で、彼だけが悪いわけではない。
行為さえも、合意の上だった。それがトラウマになっていたとしても、彼につけられた傷では決してない。自分で勝手に傷ついているだけだ。
本当に、心底、心の底の底から、そう思っているはずなのに、その心を裏返せば、彼を――――責めている自分がいる。
汚いことを全部彼に押し付けて、一人白くあろうとする、醜い自分がいる。
「私、傷物っていう言葉が嫌い」
鳥子がつまらなそうに、ガラスケースの中の宝石を見詰めていた。
どういう文脈か思い出そうとして出来なかった。鳥子はまったく唐突に、その台詞を吐いたのだった。
「このへん、たっかいなー。やっぱ当分はイミテーションだよね。どうせ、ワゴンセール300円の女だわ」
その後鳥子が何足かのブーツを試着して、筒の細さに文句をつけ、真冬に向けてコートを品定めをした。亘は完全に疲労した。
どこかで休もうと提案すると、「シフォンケーキが安くてでかい」という喫茶店に入ることになった。
「佐伯っち、ツカサくん、お元気?」
2つのケーキセットを間に挟んで向かい合う。「まだ、続いてるんだよね?」
「…元気やで」
「もうやっちゃった?」
「……鳥子。お前、ゲイカップルに、そんなこと聞きまわってるんかい」
「しないよしないしませんよ。佐伯に聞いてるだけじゃん」
「司のプライベートでもあんねんから」
「やっちゃったんだ」
「やってへんっ」
「なんだ。相変わらず子ども扱いで大事にしてんだ」
「…なにか文句あるんかいな」
「ううん、ストイック偉いね。でもツカサくん若いから、可哀想。…冗談。怒らないでね」
若いから、若すぎるから、やらないのだ。正直に認めれば、確かにこれは一種のトラウマかもしれない。肉の記憶は消えないのだから。心の方は時間と共に、容易く180度変化できても、身体は変えられない。消えない。司にだけは憎まれたくない。
「…セックスが怖いんだ?」
だって、体を開かれることは――大変――苦痛だった。
「分からないでもないけどね」 鳥子が言った。
鳥子が言った。「だって私もまだ怖い」
鳥子が言った。「好きな人に好かれたり触られるのがすっごく怖い。だって私は汚れてるでしょ」
「みんな言ってくれるよ。あなたは被害者だ、悪くない、汚れてなんかないって」
鳥子の声は淡々としていた。けれど表情は、「ここで泣いたらどうする?」などと絶え間なく探りを入れていた。
「けどね、違うよ、そういう問題じゃないんだよ。そういう問題じゃないよ。だって私はここにいるんだよ」
「忘れるはずないんだよ。なかったことになんか出来るはずないんだよ。だって鳥子は私なんだから。いっぱい書類に名前かかれた、私が鳥子なんだから」
何も言えずにいた。鳥子はシフォンケーキにフォークを突き刺した。
無責任な噂は聞いていた。何も出来なかった。これまでも何も。これからも何も。
なかったことには出来ない。傷はもう鳥子のものだ。それを美化する必要も無い。ない方がよかった。本当なら、出来るものなら、避けて通りたかった痛みだった。
自分の傷は…一人で痛がっているその傷は…それは鳥子のものほど深くはない。腹をまさぐればそこにある。誰にでも見える。そして同じように、取り返しは、つかない。
あの頃は確かに、それでもいいと思っていたはずなのに。
確かに、痛みごと抱えて生きていくつもりだったのに。
――ベッドの上で彼に、女扱いをされて、調子に乗って、お姉言葉でふざけて、さんざん気持ちいいことをやりあって終わりはなくて、決して軽率だとも短慮だとも思わなくて、罪悪感は切って捨てて…そうだ、幸福だったとさえ言えるのに。
それなのに、という言葉の続きを捜して、亘は知人に連絡を取った。誕生日にメールを送ってきた人間には、デリカシーのなさに腹を立てていたので、その恋人に聞いてみた。世話好きだからか、それとも単に面白がってか、セッティングまでしてくれた。いずれはこのことも知らないところで噂されるのだろうと少し重荷だったが、とりあえずは礼を言っておいた。しばらく会っていない司が、随分前に零していた愚痴を思い出す。
「噂とか、なんだろう、偏見とか、その一人一人を見たら皆それなりにいい人で、付き合っていくことに何の抵抗もないのに、それが集団とか、うん、一人一人じゃなく、一塊に見えちゃったら、途端に悪意がオーラみたいに立ち上っちゃうのは何でだろう。俺の見方が悪いのかなぁ」
家庭教師先の小学生が、年に似合わぬ大人びた顔で呟いていた呪いを思い出す。
「いいことは前からやってくるんだと思う。すれ違って気づいたりよくするもの。でも、悪意は背中を押すよね。凄く強く、背中から来るよね」
日曜日の昼は放射冷却で冷え込んでいた。年末へ向かう忙しない町の秒針が、観覧車のようによく晴れた空を回っていた。そして休日なので、彼は大変ラフな格好をしていた。ストライプの綿シャツの上にベージュのセーター。ジーンズは若々しさよりむしろ所帯を感じさせた。スーツ姿になったなら、さぞかし麗しいビジネスマンだろう。安易な自分は、あっという間に胸のくすぶりを燃え上がらせていたかもしれない。
しかし彼はいかにも休日の父親だった。大きな乳母車を押していた。
目が合った。それだけでふと、笑みが零れた。
「…ご無沙汰…」
なんとかそれだけを言葉にして少し頭を下げた。そうすると、乳母車の中の、産着にくるまれた子供が目に入った。
柔らかそうな髪の子供だった。閉じたまぶたの感じが、彼に似ているような気がした。
「ああ……久し振り。…なんだ、一瞬分からなかった」
動揺していないこともなかろうが、彼の声音は静かで暖かかった。
「今日、奥さんは?」
「芝居を見に行ってる。有閑マダム気取りなんだ」
嫌味ではない。ごく自然な言い方であることを確認した。
「おかげで今日は奮闘してる。こんなに小さいのに、唯我独尊だよ、子供ってのは」
彼の視線が子供に落ちた。懐かしい光がそこに灯った。この目の細め方を知っていた。なぜならこんなふうに、愛されたことがあったからだ。忘れようとしていた。なぜだろう?
「可愛いやん。…いやもう……ほんとにパパやねんなぁ…」
彼と、顔も名も知らない女とのセックスは、完全に他人事だった。
「今、大学3年生か。何してる?」
「何って…就職活動が始まったとこ」
「理系だったよな」
話は互いの近況を、セクシュアリティには触れずその周辺でぐるぐる回った。
自分がこの人の恋人だった事実は、このままなかったことにされてしまうのかと危惧したとき。
「お前、今付き合ってる奴は?」
「……いる、で」
その後の間はやけにぎこちなかった。
「男か女か………聞いても仕方ない、か」
「男デス、いい子デス、可愛くて…」
「……そうか」 彼は乳母車にかけていた左手を一度離してまた握った。「少し、心配してた」
「――オレがゲイなのは誰のせいでもないで? 大体悪いことちゃうもん。恨んでへんで? …今は」
「『今は』?」 と、彼は声を立てて少し笑った。全く後悔していないと言えない自分たちは、もしかして恋にうつつを抜かす、そんな資格がないのかもしれない。
――でも、恋を、していたよ。少なくとも当時は確かに、心の底から真剣に互いを恋していたよ。
「そや。今は恨んでない。懐かしくも恥ずかしいだけや」
「…確かに恥ずかしいな」
彼は目を細めた。そのポケットで携帯電話が短く鳴った。
「そういえば、アツシやケイタは? 元気かな。アツシとは久しぶりに話せたけど」
携帯に操作しながら問う。
「……うん、相変わらず」
彼が名を挙げた知人たちは、彼が結婚を決めた直後、それが偽造結婚か否かを賭けの対象にしていた。言えるはずもないが。
「…メールだ。家内から」
「何て?」
「芝居の感想」
「可愛いな」
「どうだか」
愛しげに笑う。
「…ほな、頑張ってほかほか家族作りなや」
「じゃあ、お前も頑張って恋人と仲好く」
軽く手を挙げて、また微笑んで、笑いながら別れた。
もう一度会ったら、自分は泣くか憎むか、改めて惚れるか無関心に努めるか、どれだろうとずっと思っていた。
いやいや、意外に普通かも知れないぞ、とか、ずっと。
しかし笑えた。笑えた。嬉しかった。
口元から力が抜けて、それでようやく、何か一つの大きな借りのようなものを、返した気分になったのだ。
あなたと別れてからも、俺の体はあなたと繋がったことを忘れない。あんな幸せな記憶と、あんな辛い別れの記憶を胸にしたまま生きている。あなたがいなくても。
二度とあんな幸福な一体感は得られないかもしれない。自分にとって、体を繋ぐことはもう単なるセックスでしかない。
(佐伯、鳥子とつきあってんのー? へー、もうやった?)
だけど鳥子に好きだと言おう。司にも。
司に。鳥子に。誰かの夫に。誰かの父親に。
思う。寄り添って生きていくしかないのだと。
…ありがとう。
「佐伯ー」
生協食堂のいつもの席で、振り返る前に冷たいものを首筋に吹きかけられた。
「なんや」
どことなくオリエンタルな香りが漂った。鳥子は手に長方形のアドマイザーを持っていた。
「うん、やっぱ私よか佐伯に似合う。あげよう。あげよう。因縁の21歳の誕生日プレゼント」
「…女ものやろが」
押し付けられたオード・トワレにため息をつく。
鳥子は笑んで、空を行く身軽な生き物のように、白いロングコートを翻した。
いいや、翼を持つ小さな命こそ、鳥子のように空を飛ぶ。
「気にしなーい。いい匂いよ。似合ってるよ。いい名前よ。あのね、」
「"Virgin Queen"」
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