マシュマロ・マン6 〜明日見る夢〜
最近の我が家の重大ニュース。ぶっちぎりトップ独走中なのは、美知子さんが転職を決めたことだ。この場合の「決めた」は文字通りの意味で、完了形の「ゲットだぜ」という方のそれではない。前兆としては、やけに出張が多くなっていた。この家の人間及び人外の健康管理は僕の仕事なので、出張先で美知子さんが暴飲暴食しないよう、僕はそのたびに、出先の名産をメインとした献立を組み立て美知子さんに渡していた。(僕がいる限りこの家の人間に中年太りの文字はない。)さすがに、二度ほどあった海外出張の際はそれもできず、非常に悔しい思いをした。リベンジを図ってインターネットでNY及びLA近郊の健康食の店を検索したものだ。ともかくそんな出張の多さは、どうやら次の人事異動における転勤の伏線であるものらしかった。幾度かの家族会議の果てに、美知子さんは、地元で働ける会社への転職を決意した。どうやら以前から、声をかけられていたらしかった。活躍できるステージは狭まるが、仕事の内容としてはキャリアアップ、らしい。来年の春までに引継ぎを済ませ、つまりは僕が(順調に行けば)大学に入学すると同時に、美知子さんも新しい環境へ、というわけだ。
さて遅まきながら、僕と僕の家族について多少の紹介をしておこう。僕は高校三年生。受験生。趣味と特技は家事全般特に料理。最近のマイブームはパスタ。暑くなってきたので特に冷製スープパスタ。そのせいでそろそろ我が家の主食がパスタになる勢い。彼女らしき女友達が一人。今一番欲しいのはカラダスキャン。もちろん両親のために!だけれど。
美知子さんは僕の母親。会社ではばりばりのキャリアウーマンらしいが、果たしてその実体は流行のドジっ子もどきだ。それからお父さん。世帯主。我が家の家計を預かっているのは僕だから知っているのだけど、美知子さんとお父さんの月給比率は約7:5。美知子さんが転職をしたらこの差はさらに開くようだ。ちなみに美知子さんとは同い年である。
最後に、マシュマロ・マン。構成員的には僕らの誰とも血は繋がっていない。それもそのはず、彼はマシュマロで出来た未確認生物なのだ。しかし三年前から僕らの家族。たとえ巨大マシュマロでも。いくつになっても戦隊物好きで、自分を地球を守るスーパーヒーローだと信じ込んでいても。
「マサル、志望校変えるってー?」
塾の教室から出てきた僕に、チューターである平川さんが近づいてきた。もうすぐ夏期講習ということで、廊下には様々な講座の内容や時間割が賑やかに張り出されていた。
「…まだ決めてませんけど、」
一学期中の第一志望校は、平川さんの通う公立大学だった。学部は未定だった。だけどどうにも、偏差値とモチベーションが上らない。近さと就職率の高さが決め手だったのだけど。
「坂口さんは文学部に絞るって言ってたよ」
同じ志望校の女友達は、僕とは逆に着々とB判定に近づいている。おかしなものだ。高校受験のときは、僕は受かって坂口は落ちたのに。
そのまま平川さんに、進路指導室に拉致された。大学の資料を山積みにして、学習相談という名の雑談。いろんな大学のいろんな写真やら文字情報を目にしていると、だんだん混乱してくる。何がしたいとか?
「料理は好きですけど、そういうのじゃなく、もっと就職に硬いところがいいです。資格とか…」
山積みあった資料が少しずつ崩れて、残ったのは私立の栄養学科だった。文型科目で受験できる。元女子大とかで、今でも七割以上が女子学生のところばかり。
思わず沈黙した僕に、平川さんは爆笑した。「似合ってる、似合ってる」と肩を叩かれた。
「……どうも、」
「家から通える範囲に限定しなきゃ他にもあると思うけど?」
「下宿はー…」
転勤より転職を選んだ美知子さんのことを思い浮かべて頭を振った。いやもちろん、坂口の冷たい「マザコン」という指摘も同時に蘇ったけどね。
美知子さんの選択は美知子さんの選択。
僕には僕の。
帰宅するとマシュマロ・マンが一人で魔女っ娘ゴッコをしていた。美知子さんの洋服を引っ張り出しての着せ替えゴッコとも言える。片付けるのは誰だ。僕だ。当然裾を引きずるスカートを洗うのは誰だ。僕だ。
「…変身ゴッコは禁止」
「……なんとっ!」
大げさに体を反らし、その勢いでマシュマロは後ろにぽてんとこけた。蹴ってやろうかと思ったけれど、さすがに心の友にそれは酷い。
「はい、脱いだ脱いだ」
「あ〜れ〜、お代官さまそんなご無体な〜」
なにやら喚いているマシュマロ・マンからワンピースを剥ぎ取って、どことなく甘い匂いを放つそれをクローゼットに戻しておいた。
夕食の下ごしらえだけ済ませ、自分の部屋で問題集を開く。考える。最近どうもマシュマロ・マンが悪戯好きなのは、あれだ、僕が構ってやれないからだ。
「なぁ、マシュマロ・マン」
「はいはいはいっ、呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!」
勉強机に向かったまま呼びかけてみると、案の定すぐ、ぽてりと問題集の上に白い物体が落ちてきた。…デスクランプのシェードの上によじ登って遊ぶのは止めなさい。危ないから。
「マシュマロ・マンはぁ…大きくなったら何になりたい?」
口に出した直後愚問だと気づく。遅かった。マシュマロ・マンは爛々と、そのつぶらな瞳を輝かせ、胴体の真ん中辺り(多分腰)に手を当てて、ふんぞり返ると偉そうに宣言した。
「地球の平和を守るスーパーヒーロー・マシュマロ・マン!」
そしてこてんと後ろにこけた。
捗らない勉強を終え、そろそろ美知子さんとお父さんが帰宅する時間。今日はささみと大場のペパロンチーノがメインだ。豆腐で作ったレアチーズのデザートまで食卓に整えた頃、二人が帰ってきた。和やかな食卓では、お盆の旅行が話題になる。といっても、受験生の僕は行かない。両親とマシュマロ・マンだけで近場の温泉に行くそうな。そのためにお父さんが美知子さんの休みに合わせた。僕は新鮮な魚介類を産地直送で送ってくれるよう頼む。ついでに、宿の食事をデジカメで撮ってきてほしい。今後のメニューの参考に。
マシュマロつきとはいえ、美知子さんとお父さんの旅行なんて、僕が産まれてからは初めてじゃなかろうか。マショマロ・マンが受験生の邪魔をしてはいけないという配慮からだとしても、珍しく喜ばしい。
二人は、そしてマシュマロ・マンも、僕の進路については口を挟まないので、そのことは話題にはならない。ただ、お金の心配はしなくていいと言われている。私立でも、下宿でも、好きにしろと言ってくれている。そうだろうな、と思う。こんなバリバリの共働き夫婦はなかなかいない。
夜は美知子さんがマシュマロ・マンの遊び相手になるので、僕は一人でゆっくり勉強ができる。もっとも、できることとすることは違う。最低限自分に課しているノルマを果たすと、僕は電話の子機を部屋に持ち込んで坂口の携帯にかけた。ちなみに、現役高校生なら九割を越す所持率であるところの携帯電話だが、僕はいまだに持っていない。塾に通うことに、最初抵抗があったのと同じような感覚で、何となく。
坂口とは十五分ほど雑談を交わし、志望校を変更しようかと考えている旨を告げた。電話の向こうで、多分坂口は唇を尖らせた。
候補である大学をいくつか報告。さすがに、「私もそこ」とは言わなかった。
「…遠くない?」
「下宿するよ。アルバイトと」
「…あら、びっくり」
坂口は独り言のように呟いた。
「家出れるんだ」
「うん」
「心配じゃないの?」
「大丈夫だよ」
思わず笑ってしまった。坂口は、会える回数が少なくなることより、僕が家を出るということ自体を気にしてくれているようだ。実は僕以上に、我が家の家庭事情に明るいのは坂口かもしれない。さすが、引退しても疾風の魔女。
「大丈夫だよ。何も心配してない。夫婦仲はいいし、何よりうちには、宇宙の平和を守ってくれるスーパーヒーローがいるからね」
狭い郊外の一戸建てくらい、守るのはきっと朝飯前だよ。
きっと、僕がいなくても。
とりあえず、そうだな、美知子さんとお父さんには、もう少し家事を教えておこう。少なくともカルチャースクールの先生よりは上手に教えられる自信がある。マシュマロ・マンには教えても無駄だろうから放っておく。マシュマロ・マンはそのままでいい。それから、坂口には、そうだな。
「下宿始めたら、遊びに来る?」
電話口の声は咄嗟に「うん」と頷き、それから少し照れた口調で水を差した。
「その前に、受からなきゃね」
ああ本当に。まったくだ。
電話を切って、さて、とテキストに向き直る。おもちゃの銃を構えたマシュマロ・マンが、新たな敵を探しに部屋へ踏み込んできたのと同時だった。
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