Aquarium
1魚であるところの君の片恋
浦風が吹いていました。
どどーん、よほほーい、どどーん、よほほーい。
波の音はびりびり空気を震わせます。風も激しく、波を逆立て、うなり声をあげるのです。かわいそうに、かわいそうにと、泣いているのでした。
その間にも海は荒れ狂い、しぶきの涙を曇天へそそぎます。
ほら、そんなところでいつまでも、立っていてはいけません。波にさらわれてしまいますよ。したたる涙に負けてしまいます。
「いいえ、わたしは平気よ。だってわたしは、この激しい波や風には触れないもので出来ているのだもの。それより教えて。なぜこんなに泣いているの。何が悲しいの」
なぜ、と聞くのですか。いいでしょう、では教えましょう。
大切な大切な友達が、遠い遠いところで、一番のさいわいをつかみ損ねたのです。
「友達?」
魚です。いいえ魚でした。かつてはこの海で誰より美しかった、細身の銀の魚です。
「…聞かせてちょうだい。その小さな魚がつかみ損ねた、本当のさいわいの話。きっときれいなのね、いいえ、きれいだわ、まるでこの海のように」
きれいですとも。美しかった。あの魚は本当に美しかった。この海の誰もがかれをいとおしんでいましたとも。それなのに、かれは誰にも応えなかった。
かれが愛したのは、人の娘だったのです。魚は毎日波にのせて、娘のもとに、自分の宝物を届けました。深い深い海の底でとってきた、きれいなきれいな光る玉。見れば見るほど輝いて、口に入れればなにより甘くとろけ、胸に抱けば安らぎを、耳をすませば物悲しい旋律を。
ある日魚は、お月様に祈ったのです。
どうかわたしを、人間にしておくれ。彼女のもとへ行けるように。
お月様はこう答えました。
ああ、分かった。わたしの光をお浴び。だけど忘れてはいけないよ。おまえが本当は、ちっぽけな魚だということ。それだけは決して、忘れてしまってはいけないよ。
ええ、お月様、わたしは決して忘れない。忘れませんとも。
そして魚は人の男になって、娘のもとへ行きました。
どんどん。開けておくれ、娘さん。どんどん。わたしだよ。いつもおまえのところに、きれいな宝物を届けているわたしだよ。開けておくれ、開けておくれ、どんどん。
しかし出てきたのは、魚の知らない男でした。魚はそのときまで、娘に恋人がいることを知らなかったのです。魚は大変傷ついて、持ってきた玉をぼろぼろ落としてしまいました。するとそれを見ていた娘が、さっと出てきて言うのです。
ああ美しい人。毎日毎日波にのせて、美しい石を届けてくれていたのはあなただったの。
そうして娘は、魚を家の中へ招いたのでした。魚は言いました。
今まで贈った宝物はどうしたね。その美しい身体を飾ってはいないね。
娘は答えました。
あなたとの結婚のために、花嫁衣裳をあつらえているのよ。
魚は、自分の贈った玉が娘を飾るのを想像し、満足しました。しかし実際、娘は魚の宝物を、毎日毎日、たくさんのお金に換えていたのでした。
そんなこととはつゆ知らず、魚は娘と結婚することになりました。娘は大急ぎで、新しくもらった玉を使って、花嫁衣裳を作らせました。
そして婚礼は、はなやかに行われました。たくさんの料理が並びました。
そしてそこで魚は、ああ、あの小さな魚は、娘にうながされるまま、自分の仲間を食べてしまったのです!
その瞬間、魚は人間から、銀の魚へと戻ってしまいました。娘とその恋人は、笑って魚を火で焼いて、食べました。おいしい、おいいしいと言って食べました。小さな魚は自分の身体を焼く煙の中で、涙をぽろぽろ流して言いました。
お月様お月様、わたしは、そうわたしは、こんなちっぽけな魚でした。ああ、それでもわたしは今の今まで、恋しい娘さんとそいとげることが、わたしの本当のさいわいだと信じていたのです!
そうして魚の魂は、天へと召されていったのでした。
2人魚の涙
浦風が吹いていました。
どどーん、よほほーい、どどーん、よほほーい。
海も風も泣いています。ああとても激しく泣いています。
「なぜ?」
ああ、あなたはなぜと聞くのですか、いつのまにか現れたひと。
「わたしはずっとここにいたわ。ずっと、ずっとよ。あなたはわたしに、つい今まで、哀れな魚の話をしていたのよ」
そうですか、分かりました。あなたはこの世のものではないのですね。
「ええそうよ。わたしはもうずっと、赤子の頃からこの世のものではない。それより教えて。何がそんなに悲しいの」
聞きたいのですか。聞くのですね、あなたは。何が悲しいのかと。…では教えましょう。あなたが今立っているあたり。その辺は昔山でした。村でした。人が住み、花が生きていたのです。
しかし今では海の底。かわいそうに、かわいそうにと泣くのです。
「なぜ海にのまれたの?」
哀れな女の悲しみにのまれたのです。
「それはそんなに悲しかったの。泣いているの。もうすべて終わったことなのに。もう心配はいらないのに。…話して、わたしにそのお話を。聞かせてちょうだい、ひとりの哀れな、人の女のお話を」
海を見てください。この深い海。かつて、ここには人魚がいたのです。彼女は人の男に恋をして、そして捨てられました。人魚は深く深く悲しんで、涙を流したのです。
ああにくい、にくいにくいあの人が。でもにくみきれないのは、この涙のせい。あの人を想うこの涙のせい。海のみんな、仲間たち、わたしの涙を持っていっておくれ。
人魚の涙は比類なき海の宝玉。それを惜しげなく皆に分け与えたのでした。
そんなとき、海辺に一人の娘がやってきました。人魚は娘に言いました。
うたくらべをしようじゃないか。おまえが勝てば宝をやろう。わたしが勝てば、おまえの身体をおよこし。
人魚は海一番のうたうたい。しかし涙で曇ったその歌はあまり冴えず、人魚は約束どおり娘に玉を渡しました。娘は喜び、それを村の良い人のもとへ持っていったのです。
そしてそれから毎日、二人はうたくらべをし、娘は玉を手に入れました。そのたび、人魚の涙は軽くなりました。そしてついに、人魚は涙をすべて捨て去り、あくる日には彼女の最高の歌を歌ったのです。
娘は、ようやっとおびえ、村に逃げ帰りました。そして、人魚のくれる宝のおかげで、一時は裕福になっていた娘の家は、またたくまに落ちぶれていきました。娘の良い人は怒りました。もう二度と前のようには働けないと、二人は泣いて暮らしました。
そしてそのうちに、娘は自分の両足に、魚のうろこを見つけたのです。怖くなって娘が泣くと、その涙は玉になりました。
娘の良い人は驚き、そして心の底ではほんの少し喜んで、娘を家の奥に閉じ込めました。異形のわが身をはかなんで、娘は毎晩泣きました。娘のすすり泣く声を聞きながら、娘の良い人は高価なお酒を飲んでいました。
ああにくい、にくいにくいあの人が。
毎晩毎晩、娘の泣き声とともに、海から聞こえる歌声がありました。
それは波の音であったかもしれません。風の音だったのかもしれません。
しかし、両の足を魚の尾に変えた娘には、分かっていました。あれはおそろしい人魚の呪い。あの歌声が聞こえる日、海はいつでも荒れるのです。
約束をしたろう、約束を。さあ、早く身体をおよこし。逃げられやしない。おまえはもう人ではない。
いつしか娘は、海にこがれるようになりました。深い、どこまでも深く青い海。
ある日、ついに娘は姿を消しました。人は言いました。
変わってしまった恋人を悲しんで、海に身を投げたのであろう。哀れなこと。
真実を知るのは、娘の良い人ただ一人。娘が消えたその後も、毎晩呪いを耳にする、ただ一人。
ああにくい、にくいにくいあの人が。
娘の家も男の家も、いつしか消えてなくなりました。それに端を発し、村の家は次々となくなりました。
そうして人魚の、つれない男への復讐は、村を海に還したのでした。
ほら、見てごらんなさい。これが人魚の涙です。美しいでしょう。見れば見るほど輝いて、耳をすませば物悲しい旋律を奏でるでしょう。
かわいそうに。あの娘は村一番のうたうたいでした。ともすれば、人魚とだって引き分かれたのに!
人魚が毎日歌ううたの言葉に、少しでも耳を傾けていればよかったのに。人魚の歌う人間への呪いの言葉に、気づいていればよかったのに。そして最後のうたくらべで、人魚に負ける恐怖より、いつものとおり、想い人への気持ちをうたいあげれば、引き分かれていたかもしれないのに。
かわいそうに、かわいそうに。ほら、見てごらんなさい。足元を流れる細い水あと。それが、海の泡にとけた人魚なのです。
3火柱
浦風が吹いていました。ただそれだけ。
どどーん、どどーん。ただそれだけ。
それだのに、人は言うのです。
「海神様がお怒りじゃ」「お怒りじゃ」「お怒りじゃ」
どどーん、どどーん。岩を打ち砕いて、波も砕けました。
「このままではいかん」「いかん」「わしらの村がのまれてしまう」「それは困る」
波の音はびりびり空気を震わせます。風も激しく波を逆立て、うなり声をあげるのです。
「困る」「ではどうする」「怒りを鎮めてもらわねば」
かわいそうに、かわいそうにと。
「怒りを」「鎮めてもらわねば」「ではどうする」「柱を立てよう」「人の柱を」
泣いているのでした。その間にも海は荒れ狂い、しぶきの涙を曇天へそそぎます。雨の中。
「くじを引けぇ」「だめよ」「海神さまの元へ召されるのじゃ」「光栄なことじゃ」「なむなむなむ」
海も風も泣いています。ああ、とても激しく泣いています。
「赤いしるしの付いたくじを」「なむなむなむ」「助かったぁ」「村のために」
悲しみにのまれたのです。
「タケがくじを当てた!」「しかし、おさやはどうする」「タケがいねば乳ももらえまい」「いずれ死ぬ」「ではいっそ、母親と二人」「海神さまの御前へ」「助かったぁ」
浦風が吹いていました。
どどーん、よほほーい、どどーん、よほほーい。
「洞は一刻で海に沈む」「しっかりおつとめを」「堪忍な、タケ、おさや」
ただそれだけ。覚えているのは、ただそれだけ。
「もう大丈夫よ、さや。怖い人はいなくなった。ここにはお母と二人きり」
どどーん、どどーん。
「さや」
岩を打ち砕いて。
「よしよし、たんとお飲み」
波も砕いて、洞にひたひたと迫る、満ちる潮。
「おさや」
どどーん、どどーん。ただ浦風が。そんな青く暗く灰色の海に。
「一刻はたったか」「たった」「怒りは」「なむなむなむ」
どどーん。
「なんだ今の音は」「怒りは」「見ろ」「海に柱が立っとる」「真っ赤な柱じゃ」「火柱が立っとる」「怒りじゃ」「海神さまのか」「いや」「そうじゃ」「なむなむなむ」
その間にも海は荒れ狂い。
「潮が引いた」「タケは」「行こう」
しぶきの涙を曇天へそそぎます。
「いたか」「いや、いね」「タケ、タケ、おさや」「波にさらわれたか」「いや、ここに」「タケか」「いや、…おさや一人死んどる」
どどーん、どどーんと、泣いているのです。吹く浦風。わたしが覚えているのは、ただそれだけ。
浦風が吹いています。
「そして、どうなったの。あなたはどうしたの。話してちょうだい、わたしに」
何を話せと言うのですか、あなたのように、名前も知らない娘御に。
「あなたの話を」
いつのまにか、わたしの腕の中で、さやは冷たくなっていました。わたしはあの子を抱きしめて、ささやいたのです。そんなに悲しかったの、さや。泣いているの。もう心配はいらないのに。
「泣いているのは、あなただわ」
わたしはあの子の身体を岩場のくぼみに横にしました。波にさらわれぬように。そして、一人逃げたのです。だけど、洞を抜け出したちょうどそのとき、大きな大きな波がやってきました。そして気がついたとき、いつのまにか、わたしはあなたと話している。
「さやより村を選んだのだわ」
仕様がなかったのです。海神さまはお怒りでした。柱を立てねば、いけなかった。
「さやより村を選んだのだわ。かわいそうに。誰が望んだの、そんなことを。いいえ誰も。だから泣いているの」
悲しいの、悲しいの、悲しいの。
どどーん、どどーん、よほほーい、どどーん。
浦風が吹いています。強く。風も波も強く。だからほら、いつまでもそんなところに立っていてはいけません。さらわれてしまいますよ。したたる涙に負けてしまいます。
「あら、わたしは平気よ。だってわたしは、この激しい波や風には触れないもので出来ているのだもの。それより話して。何がそんなに悲しいの」
この悲しみの理由を。聞くのですか、あなたは。いいでしょう。では話しましょう。この海には昔、とてもちっぽけな、そして哀れな……
どどーん、よほほーい、どどーん、よほほーい。
そしていつまでも、浦風が吹いています。
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