月のゴースト
灰が空を覆い、黒い雨が降りました。それ以来、空に月は消えました。ちりに満ちた空に、ぼんやりと淡くにじむ、太陽。水面に揺れる光のようなそれが沈んでしまうと、世界は漆黒の絨毯に包まれます。
ベルベットの毛並みを優しく撫でて、夜の女王は冷たい冷たい息を吐くのです。
今、ひび割れた茶黒の岩の上、弱々しい双葉が全力で生きようとしていました。
双葉はやっとの思いでちいちゃな葉っぱをつけたのですが、その根はひょろひょろ、
乾いた岩の裂け目に伸びるだけ。そして夜には、どれだけ身体を丸めて縮めて小さく
しても、容赦ない冷気がため込んだ露を凍らせるのです。
「お月さま、お月さま」
耐えられず、双葉は空に祈りました。
「お月さま、助けてください、お月さま」
双葉は、本物の月を見たことがありません。しかし双葉の床となっている大岩は、
もうずっと若い頃、ごつごつの岩肌がまだ白くさえあった頃、毎夜のように月と顔を
合わせていたというのです。
「お月さまはそりゃあお優しくて」年を経た岩は、しみじみと語ってくれました。
「そしてお美しかった。あの方の金色の光は、すべて夜のものを慈しむかいなだった」
「お月さまはどんな姿をしているの?」
双葉がそう聞くと、岩はつと感じ入ったかのように、
「おうおうそうだ。お月さまは毎日お顔を取り替えなさる。だからある日は面長美人。りりしく冴えた夜の短刀。そしてある日はまんまるな、赤子の掴む乳房となった。またお優しいあの方は、月に一度は喪に服す。夜のとばりはあの方の、喪服のさしゃのベールとなった」
幼い双葉はまだ見ぬ月に憧れました。特に夢見たのは満月。その溢れんばかりの輝きは、それはぬくもりそのものでしょう。
「お月さま、お月さま、お月さま」
だから双葉は祈ります。たくさんたくさん亡くなったいきもののために、優しい月は、悲しみの地平線に沈んでしまっているのでしょうか。
「だけどお月さま、まだぼくは生きています」
足元の大きな岩も。黒い雨でぼろぼろになった身体で、小さな双葉を育んでくれています。
と、「もう止めなさい」と岩がふるふる震えて言いました。
「お月さまは世界のものだ。こんなに汚れた大地の、ちっぽけなわしらに、何が出来るというだろう。そもそもわしは、こんな身体でお月さまとはとても会えんよ」
双葉は少し黙ってから、言いました。
「お月さまに治してもらえばいいんだよ。ずっと昔はそうだったんでしょう?お日さまが沈めばお月さまが昇る。お月さまが沈めばお日さまが昇る。ぼくらはいつだって暖かく見守られていた。ぼくらには光が必要だよ。でなけりゃ凍えてしまう、もう」
双葉は寒くて震えました。夜の女王は冷酷です。双葉は一生懸命呼吸をしますが、女王から奪えるものは乾いたちりだけ。
あきらめてしまえ、あきらめてしまえ。もうこれ以上、養えるいのちなどありはしない。
「お月さま、お月さま、お月さま」
それでも双葉は呼びかけつづけました。
「お月さま、ぼくらにはあなたが必要です」
さて、ここは真くらな宇宙です。清らな静寂と底知れぬ闇。ここに、小さな月のかけらが漂っておりました。はるか昔には月の一部でしたが、あるときぼろりと崩れて落ちて、ほったらかしにされた月のかけらです。
かけらは宇宙の暗闇の中で、汚い薄膜に覆われた地球を見ていました。
そこからかすかに、声が聞こえてくるのです。
お月さま、お月さま。
月のかけらがはっとするほど、痛々しくかすかな声でした。
「お月さま、お月さま」
月のかけらは自分の母たる月に呼びかけました。「地球から、あなたを呼ぶ声が聞こえます」
軌道をゆっくり転がっていた月は、のろりのろりとかけらを見、ゆっくり首を、振りました。
かけらは何も言えません。あの地球。みににく病んだ黒い惑星。月にまで見放され、壊れたまま。
月のかけらはよっこらしょっと、惰性と慣性に逆らい動き始めました。月は哀しい目でかけらを見送りました。
「いってらっしゃい、優しい子」
月の声はがらがらにかすれていました。そうです、病んでいるのは月も同じなのでした。
よっこらしょ、よっこらしょっと、月のかけらは地球に向かいます。
「よっこらしょ、よっこらしょ」
いつのまにか口に出して、一声毎に一歩ずつ。
「よっこらしょ、よっこらしょ」
行く手は恐ろしい毒の大地です。しかしそこには、かすかないのちが待っているのでした。
なんだか長い夜ですね 暗くて広い空の中
月はただ今行方不明 どんなに長く待ったでしょう
そろそろ重い腰を上げ 見えない足を動かして
むかえにむかえにゆきましょう
よっこらしょ よっこらしょ 私に足などないけれど
よっこらしょ よっこらしょ 私に光はないけれど
……「お月さま」
地上では、幼い双葉が息絶え絶えになりながら祈り続けていました。双葉の足元では、年老いた巨岩が、死んだように黙りこくっておりました。
岩、だけではありません。弱々しい双葉の祈り以外、生身の声などいったいどこにあったでしょう。
「……お月さま」
そうして双葉は空に見ました。
暗くて冷たい夜を、あたたかい黄金色で満たす、まあるいまあるいお月さま。
「……岩のおじさん……満月だよ」
答えは返りませんでした。双葉は月の美しさに、ぽたりと涙をこぼしました。それは、双葉の持つ最後のうるおいでもありました。
「ありがとう、お月さま」
そう言いながら双葉は、ひび割れた岩の上で、その短い一生を終えたのでした。
なんだか長い夜ですね ひとりじゃ寒い空の中
どっちを向いてもまっくらで 誰の瞳も光りません
誰かのいのちが燃え尽きる かすかな炎が道しるべ
昼の半球へゆきましょう
よっこらしょ よっこらしょ 私に足などないけれど
よっこらしょ よっこらしょ 私に光はないけれど
呟くように歌う月のかけらも、今はもうちりにまみれ真っ黒です。息を吸うたび汚れた空気が、かけらの身体をおかします。
地上が見える高さで、かけらはただそこにいました。かけらは月ではありません。双葉が望むように、満月のぬくもりを与えてやることは出来ません。
「よっこらしょ、よっこらしょ」
だからかけらは成すすべもなく、双葉が命つきるのを、ただ見ているだけでした。
よっこらしょ よっこらしょ 私に光はないけれど
……けれど、このように黒く汚れたちっぽけな月のかけらにも、熱い涙があることを、かけら自身初めて知ったのでした。
なんだか長い夜ですね 月も光らぬ空の中
どっちを向いてもかなしみで はりさけそうになるけれど
愛するものがいたならば せめて夢でも見られたら
涙も救いになるでしょう
よっこらしょ よっこらしょ 月をさがしにゆきましょう
よっこらしょ よっこらしょ 私に光はないけれど
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