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 睡魔の波が前頭葉を濡らしては引いていく。幾度目のものか判別つかない寝返りを、心の中で掛け声をつけてする。と、その音のない声で、また意識は浮上する。
 薄く目を開ける。眠れないというその事実が余計に苛立たしく神経に引っかかる。猫の爪のようなそんな引っかかりにまた頭は冴ゆくばかりだ。
 有里はダブルベッドの上で身を起こした。うつむいて目をつぶると、頬の辺りで髪が鬱陶しい。身体は休息を求めているようなのに、どこかで活動に飢えている。
 唇がかさかさに乾いていて気持ち悪かった。手の甲で、口端から頬へかけて軽く撫でると、肌のざらりとした質感。
 身体をずらし、足を下ろしてスリッパを引っ掛けた。音を立てないように気を使いながら、開け放たれたままの寝室から、居間へと入る。
 ソファで夫が寝ていた。隣に人がいるから寝付けないのではないかと、気を使ってくれたのだった。
 明日、いや明後日には、病院に行って軽い睡眠薬でももらってこよう。新しく買った寝台で眠れないのは、かわいそうだ。
 居間を抜けて台所へ行く。洗いカゴに入れっぱなしだったグラスをひとつ、取って蛇口をひねる。
 なんだか本当に蛇が絞られたような、そんな感じの音がして、細い水の糸が滴った。
 蛇口は固い。回している最初のうちは、かすかな量しか出ないのだけど、油断すると一気に四方八方に飛び散る。
 適量を。静かに。最近やっと慣れてきた力の入れ具合で蛇口を握りながら、有里は水を見つめた。
 透明だった。最後の一滴だけが、小さな音を立てた。
 グラスに唇を押し当てると、さっと冷えた感触が伝わる。身体を驚かせないよう、まず一口。それから、また一口。
 飲みきって、濡れた舌で唇を潤した。また、居間へ戻る。
 ソファの上では夫が寝ていた。
 有里は、ソファの背の部分に組んだ両腕を預け、横たわる彼の顔を見つめた。
 高野千尋という、彼は。
 コウノユウリ。…そして、自分の名は。
 腕をほどいて、一本をそっと伸ばした。千尋の前髪に触れる。しばしその感触に昔を思い出し、それから、悪戯心で、一束をくいと引っ張ってみた。
 千尋は喉の奥で何かを訴えて、居心地悪そうに少し姿勢を変えて、そして寝つづけていた。
 起こそうとしたわけではないが、多少不満足な自分に気づいて、驚く。
 …これでいい。疲れているのだ。起こしてはいけない。適切な判断。適量の力で。静かに。
 もう一度、髪を引く。

 ―――どうして、結婚したの?
 ―――好きだから

 いつだったか、他愛もない質問を繰り返していたとき、茶化して、そんなふうに聞いてみた。千尋は、生真面目に答えた。嬉しかった。
 だけど、「好き」の一言ですべて片付いてしまうのね、と、心のどこかで冷めた自分が呟いた。
 それがすべての答になってしまう、うそ、愛情は何かへ到達するための手段でしかないのに。
 ねぇ、千尋?
 ソファの背もたれ越しに、有里は遠い伴侶へとささやいてみた。
 愛に限りがないなんて、うそ。

 ―――好きな動物は?
 ―――猫かな
 ―――好きな音楽は?
 ―――特に、
 ―――好きな言葉は?
 ―――うーん、
 ―――好きな色は?
 ――――むらさき
 ―――好きな人は?
 ―――有里

 尋ねた自分の残酷と、答えた彼の罪悪を、覆い尽くして余りある愛の言葉が、無償という建前で何度も繰り返して与えられる。
 起こさないよう、そっと手加減をして髪を引く。また唇が乾いてきた。起こしてはいけない。濡れた言葉も口付けも、所詮はひとつの手段でしかない。
 ……それなのに、こんな夜は、溺れそうになる。
 恋は、そして愛も、ああ、なんて盲目。

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