導入された当初は画期的だった箱庭療法も、今ではすでに惰性と倦怠という二つの大車輪に引きずられているに過ぎない。美里はさしずめ、その車両の行く先も知らされていない下っ端の石炭夫だ。
ある患者(14歳女児)は、心理学教本に載せてやりたいような世界をそこに作り出す。川の向こうの怖そうな魔女は、少女の母親を暗示するものだ。そう丁寧に諭してやると号泣した。扱いやすい患者ではある。ただ、あまりにも率直な比喩に、自己暗示を疑うことも多々ではあるが。
また一人の患者(39歳男性)の作る箱庭は、まるで幼稚園児の描く「煙突と天窓のある赤い屋根のおうちと、それと同じくらいの大きさのある巨大チューリップの絵」のようだ。とても、とても牧歌的で、もう少し愛嬌さえあれば、女子高生御用達のステーショナリーグッズにも出来そうだ。先輩の生島女史は、そんな平凡さの中に彼の抱える傷があると言うけれど、美里にはそう思えない。たとえば自分だって、おままごとのような箱庭のセットを手渡され、好きなように作ってごらんと言われれば…そこには彼の箱庭と非常に似通ったものが出来ると思うのだ。つまり、想像力の欠如?
あるいはまた一人の患者(51歳男性)。彼はいつでも、決して庭に手をつけない。与えられた時間中ずっと、キットを前にぶつぶつ独り言を言っている。それを「独り言」と見なすなかれ、と、これも女史に注意されたことだが。
「…どうして作ってみようとしないのか、教えてくれますか?」
だから美里は、このとき男にそう尋ねてみた。白い机の上には手付かずの箱庭。二つ向こうの長机では、22歳の青年が、自分のも人のも手当たり次第に絨毯の上に叩き落し、騒ぎを起こしている。…いつものことだ。
美里の問いに、男は顔を上げた。早口で言った。粘着質のよどんだ視線で見つめられ、美里は言いようのない嫌悪を感じた。
「初めに神は天と地を造り給うた」
「…聖書ですか?」
キリスト教については、一般教養の科目で学んだことがある。それが創世記の一文であることはすぐに分かった。熱心なクリスチャンというわけでもなし、ことあるごとに信じてもいない神やら聖書を持ち出すのは日本人の悪い癖だと思う。
「地は、これです」
男が青いビニールで覆われた箱庭の土台を指差した。
「でも、天がない」
だから火曜日が始まらない、いいや月曜日が終わりさえもしないのかと美里は苦笑した。何様だと言うのだろう。神でもなったつもりでいるのか。
あなたは神様なんですか?
そう尋ねようかどうか迷っているうちに音楽が鳴った。これで今日の時間は終わりだった。男の内心がどうあれ、現実では神の初めの七日間など、当の昔に過ぎ去っているのだから。
詰め所に戻ると、生島女史がお疲れ様と話し掛けてきた。
「あの箱庭キットですけど、まがいものの空も追加出来ません?」
美里はお茶を淹れながら今日の話題を提供する。男との一幕を語ると、女史もまた苦笑したが、すぐ真剣な顔になり、その男の病についてのいくつかの可能性について講釈しだした。
美里はこの女性を尊敬していたしある程度の好意も持っていたが、どうしてもここまできめ細かに仕事に当たることが出来ない。ほどほどに気を抜いてやっていく術を覚えねば、こちらの神経が変になりそうなのだ。
そんな美里の嫌気を感じ取ったか、女史はいつもより早めに話を切り上げた。
「…そう言えば、大沢さん、」
名字を呼ばれ美里は少し身構えた。湯気の立つ湯飲みをテーブルに置き、気取って応える。「はい、なんでしょう?」
「真壁さんの件、どうなってるの?」
「別に。これと言ってどうも」
「プロポーズされたんじゃないの?」
美里は黙秘権でもってそれを肯定した。安物の茶葉で淹れた煎茶を啜る。
「仕事続けることも可能なんでしょ?…欲しいって言ってくれてる人がいるうちが花だと思うけど」
美里は無言で湯飲みを持って立ち上がった。流しの前に立ち、他の誰かがほったらかしにしたままのいくつかのカップと共に水で洗う。お湯が出ないのだ、ここは。
美里は今年29になった。女史の年齢ははっきりとは知らないが、独身であることは確かだ。
先を行くものの忠告であるはずの言葉には、時折孤独な中年女のやっかみが混じり、それが美里を苛立たせる。女史が可哀想になる。なぜだろう。
カップの端に淡いピンクの口紅が付着していた。美里はそれも、スポンジで丁寧に水に流した。
次に真壁と会う約束をしているのはいつだったかとぼんやり思い、女史が去った後手帳で確認すると、それは今夜だった。
仕事着を私服に着替えただけ。そんな出で立ちでレストランに現れた美里を見て、真壁は不愉快そうに一瞬眉を寄せた。
ねぇ、何様だと思ってるの。
それを口に出すのも億劫で黙っていると、真壁はしばらく仕事と景気と政治とネコの話をしていた。彼は医薬品の大手製造業元勤めだ。
食事が終わる頃、彼は言った。
「化粧を直して来なかったんだね。それだけ打ち解けてくれてるってことかい」
心理分析が必要なのは自分たちの方かもしれない。美里は、まるで今夜自分がそうすると以前から知っていたかのように、銀色の指輪を薬指にはめた。ウエイターが運んできた食後のワインがグラスの中で、一つの気泡を浮かべて消えた。一つの世界が弾けて消えた。
翌朝は晴れていたが寒かった。いつも逃してしまう不燃ゴミの日だと急に気づいて、夜が明けてから慌てて帰宅した。溜まったペットボトルや発泡スチロールを一つにまとめ、それを詰めたビニール袋を持ってアパートを出る。電柱の上で様子を伺う数羽のカラス。週という概念を持たぬ鳥は、生ゴミの日を記憶していないらしい。
薬指の銀色について、生島女史や他の同僚に何を言われるか想像し気が滅入った。週の半ばに婚約などするものではない。美里は空を仰いでため息をついた。冬の空気に澄んだ空は、青く高く天を覆っていた。その端をつまんで持ち上げ、覗き込んで笑う、粘着質でよどんだ視線と目が会った気がして、美里はぞっとした。
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