その棘で この胸を刺せ野バラ 恋に落ちる前に
夏の花が息絶え、灰色の雲が薄く広く空を覆いはじめた頃だった。せみの声が、引いて行く潮のように遠ざかり、人々の小さなささやきとつぶやきに取って代わられた。雑草が暗い色を帯びる野道に、せみのなきがらがぽつりぽつりと落ち、それから、消えて行った。
そんな季節の移り変わりと同じに、あの大きな戦争もようやっと終わりを迎えたのだ。木枯らしに先立って、この山間の小さな村に、だから一人の少年が帰ってきた。
遠い寒い北の国からの長い旅。懐かしい故郷。それはまだ、太陽が地の底で身支度を整える時刻だったので、少年は誰一人にも会うことなしに、駅から一本の坂道をゆっくりと歩いた。坂のてっぺんには、少年が兵隊になる以前、毎日通っていた小さな学校があるはずだった。しかし、その場所にたどり着いた少年を迎えたのは、焼け跡。…焦げた木材の小山。
少年はぼんやり辺りを眺め、その山に近づいた。あの教室も、机も、すべてが黒光りする爆弾を、いっぱいに広げた両腕に受け止めたのだろう。……こなごなだった。
少年はひざをつきうつむいて、十の指が汚れるのにもかまわず、目の前の木切れを拾っては捨て、拾っては捨てた。無駄なことだと分かっていても、手に取るもののその中に、思い出の残骸を見つけ出したくて。
それはかつて机に刻んだ誰かの名前。もっとも、たとえ少年の探すものが見つかったとしても、小さなナイフの先っぽで削った小さな名前は、到底読めたものではない。
それでも、少年は探してしまうのだった。ほかの誰に読めずとも、少年にだけは読めるのだから。
少年が、そんな空しく、かつ真摯な行動を繰り返しているうち、その場所を、一人の少女が通りかかった。裏の菜園に行く途中だった少女は、少年の、たった一人の恋人だった。少年の姿を認めると、大きな目をさらに大きく見開いて、駆け寄ってくる。少女は、唇が恋人の名をつむげる幸せに気づくより先に、少年の背にすがり付いた。
「無事だったのね、帰って来てくれたのね、」
少女は涙をぽろぽろ流した。少年は立ち上がって、少女と向かい合った。それで初めて、いつのまにか出ていた朝日を瞳に映した。眩しいのと、恋人に笑いかけてやりたいのとで、少年は目を細めた。一文字に固まっていた唇を、ぎこちなく和らげ、少女を抱きしめてやった。少女はいっそう激しく泣きながら、「いつ復員していたの。もっと早くに教えてくれていれば良かったのに」と、少年を責めたりもした。それから二人一緒に、少年の家へと向かったのだった。
途中、少年は、この故郷で一番親しかった友人の、たった一人の弟と出くわした。その友人は、少年と同い年。生まれたときから病弱なこの弟のため、早くから医学の道をこころざし、それで徴兵を免れたのだった。
弟は、少年を見てひどく驚いたようだ。こんな小さな街にも伝わってくる風の噂で、少年の所属していた小隊が全滅したと聞いていたので。
彼は、診療所で見習として働く兄に、とにかく早くこの朗報を、と、足早に去っていった。
少年は、また恋人と二人きりになって、そして帰宅した。家族の喜びの涙が、少年を包む。少年は、もう一体何を言えばいいのかわからず、ただ胸をつまらせるばかりだった。寄り添って離れない恋人のぬくもり。少年はあらためて、自分が生き延びたことを、生きてこの人たちの元へ帰ってきたことを、実感した。
そして、そのような実感と一緒に、少年は痛みを感じた。それは、生の喜びに燃える心臓を、深く貫き、決して抜けない棘だった。
その夜、少年の家ではささやかながらの宴会が開かれた。喜びと驚きの声は、いつか、少年と少女の祝言の話題へと移っていく。
そんな中、時刻遅れでやってきたのは、件の友人だった。
町外れの診療所から、どれほど急いでやって来たものか、弾む息の間に、何度も何度も少年の名前を繰り返し、それから少年の肩を強く抱いた。
「お帰り。…無事で良かった」
少年は少しだけ微笑んで、ただいま、と応えた。
大人たちが、大切に保存していた密造酒をちびりちびりと楽しむ間、少年と少女と友人は、戦前の思い出話に花を咲かせた。
「そういえば学校も焼けてしまっていたな。どうなるんだ?」
「しばらくは休校だろうな。なんにしても、もう俺達には関係ないだろう?」
問うと、友人は、次の春には医者になり、大きな町に行くのだという。
「医者に。…そうか、おめでとう」
「何年か向こうで勉強して、それから帰ってくるよ。弟の病気を治す薬を、持って帰ってくる」
皆がそれぞれの道に進み始めているのだった。夜遅く宴がお開きになる時分には、少年と少女の祝言の日取りが決定していた。冬を乗り越えた後の、命芽吹く春の季節と。
少女を家に送った後で、少年は友人にだけこう言ってみた。
「俺が…結婚なんかしていいんだろうか…?」
友人は、じっと少年の目を見つめ、それからほんの少し、淋しそうに笑った。
「…幸せにしてやれよ」
「……戦場で人を殺して来た。生きるために。何人も」
「忘れろ」
言い切った友人に、少年は思った。一体こいつは俺の罪をどこまで知っているのだろう。知りつつこうも、笑っているのか。…そう思った。
「まぁ、しばらくは身辺整理で忙しいだろうが、落ち着いたらうちにも顔を出してくれよ」
そんな友人の優しい誘いを、ぼんやりと聞いて。
「行かない。…
お前のところに行くには、野ばらの垣根を越えなきゃいけないから」
そうして少年は、友人と別れた。家へ帰り、床につき、少年はむせ返るような野ばらの芳香で目を覚ました。夢は変わることなく、悪夢だった。
それから一ヶ月も経たないうちに、本格的な冬が小さな町にやって来た。到来する白い雪は、しかし人々の凍てついた心よりは、まだ少し、温かい。
降りしきる雪の中、ある日少年は少女と、町を歩いていた。少年の右手は荷物を抱え、左手は少女の右手と繋がっている。そうしていれば、寒くない、と少女が言うので。
闇市での砂糖の価格について愚痴をこぼしていた少女は、唐突に少年が立ち止まったことに驚いて、彼を見上げた。
少しずつ、少年の左手から力が抜けてゆく。最終的に離れてしまった左手を見つめて、少女はどうしようもなく途方にくれてしまった。
「どうしたの…? ねえ…」
少女は気づかなかったけれど、少年は、じっと、行き交う人々の中のたった一つの人影を見つめていたのだった。ほどけてしまった指にも気づかず、自分と同じに大量の荷物を抱え、足早に道を行く友人を見つめていたのだった。…その姿は、あの赤い野ばらの先に見える幻ではない。
「ねぇ、どうしたの…?」
自分の名前が呼ばれていることにも、頬にあたった雪が溶けて流れ始めたことにも、少年は気づかない。あの野ばらはそれほどまでに赤く、(流れ尽きない血よりも赤く!)色鮮やかに少年の心を染め上げていたのだった。
「……俺は人殺しだ…」
震える小さな声で少年は言った。
「……あなたがいてくれれば、私はそれでいいのよ」
呆然と立ち尽くす少年の頬を優しく拭い、少女はもう一度少年の手を取った。
「帰りましょう…」
帰り道の間も、ずっと雪は町を塗り替えていた。白く。今年の冬はいつになく厳しい寒さだ。戦争で焼けた少年たちの小さな学び舎も、いつしか人々の暖炉の中へと消えていった。
そしてやっとのことで、新しい春が訪れたのだ。
少年と少女の結婚式がつつましやかに行われたが、友人はそこで祝いを述べることが出来なかった。いつものように、弟が高い熱を出していたのだ。
その晩は静かな月夜だった。
少女と結ばれた親友を思いながら、もう一人の少年は、焦げた小さな木片を握り締めていた。そこに彫られたかすかな名前は、今よりももう少しだけ若く、幼くも無邪気だった時代、刻まれた思い出なのだった。
「…兄さん…?」
「…ああ、…もう頭痛はいいのか…?」
「うん、もう平気。……ごめんね、兄さん…」
少年はかぶりを振って弟に答え、暖炉に近づいた。春といってもこの夜は、病弱な弟にとって、少し寒すぎるほどだったので。
…寒い冬のせいで、燃やすものはもうほとんどなかった。少年は握っていた机のかけらを、火にくべた。思い出は、赤く燃え盛った。
もう明日には、少年はこの町を発つのだった。赤い火を見つめる少年の後ろ姿に、弟はそっと声をかけた。
「兄さんがお医者様になるお祝いに…真っ赤な野ばらの花をあげたいって、あの人が言っていたよ…」
「赤い、野ばら?」
怪訝な顔で、少年は弟を振り返った。
「それは、きっとお前が聞き間違えたんだよ。野ばらというのは、お前が思ってるようなばらの花じゃない。つまり、いばらでね、夏の頃、それはきれいな白い花が咲くんだ…」
静かな月夜だった。
もう一人の少年は、誰にも見せない、彼のためだけの手紙をしたためた。
…この冬は寒かった。冬中会えなかったけれど、風邪など引いていなかったろうか。せっかく寒い北の国から帰ってきたのにこの始末で、俺も閉口したよ。
今日、役場の人に聞いたのだけど、もう学校は建て直されないらしい。二人で過ごした日々を思うと、残念でならない。まったく、あの時間ですべてが止まってしまえば、と、たまらない。そうすれば俺が一人、戦いに船に乗ることもなかったのに。
北の国は寒かったよ。診療所で噂を聞いたらしいが、俺の入った小隊はひどいものだった。作戦ミスで仲間ともはぐれ、敵地で追われた。追い詰められた先は、今でも夢に見る。わきたつ匂いの充満した、野ばらの垣根だったんだ。あの寒空の下で、狂い咲きというに相応しいね。夢みたいにきれいだったよ、あの白い野ばらは。
数日、数週間、それとも数ヶ月か、時間の感覚もなくして、俺たちは野ばらの中で息をひそめていた。出て行けば見つかって、きっと殺される。どんなに棘が皮膚を刺しても、出て行くわけにはいかなかった。
食料は何もなかった。俺たちの身を隠してくれる野ばら。本能よりも強い投降の恐怖。それは病的な考えだったが、生き延びられたときのことを思うと、むざむざ生き恥をさらすことは、何としても避けたかった。
だから、最初の一人はあっけなく死んだ。それからじわじわと、理性や罪悪感が薄れていく。二人、三人、仲間は死んでいく。食料は何もなかった。だから、死ぬしかなかった。(…この一文を、より真実に近く言い換えることが俺には出来ない。)
俺は自分でも意外なほどしぶとく、結局最後まで、たった一人、生き残ってしまったけれど。
…野ばらの匂いだけをかいでいたよ。いつのまにか真っ赤に染まった野ばらの。何度も、何度も、垣根の向こうにお前の幻を見ていた。やっと敵兵に発見された俺は、拷問の代わりに保護を受け、それで初めて敗戦を知った。終戦が正確に、俺の発見される何日前だったのか、俺はきっと一生数えない。いったい何人が生き残っていたときだったのか、一生知りたくない。
そうして、俺は無事この町に帰ってきたんだ。
毎晩毎晩夢を見る。垣根の向こうでお前が呼ぶんだ。一人一人と死んでいく。そんな野ばらの夢を見るんだ。世界にありえない、真紅の野ばらのその夢は、それはそれは美しい。だけど同時に恐ろしい。俺は戦場から、恐怖と、胸を突き刺し一生抜けない野ばらの棘を持ち帰ったよ。
だけど、その棘でいくら傷つこうとも、俺は思う。あの野ばらをお前に摘んで来たかった。茂みをかきわけ辿り着いたあのとき、やっとしばしの平安を得たと思ったあのとき、まるで当然のようにお前のことを想った俺の眼に、飛び込んだ純白の野ばら。あの花を両手で持てるだけ持って、お前に摘んできてやりたかった。棘だけでなく、美しい花弁を。
あの野ばらを、そして船から見た紫色の夕焼けを、別の作戦行動中、命を助けた仲間の涙を、人魚が棲むという、北の海の轟きを、そういったものを持って帰りたかった。
……お前に、持って帰りたかったんだ………
数年後、友人の弟は、周囲の懸命な看病の甲斐なく息を引き取った。それは、少年がこの町に帰って来たのと同じ、冬の初めの穏やかな明け方。
友人は、だから、大きな町に行ったきりで戻って来ない。
そうして今でも、少年の戦った北の大地では、燃え立つ野ばらの花が、同じ月の見守るその中で、美しく、優しく、咲き誇っているのだった。
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