おしまいの日


 なぁごと鳴くからなぁごと名づけた。
 ゴミ捨て場で、空気穴もないビニール袋に入れられ捨てられていたから、カイロ代わりに拾った。
 使い捨てカイロぐらいの大きさで、しかし使用期限がない。
 残飯を食わせていたら、拾ったときの虚弱さはそのうち消えてなくなった。
 初めてデートに連れて行ったときアーヤは、「いやぁ、きゃぁ、可愛いっ」と叫んではちょっかいを出していたが、ノミがいるのを見てその顔は瞬時に固まった。
 二度と連れてこないでと言われたが、なぁごをポケットに入れるのはすでに癖になっていた。
 ノミだけはこちらも辟易していたので、大枚はたいて市販の駆除剤を買ってきて、激闘の末全滅させた。多分。
 なぁごはあまり鳴かない。ので、デートをしていても最後までアーヤが気づかないことも多々あった。
 気づいたときは、たとえスクリーンの映画がクライマックスであろうと怒って帰ってしまう。
 仕方がないので、アーヤの残していったポップコーンをポケットのなぁごに食べさせながら、最後まで見る。
 それからテアトルの公衆電話で、アーヤの携帯にごめんと謝る。カードの度数は見る間に減るので、いつ切れるかとどきどきする。

 アーヤは目のぱっちりした美形でナイスバディだ。
 下唇はぽっちゃりと、顔はリンゴ色、理想的ラインの額、きっと誰も文句のつけようのない造作なのだ。
 本人は二の腕の太さを気にしているようだが、あまり問題はない。
 アーヤは月に何度か家にやってきて、昔一緒に暮らしていた頃の品々を持ち帰る。
 ローリングストーンズのCDとか。
 化粧水とか、替えのストッキングとか。
 そしていつも何か忘れていく。

 アーヤとは、何か大恋愛をしたわけではない。
 幼馴染で、小さい頃は毎日どちらかの家に一緒にいた。
 思春期を潜り抜けるうちに、いつのまにかくっつくようになった。
 アーヤはいろんな意味で綺麗好きなので、何度も何度もケンカして離れてはまたいつのまにかくっついてまたケンカしてまたくっついた。
 あるときお互いに真面目になった夜があって、二人で真面目に結婚を決めた。
 もうそろそろ、若さ弾ける季節にもおさらばしなければ、と、アーヤも思った。と、言った。
 そして冷静に真面目にゆっくりと考えた結果、やはり結婚するならお互いだと思った。
 アーヤは、もしかするともっといたかもしれないが、結婚相手の候補だった3人と、付き合っていた2人と、落そうとしていた1人と、だから別れた。
 一件電話をかけるたび、「もったいない、ああ勿体無い」と呟いていたが、少なくともその夜、勿体無いお化けは出なかった。
 代わりに出たのはエリート商社マンだった。
 アーヤの候補の一人で、足が長く精悍で、男でも惚れ惚れするような外見に加え、彼はアーヤに惚れ込んでいた。
 「失礼を承知で言わせてもらいますが」と彼は慇懃無礼に言い放った。
 「どう考えても、ボクと結婚する方が美鳥さんのメリットは大きい」
 失礼と言うか、彼の座れなかった座布団の存在一つ取ったとしても、彼は正しかった。
 「それにボクは美鳥さんを心の底から愛しています」とまで彼は言った。初対面の男に愛などと言われ、背中が痒くなった。結婚を決めた夜にはさんざ連呼した言葉でも、朝になると途端に歌謡曲だった。
 「でもこの人ね、ウルトラマンを全部見分けられっのよ」
 アーヤはそう言うとけんらけんら笑い、商社マンは不機嫌になった。

 一緒に住んでいた頃、アーヤの口癖は「あー」だった。
 「あー、疲れた」「あー、落ち着く」二つにニュアンスの違いは、語尾のわずかな高低にあった。
 ほんの時折、ぽっかり口を開いて発声する、間抜けた「あー」の後ろには、「いしてる」と続いた。
 20年以上ずっと同じ気持ちでいたのだから、惰性があったことは否めないはずだけど。
 そしてその中には、メリットとデメリットがあった。
 もしかすると二人の関係は、もう終わりにした方がいいのかもしれない。
 そう暗に告げたとき、アーヤは「そう思う?」と聞き返してから、答えられないこちらの顔を手加減なしで引っ叩き、
 「私はそう思わない」と高笑いしたのだ。
 その夜、アーヤの電話を盗み聞きした。
 「私はラァブを突き通すよ」
 アーヤは女友達に向かってそう宣言していた。
 だけどアーヤ。友達にそう宣言するほどに、身構えるその姿勢は、20年間で初めてだ。

 なぁご、とポケットの中から音がする。
 アーヤは綺麗に整えた爪をぴっぴっと伸ばし、指差し確認をしていた。
 忘れ物がないか、ついにチェックしているのだ。
 片手に持った紙袋の中には、固まったマニキュアや、JJ9月号や、マッチや、すし屋の割り箸が入っていた。
 「もうさよなら」
 アーヤはさばけた口調で宣言した。
 ウルトラマンを見分けられない商社マンの妻になるのだ。
 「今ね、ラブラブだから」そうアーヤは教えてくれた。「だからね、試してみる」
 そうか、そうかと頷く代わりに、なぁご、なぁごとネコが鳴いた。
 アーヤの「ラァブ」は本物だから、誰も文句はつけられない。
 それが永遠でないことは先の同居で判明したが、終わりが来たなら始めなければ。
 二人はビニール袋の中の子猫じゃない。
 「あー」
 アーヤは自分の名を呼ぼうとしているのか、口を開けた。
 「くしゅ。ネコと」
 そう言うので、ポケットからなぁごをつかみ出して差し出した。
 アーヤはその小さな前足を2本の指でつまむと、握手した。
 「じゃぁね、またね」
 なぁごとネコは答えた。

 アーヤは美形でナイスバディで大好きだった。
 仮面ライダーよりゴジラより、ウルトラマンが好きだった。
 「ラァブ」を突き通したかったアーヤは、二人の記憶を美化したりはしない。
 ネコのノミもダニもシラミも、一つだけ忘れられた男のことも、アーヤは抱えて嫁に行く。
 なぁごがポケットの中で回転でもしたのか、布地を裏から蹴っている。
 アーヤの忘れた男はネコと、これからずっと生きていく。多分。

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