高いラのシャープ


 白い指がピアノの黒鍵を愛撫した。
 高い「ラ」のシャープ。
 もう一度、初雪の白さを持つ指はしなり、澄んだ高い音を産んだ。
 高い「ラ」のシャープ。

 …下校の音楽が鳴り終わるのを、さつきは保健室のベッドの中で聞いた。帰宅してしまえば、受験勉強なるものをせずにはいられない環境なので、六時限の終了とともにここに来た。清掃当番も怠けて熟睡した。夢現の中、養護教諭が退室する音で覚醒した。やがて、下校のアナウンスが流れ、聞き慣れた洋楽が(曲名は知らない)始まり、そして終わった。
 起き上がり、身体を伸ばすと欠伸が出た。
 やたら消毒液臭いシーツから這い出て、イスに掛けてあったブレザーを羽織る。分かっていたことだが、プレスされてしまったプリーツスカートが癪に障る。
 先生はどうしたのかと少し思った。
 何も言わず帰ってしまって良いものか少し迷った。
 しかし、礼を尽くして、あの井戸端会議好きの女性教諭が帰ってくるのを待つのは、どうも割に合わないと感じ、さつきは保健室を出た。鍵も掛けないで、少々無用心だとも思ったが、思っただけだ。
 廊下は人気がなく、すっと一直線に伸びていた。
 定期テストが近い。残っているクラブ員の方が少ないのかもしれない。
 ロッカーへ歩いて行こうとしたが、ふと気が向いて、曲がるべき角を曲がらず直進した。
 一年生の教室を横手に、突き当たりの窓を目指す。
 先月塗り替えられたばかりの壁の色は不必要に白く、以前のクリーム色に比べ神経質そうで嫌いだ。病院のようだ。
 ずっと後方で、女子生徒の話し声がした。弾けた笑いが数秒間耳につく。遠ざかる。
 廊下の突き当たりで、消去法的進行方向である左へは曲がらず、さつきは窓枠に手をついた。
 目線より、3センチばかり高いところにある小窓からは、琥珀色の光がキャンバスに切り取られた絵画のように射していた。振り返ると、白いタイル張りの床に長く、長くさつきの影が落ちていた。
 数歩離れて、もう一度窓を見た。
 その方が近くで見るより綺麗だった。
 窓の外から、校外を走る車の音が聞こえた。
 ざわざわと植え込みを揺らす風の音が聞こえた。
 それから、ピアノの音が聞こえた。

 ピアノ。
 もう一度聞こえた。間違いない、ピアノの音色。
 (…高いラのシャープ)
 反射的に浮かんだ3文節。さつきは左手に伸びる廊下の先に目を凝らした。音楽室は、その先の、2階。
 音楽部が残っているのだとしたら、顧問の教諭もいるだろうか。ホームルームでの、ちょっとした係の責務を思い出し、さつきはまた歩き出した。左へ。
 廊下に設置されたスピーカーは、もう深海魚のように眠た気に、明日の朝を 待ち構えている。学校にとって黄昏は幕間の始まり。第2幕第1場は、はるか遠い。
 踊り場の窓は開いていた。外のテニスコートで、ジャージ姿の男子部員が、ようやくのろのろ片付けを始めているところだった。
 階段を上る。握った手すり。ずっとそこにある落書きはまだ消されていなかった。『ちょー、もう、愛って何さ』。
 階段の隅や、何かの影となったところは、もう一見しただけではよく見えない。油断をしてぼんやり時間を噛み潰せば、すぐに昼と夜が入れ替わるこの時間帯。
 また、ピアノの一音が聞こえた。
 高い「ラ」のシャープ。
 それを意識すると、中学校のとき同じクラスだった少女のことを思い出した。
 彼女は当時吹奏楽部で。ユー…なんとか、とかいう楽器を演奏していた。
 だけど本当は、ピアノが一番好きだった。音楽のことなど何も分からないさつきに、よくポップスを弾いて聞かせてくれた。
 私のお見舞いには花なんか要らないから。
 そう、生真面目な口調で言っていた。
 代わりにおもちゃのピアノを買ってきてね。
 …そんなもの、どこで売っているのか分からなかったのだけど。
 ピアノの音。
 長く響く、たった一音。
 いつだったか招かれた彼女の家で、グランドピアノを見て驚いた。
 学校くらいでしか、そんなもの見たことがなかった。そしてそのピアノの一音一音を、彼女は丁寧にさつきに聞かせた。
 音の名称など、さつきは「ドレミ」くらいしか知らなかったから。
 彼女は「ドレミ」をさつきに聞かせた。
 ドの音。これは大切な音。これは土の香。
 レの音。これはお母さんの怒り。
 そんなふうに一音一音。
 その細すぎる人差し指で。

 校舎の2階は、しんと静まっていた。不定期に響くピアノ以外、静寂しかなかった。薄い闇の色はまだ琥珀で、それだからさつきは、なんとか怖気づくことなく音楽室を目指した。
 体育祭や文化祭のときは、もっとずっと暗くなるまで学校に残ったこともある。用務員が回ってくる時間帯も把握している。渡り廊下の向こうの校舎の、漫画研究部の部室にはまだ煌々と灯りがついているし。
 たとえ、「何か」出たとしても…
 高い「ラ」のシャープ。
 その音の余韻を打ち消すためだったか、さつきは勢いよく音楽室の扉を横に引き開けた。
 一瞬、グランドピアノのイスの横に、中学校の制服を来た少女の姿を錯覚した…。
 しかし、それは錯覚だった。音楽室は無人だった。がらんとした教室。グランドピアノ。少し離れて、乱雑に揃えられた机とイス。はがれかけた、床のタイル。
 …ああそうだ、彼女は、たとえそれが幽霊でも何でも、こんなところに来やしない。彼女は死んでなんかいない。あの頃は重い病気を患っていたけれど。中学で3年を過ごす間に病は癒えて、元気になって、違う高校に進学したのだ。
 ただ、ピアノは止めた。
 今彼女は違う高校でバンドを組んで歌を歌っている。
 そう、人づてに聞いた。
 …さつきは音楽室のグランドピアノに近づいた。蓋が開いていた。音楽部の誰かが閉め忘れたのだろう。壁の8割方を埋める大きな窓から、西日の最後のひとさしが今にも沈没しそうに射していた。

 さつきは鍵盤の上に手を置いた。
 人差し指で、ゆっくり、確かに、黒鍵を沈ませる。
 高い一音が静寂を破って、防音された音楽室に響いた。

 ド。土の香。
 レ。母の怒り。

 高いラのシャープ。

 ―――――――――――張り詰めて、途切れる吐息。

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