竜はもう何万年もひとりだった。
彼はダイヤモンドを海色に染めたうろこを持っていた。
うろこは全身を覆い、両のまなこだけはぽこんと開かれていた。
竜はもう何万年も食べていない。
土の中にいる虫けらの甲羅。そんな乾いた黒色のまなこで、ぐるりぐるりと世界を見渡す。
竜がいるのは高い崖の上。下には、絶え間なく荒れる大海原。波が砕く岩に白い泡が飛び散った。
尾っぽの先には、森があった。
背中には時折ぶーんと羽虫がたかる。もう何万年も後ろを振り返ってはいないけれど、それだから多分、まだ森はあるのだろう。
彼は森のことを考えない。もうずっと昔には、大勢の仲間と共に、ずどーんずどーんと木々を揺らしながら、森の中の獣を食らった覚えがある。
彼と同じくうろこを持った、小さな魚も食べたろう。
しかし竜は、もう食べることも忘れてしまった。
口を開け、あごを動かし、歯で裂き、砕き、すりつぶし、そんな方法はもう忘れてしまった。
肉が喉を通る感触も忘れてしまった。
満腹になって、木漏れ日の中何も畏れるものなくまどろむ幸福も。
竜は、もう、何万年もうつらうつらとまどろんでいるようで、反対に、ずっと頭が冴えているようでもあった。
彼の何万年閉ざされない目には、何万年分の目やにと一緒に、何万年分の海が封じられているようで、反対に、彼自身が海や空や鳥などすべて光が反射し映し出す像を拒んでいるようでもあった。
そんな具合に竜は生きてきた。
そしてあるとき、それはたったひとりで何万年生きたその後、竜は見た。
何万年ぶりかに世界を見た。
はるか彼方、空と海を分かつ場所から、一匹の雌の竜が彼に向かって泳いでくるのだ。
それは遠い遠い昔、彼が愛した娘の竜だった。
彼は娘をもっとはっきり見るために、一度まなこを閉じようとした。
出来なかった。
彼は娘のもとに、自分から泳いでゆこうとした。
出来なかった。うろこの下の筋肉はぴくりともしない。
彼はせめて娘に、一声大きくうたいたかった。
しかし出来なかった。彼の喉はかすれた音さえ、その身の内から押し出しはしなかった。
彼はまるで岩の一部になったかのようだった。もしかすると、実際、そうであったのかもしれない。
何万年孤独だった竜は、ただ見開いた瞳で、彼方の娘を捕らうだけだった。
彼は娘を待ちつつも、娘との距離ほど遠い時間の向こうで、彼をひとり残した仲間のことを思い出す。
数万年忘れていた記憶は、その娘とて彼から奪い去るものだったに違いない。
竜は思い出す。
仲間たちが地に崩れ、動かなくなったことを。彼の愛する娘もまたそうだった。
そんなふうにして皆去り、そんなふうにして竜はひとりになったのだった。
竜は海の中、ゆっくり自分に近づいてくる、いとおしい娘の姿を見た。
竜はもう何万年もひとりだった。
しかしあの娘が、ここまでたどり着いてきてくれたなら。
竜は数万年ぶりに祈りを覚えた。
数万年ぶりに昨日を思い、明日を思った。海は変わらず、荒れている。
数万年ぶりに時を数える竜の世界で、今まさに天頂から零れ落ちかけているのは太陽であったが、竜は気づかず、娘を待ちつづけていた。
その間に空の炎、世界の心臓は水平線へと手を伸ばす。
炎の燃えかすは空を染め始め、ゆっくりとしたその速度は、しかし竜の娘が泳ぎきるよりも速かった。
鮮やかな緋の色が、竜の見る西の空を染め上げ、そして炎は、彼方の海と、娘を焼いた。
竜は見た。
娘がいない。真っ赤な海のどこにも、娘の竜などいやしない。
幻であったか。何万年もの時間が見せた、それは亡霊であったか。
竜は咆哮した。数万年ぶりに声を出し、腹の底から唸りをあげた。
みしみしと鳴る身体を伸ばして、竜は立ち上がった。
彼が彼である証とあらんばかり、竜は長く、長く、絶望の唸りをあげた。
そして竜の見る海は涙で歪んだ。歪んだ視界で、竜はもういない娘と己の悲しみをしかと見据えた。
ぼろぼろと涙が波しぶきを上げて海へと落ちた。
今竜は、ひとりだった。
否。
竜は咆哮を止め耳を澄ました。聞こえないか。聞こえる。
それは実際、波の音だったのだが、竜にとっては疑いなく、仲間の呼ぶ声、唱和の歌声だった。
竜は一歩、二歩と進み、崖の下を覗き込んだ。
海。そこには絶え間ない波のうねりがあり、それは彼にとっては疑いなく、うろこだった。竜の海色のうろこだった。
夕日が射す前に行かなくてはならない。沖のほうから、波をひとさしごと染める赤い光が、ここまでたどり着く前に、行かなくては。
あのいとおしい娘も、数限りない竜の群れの中にいるに違いない。
竜はためらいなく崖のふちから海に飛び込んだ。
そこではもはや竜のうろこは、海の中で波と溶け合ったものか区別がつかない。
そうしていつか、世界を焼く火は、孤独な竜がいた崖の下まで到達した。
海はもはや赤一色だった。
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