| 生没年 | 661〜701年 |
| 父・母 | 父:天武天皇(壬申の乱をおこした人 有名人) 母:太田皇女(天智天皇(中大兄皇子)の娘 妹の持統天皇は有名人) |
| 兄弟 | 同母弟:大津皇子 異母兄弟:草壁皇子ほか多数 |
| とっても簡単な 略伝 |
天武天皇(この頃はまだ大海人皇子)と大田皇女との間に生まれる。2年後、弟の大津皇子誕生。程なく母没する。壬申の乱後、伊勢斎宮に任命され伊勢へむかう。687年、父天武天皇崩御。同年、謀反の罪で大津皇子死亡。伊勢斎宮の任を解かれ帰京。701年、没する。 |
| 万葉集 | ・わが背子を大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露にわが立ち濡れし ・二人行けど行過ぎ難き秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ など |
| とっても勝手な 感想 |
この人は、余り有名じゃないですね。でも、昔からけっこう好きな人です。イメージ的に、はかない感じがするのね。(自分に無いものを求めてしまっているようだ) お父さんが亡くなって、その後継者争いで弟が殺されてしまうんだよね。昔はよくあったことなんだろうけど万葉集の歌が泣かせるなーと思う。伊勢斎宮の任を解かれたときは、25歳。亡くなったのは40歳。その間、幸せじゃなかったのかもなーと勝手に同情してます。長岡良子さんの『夢の奥城』、里中満智子さんの『天上の虹』に出演してます。 |
| 生没年 | 663〜687年 |
| 父・母 | 父:天武天皇(壬申の乱をおこした人) 母:太田皇女(天智天皇(中大兄皇子)の娘) |
| 兄弟 | 同母姉:大伯皇女 異母兄弟:草壁皇子ほか多数 |
| とっても簡単な 略伝 |
天武天皇と太田皇女の間に生まれる。程なく母没する。心身容貌に優れ、学問を好み、大きくなってからは武を好み、剣に秀でていたとのこと。(要するに、顔が良くて頭も良くて、スポーツ万能という事ね) 父、天武天皇の信頼も厚かった。しかしその為、父天武崩御後、後継者争いにて謀反の罪で捕らえられ死亡。享年、23歳。 |
| 万葉集 | ・ももづとふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ |
| とっても勝手な 感想 |
この人は、前に書いた大伯皇女の弟君です。大津君は出来が良すぎたのね、きっと。だから、殺されちゃったのね。でも、この人を陥れたのはお父さんの正妃の持統天皇なんだけれど、持統天皇って大津君のお母さんの同母妹なんだよね。うーん、権力争いってシビア。お母さんが生きていたら、天武の正妃はお母さんだったんだし天皇にもなれたかも。殺されそうになった時、姉の大伯に密かに会いに行くんだけれど、悲劇的だよね。悲劇的なところが作家の心をくすぐるのか色々マンガ・小説に顔を出してます。里中満智子さんの『天上の虹』、長岡良子さんの『眉月の誓い』に出演してます。 |
| 生没年 | 640〜658年 |
| 父・母 | 父:孝徳天皇 母:小足媛(阿部倉梯麻呂(左大臣という偉い人)の娘。) |
| 兄弟 | なし |
| とっても簡単な 略伝 |
有間皇子6歳の時に父が孝徳天皇として即位する。しかし、天皇に力はなく、政治の采配は中大兄皇子が行っていた。その後、孝徳天皇と中大兄皇子が対立するも結局中大兄皇子が勝ったような形で、父孝徳は失意のうちに654年崩御。有間皇子は、精神病を装い何年か過ごす。(中大兄皇子ににらまれていた為、保身の為でしょう。) その後、蘇我赤兄にはかられ、謀反をはかったとして捕らえられる。658年、謀反の罪で絞首刑となる。享年19歳。 |
| 万葉集 | ・磐代の浜松が枝を引き結びま幸あらばまた帰りみむ ・家にあらば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉にもる |
| とっても勝手な 感想 |
悲劇の人が続きますが、この人も若くして殺されちゃった人です。中大兄皇子(後の天智天皇)は、邪魔な人は徹底的に排除していくんだけれどこの人も排除されちゃったんですね。有馬君をはめた人は蘇我赤兄ですが、中大兄皇子の命で動いていたんだろうな―。何年も、狂った振りをしていたのにかわいそう。19歳で死んでしまった薄倖の美少年というイメージで色々な小説・マンガに登場しています。 |
| 生没年 | 645〜702年 |
| 父・母 | 父:天智天皇 母:遠智娘(大臣の娘) |
| 兄弟 | 同母姉:太田皇女 異母兄弟:大友皇子 その他大勢 |
| 夫・子供 | 夫:天武天皇 子供:草壁皇子 |
| とっても 簡単な略伝 |
645年、天智天皇(当時はまだ中大兄皇子)の皇女として生まれる。国政を左右する父に、母の実家で祖父の石川麻呂を滅ぼされてしまう。その後程なく、母遠智娘は死亡する。13歳の時、父の命で14歳年上の叔父の天武天皇(当時は大海人皇子)に嫁ぎ、5年後に草壁皇子を生む。ちなみに、彼女の姉の太田皇女も天武天皇に嫁ぎ、大来皇女・大津皇子を生んでいる。父、天智天皇死亡後、夫と弟の大友皇子との皇位継承争いの壬申の乱が起こる。壬申の乱は、夫天武の勝利に終わり、持統は皇后の座につく。夫天武が死亡後、再び皇位継承争いが起こり、持統の息子草壁皇子のライバルである大津皇子を謀反の罪で殺してしまう。しかし、草壁皇子は皇位につくことなく病死。草壁皇子の軽皇子は、まだ7歳で皇位につくには無理があり、自ら即位する。持統は、執政者として優れた手腕を振るった。697年、軽皇子(15歳)で、譲位し自らは大上天皇(上皇)として軽皇子を後見。702年、没する。享年、58歳。 |
| とっても 勝手な感想 |
とっても、ビックスケールな女性と思います。この人について詳しく知りたいのなら、里中真知子さんの『天上の虹』を読むことです。お薦めですよ。 この人って強い人とか沈着冷静っていうイメージが私の中にあります。自分の直系に皇位を託すってところがすごいね。この時代、ここまで偉大な女性っていないんじゃないだろうか。誰かに操られているんじゃなくて自分で動いているって感じの人だなーと思います。 |
| 生没年 | 921〜1005(?)年 |
| 父・母 | 父:安部 益材(もしくは保名?) 母:不明(白狐の葛の葉という伝説があり) |
| 官職・地位 | 天文博士、左京権大夫などを歴任。従四位下。 |
| とっても 簡単な略伝 |
平安中期を代表する陰陽師。生涯は、伝説・謎に満ちている。 賀茂忠行と保憲を師匠に陰陽道を学ぶ。少年時代、賀茂忠行の供で、夜間外出していた時に百鬼夜行に気付き、これをきっかけに賀茂忠行は晴明の才能に気付いたという説話が残っている。保憲から、天文道を伝えられ安部氏は賀茂氏とともに陰陽道の2大宗家として君臨する。12神将を自在に操り、様々な活躍をしたと伝えられる。晩年、藤原道長と親密な間柄であったと伝えられる。 |
| とっても 勝手な感想 |
本当に伝説だらけで謎な人なのだ、この御方は…。でも、大好き。ロマンがあるよね♪圧倒的人気を誇っていて、マンガ・小説でこの人が出ているのって数え切れない。特徴としては、みーんな美形に描かれているのだ。そう、私も晴明様は美形でないとと思います。とにかく、平安のスーパースターでしょう♪ |
| 生没年 | ?〜645年 |
| 父・母 | 父:蘇我蝦夷 母:? |
| 官位 | 皇極朝の大臣 |
| とっても 簡単な略伝 |
入鹿は、時の権力者蘇我蝦夷の息子としてうまれる。大変に頭がよかったらしく、中臣鎌足らとともに僧旻の教えを受け『吾が堂に入る者に宗我太郎(入鹿のこと)に如く者なし』と評される。643年、父より大臣位を継承すると古人大兄皇子を時期大王とする為、聖徳太子の子供である山背大兄王ら上宮王家一族を滅亡させる。このことにより、危機感を覚えた中大兄皇子らに645年儀式の最中、切られ没する。この後、父蝦夷は、自宅に火を放ち蘇我宗家は滅亡する。 |
| とっても 勝手な感想 |
あまり、詳しい資料が手元にないんだよね―、この人って。あまりに昔過ぎるのかもしれないけど。でも、マンガの影響でイメージとしては美形。で、切れ者という感じがします。戦前の教科書とかでは悪く書かれていたようだけれど再評価されてきているとどこかに書いてあった。そんなに悪い人じゃなかったんじゃないかな―と思ってしまうのもマンガの影響ですね。 |
| 生没年 | 976〜1000年 |
| 父・母 | 父:中関白藤原道隆 母:高階貴子 |
| 夫・子供 | 夫:一条天皇 子供:敦康親王・脩子内親王・び子内親王 |
| とっても 簡単な略伝 |
定子は、関白藤原道隆と高内侍高階貴子の長女として生まれる。大貴族の姫君として育ち、14歳で裳着(女性の成人式)を行い、990年1月11歳で元服した一条天皇に入内する。同年2月女御となり、10月中宮となる。妹の原子も東宮に入内し、この頃が中関白家の全盛期であり、定子のサロンも華やかに彩られる。その様子は、女房として仕えた清少納言の『枕草子』に詳しい。しかし、中関白家の栄光は長くは続かなかった。父道隆が没し、その翌年兄伊周・隆家兄弟が花山法皇を射るという事件を起こしてしまう。兄たちは左遷され、定子は落飾する。しかし、一条天皇の定子への寵愛は変わらず、再び参内することになる。かなり、藤原道長らに意地悪をされたらしい。道長の娘彰子が一条天皇に入内し、定子は皇后、彰子は中宮となる。1000年、び子内親王を出産するが、翌日崩御。享年25歳。 |
| とっても 勝手な感想 |
この頃って、後ろ盾がすごく大切なんだな―と思わせれる一生ですね。だって、すごく一条天皇の寵愛は深かったらしいけれど、道長さんとかに結構意地悪されて悲しい思いをしていたんじゃないだろうか。でも、みんな親戚なんだよ―。 とても、きれいで頭の良い人だったらしく歌人としても秀でていたらしいです。美人薄命ですね。私としては、河村さんのマンガの定子が好きです♪ |
| 生没年 | 626〜671年 |
| 諱など | 葛城皇子・中大兄・開別皇子など |
| 父・母 | 父:舒明天皇 母:皇極(斎明)天皇 |
| 兄弟 | 同母弟:天武天皇(大海人皇子) 同母妹;間人皇女 異母兄:古人大兄皇子など |
| 皇后・子供 | 皇后:倭姫王(父:古人大兄皇子)―子供なし その他の妻と子供: 遠智娘―太田皇女(天武妃)・持統天皇(天武皇后)・建皇子(夭逝) 額田王―子供なし 伊賀宅子―大友皇子(壬申の乱にて死亡) 姪娘―御名部皇女(高市皇子妃)・阿閉皇女(元明天皇) 常陸娘―山辺皇女(大津妃) 色夫古娘―大江皇女(天武天皇妃)・川島皇子・泉皇女 黒媛娘―水主皇女 道君女郎ー施基皇子 (ぬけているかも…) |
| とっても 簡単な略伝 |
田村皇子と宝皇女(のちの舒明天皇と皇極天皇)の皇子としてうまれる。のち、父田村皇子は、即位する。子供の頃、葛城氏に養育されたか? 父は、蘇我氏の後ろ盾で皇位につき、実権は蘇我氏が握っていた。天智が16歳の時に、父舒明天皇が崩御する。翌年、母宝皇女が皇位につき皇極天皇となる。しかし、依然実権は蘇我氏にあった。643年、蘇我入鹿が大臣となり古人大兄皇子を次の天皇とする為、聖徳太子の子供である山背大兄王ら上宮王家一族を滅ぼす。この事がきっかけとなり、葛城皇子・中臣鎌子らにて入鹿暗殺の計画が立てられる。 645年、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺する。(乙巳の変)入鹿の父、蝦夷は自宅に火を放って自殺した。この後、母皇極天皇は退位し、孝徳天皇が即位。天智は、皇太子となる。654年に孝徳天皇が崩御し、母皇極天皇が再び、皇位につき斎明天皇となる。天智は、皇太子のままで国政を動かしていた。この間、蘇我氏の流れをくむ異母兄の古人大兄皇子を謀反の罪で殺させる。また、658年、孝徳天皇の皇子、有間皇子も謀反の罪で絞首刑とする。661年、母斎明天皇崩御。天智は、悲しむ暇もなく国政をになう。663年、白村江の戦いで日本軍は唐軍に惨敗する。その後、筑紫に水城を築く。667年には、大津宮に遷都する。668年、やっと天皇として即位する。しかし、いままでずっとそばにいて天智を助けてきた中臣鎌子を669年、失う。この後、庚午年籍、漏剋など作る。この頃の天智の悩みは、後継ぎのことであった。息子、大友皇子の母は身分が低く、天皇となるには批判があった。おそらく天智は弟の大海人皇子と大友皇子が争うことを予想していたのではないかと私は思ってたりする。 671年、天智は46歳で没する。その後、壬申の乱にて天智の息子、大友皇子は敗れ、大海人皇子が天皇となる。 |
| とっても 勝手な感想 |
この人って、道なき道を行った人って感じですね。けっこう、強引なんだけれど、天皇が力を持つ国家を作ろうとして必死だったんじゃないだろうか。先駆者ですね。でも、けっこう殺しているんだ。色んな人を。また、自分の妃の父だろうとなんだろうと殺してしまう所がすごいです。きっと、自分の意志がしっかりあった人よね。でも、働きすぎです。すごく色んな事をしているんだもの。疲れるよね〜。私としては、河村さんの葛城くんが1番すきかな。ちょっと、ボケボケしていてね♪
でも、長岡さんの『夢の奥城』に出てくる葛城くんもすてがたい。信念をもった大人って感じですごくよいです。 イメージとしては、だーっとかけぬけた人って感じです。やっぱり、時代が必要とした人だと思います♪ |
| 生没年 | 不明(978?〜?) |
| 父・母 | 父:藤原 為時 母:藤原 為信の娘 |
| 夫・子供 | 夫:藤原 宣孝 子供:賢子(歌人として有名。大弐三位) |
| とっても 簡単な略伝 |
紫式部は、本名が不明である為ここでは式部と書きます。 式部は、幼い頃に生母と死別し父に養育された。幼い頃より優れた才を持ち父に『この子が男なら』と残念がられたという。996年、父の赴任先に同行するが2年後、帰京。またいとこにあたる藤原宣孝と結婚する。宣孝は、すでに40歳代であり、数人の妻もいた。999年、娘賢子が生まれる。しかし、1001年、結婚して2年余にて宣孝が死去する。式部は、娘を養育しながら『源氏物語』を書き始めたといわれる。やがて、『源氏物語』が評判となり時の左大臣藤原道長にこわれ、1005年より一条天皇の中宮彰子に女房として仕えることになる。彰子が一条天皇死去後、皇太后、太皇太后となったあとも式部は側近として重用されたらしい。『源氏物語』の完成時は不明だが、宮仕え以後も書き進められていたようである。没年は、不明である。 |
| とっても 勝手な感想 |
結構、この人って意地悪ってイメージありますよね。。紫式部日記が悪かったんだろうね〜。清少納言の悪口って有名だものね。確かにプライドは高い人だったんだろうけれど、紫式部の主人の彰子と清少納言の主人の定子ってちょっと時期はずれるけれどライバルだから良くは書けないでしょうね〜。友達にはなれないかもしれないけれど(なれないって)尊敬できる先生みたいなイメージがある人です。『源氏物語』は、名作ですよ〜。 |
| 生没年 | 不明(966?〜?) |
| 父・母 | 父:清原 元輔 母:? |
| 夫 | 夫:橘 則光 藤原 棟世? 子供:少馬命婦 |
| とっても 簡単な略伝 |
清少納言(本名不明)は、曾祖父・父と2代つづいた重代な歌人の家に生まれる。その環境の中で和歌・漢学などを学び才能を磨いたと思われる。若くして、橘 則光と結婚するが離別する。993年頃より、一条天皇の中宮定子に仕える。教養にすぐれた清少納言と定子のやりとりは『枕草子』に詳しい。しかし、華やかな時期は続かない。定子の兄弟、伊周らが左遷となり、定子も宮中を辞し落飾する。翌年、定子は宮廷に再び参内するが藤原道長の娘彰子の入内もあり身辺は寂しいものだった。清少納言は、一時道長方との非難を受けたが定子の代わらぬ愛情に支えられ最後まで定子に仕えた。(非難により宮中を辞したする書物もあり) 有名な『枕草子』は、996年頃から1000年頃に書かれたらしい。いつ、宮仕えを辞しか、その後どのような生活をしていたかは不明。しかし、藤原 棟世と結婚し、娘をもうけたことはわかっている。没年は不明。 |
| とっても 勝手な感想 |
この人って、紫式部とのバトルが有名。でも、紫式部の感想でも書いたけれど仕方がないところってあったとおもう。だって、定子と彰子はライバルだもの。 明るい人だったんだろうな〜。『枕草子』をじっくりしっかり読んでないので断言できないけれど『中宮様は、こんなにすばらしい人なのよ〜』と書かれているけど『私もすごいのよ〜』みたいな感じでもある。私を見て〜ってタイプだったのかな? 親友にはなれないけれど(なれないから)友達にはなれそうかも。私は、河村さんのマンガの清少納言が好きですね〜。 |
| 生没年 | 不明(695頃?〜781?) |
| 父・母 | 父:大伴安麻呂 母:石川郎女 |
| 夫・子供 | 夫:穂積皇子(天武天皇の皇子。はやくに死別) 子供―今城王(?) 藤原麻呂(藤原不比等の四男。) 大伴宿奈麻呂(坂上郎女の異母兄。死別) 子供―大嬢(大伴家持の正妻) 二嬢 大伴旅人(坂上郎女の異母兄) |
| とっても 簡単な略伝 |
坂上郎女(本名不明)は、歌の道に優れる大伴家の娘として生まれた。異母兄の旅人も有名な歌人であり、旅人の息子は三十六歌仙の一人であり、万葉集の編者の一人と考えられている大伴家持である。そうした環境の中でそだった坂上郎女も才気豊かな歌人として成長していったろう。 15〜16歳の時、天武天皇の皇子である穂積皇子に嫁ぐ。大変な寵愛をうけたようである。が、穂積皇子は結婚生活6年で死去してしまう。独身となった坂上郎女は、当時最大の実力者藤原不比等の四男麻呂と結婚する。しかし、麻呂との結婚生活は長く続かず別れてしまったらしい。その後、異母兄の宿奈麻呂と結婚。2人の娘を産む。宿奈麻呂は、その後死去する。728年、異母兄の旅人は大宰府に赴任していたが、旅人の妻が長男の家持を残し死去してしまう。坂上郎女は、大宰府に下向し旅人の妻的な役割をになう。家持に歌の手ほどきなど養育したものと考えられる。730年、坂上郎女は帰京する。娘の大嬢を家持に嫁がせ、大伴家の家刀自としての役割をになう。万葉集に歌を残した歌人としては女性では最多であり、偉大な歌人であった。没年不明。 |
| とっても 勝手な感想 |
坂上郎女は、恋多き女性だったようで万葉集に載っている歌も恋の歌が多いのだ。でもね、あちこちにふらふらという女性では絶対なかったんじゃないかと思うのです。一つ一つの恋に真剣にひたむきにむかっていったんじゃないかと思うのだ。だから、坂上郎女の歌を読んでも嫌な感じはしないの。私は、そんなに詳しくはないけれどそんな私が読んでもなんとなくすがすがしさやひたむきさを感じる歌が多いと思う。恋だけじゃなくて家のこと、子供の事にもしっかり自分の役目をはたしていたんじゃないかな。彼女の事は、長岡良子さんのマンガのイメージが大きいかも。あの中の坂上郎女ちゃん大好き♪イメージとして、ねちねちしたところのないさわやかな『いい女』って感じです♪ |
| 生没年 | 不明 |
| 父・母 | 父:古人大兄皇子 母:? |
| 夫 | 天智天皇 |
| とっても 簡単な略伝 |
倭姫は、古人大兄皇子の娘として生まれた。父、古人大兄皇子は蘇我馬子の娘法提郎媛を母にもつ中大兄皇子(天智天皇)の異母兄である。倭姫が誕生した頃は蘇我氏は権勢をほこっていたと思われる。そして、その蘇我氏の後ろ盾を持つ父のもとで健やかに倭姫は育つ。倭姫がいつ、中大兄皇子(天智天皇)に嫁いだかはわからない。しかし、その前後で大化の改新がおこり、蘇我氏は滅亡。父、古人大兄皇子も中大兄皇子(天智天皇)に殺された。もし、中大兄皇子に嫁いだ後であれば夫によって父を殺されたのである。また、嫁ぐ前でもその悲しみは大きかったと想像される。 夫である中大兄皇子との間に子供はできなかった。668年中大兄皇子が即位し天智天皇となり、それに伴い立后する。671年、天智は没する。皇后となり、天智との間は平穏だったのかはわからない。しかし、万葉集に残る歌はいずれも天智の回復を祈る歌や天智崩御に対しての切実な悲しみを歌った挽歌である。きっと、天智を心から思っていたのではないかと思われる。 天智崩御後、倭姫が即位したとの説もあるがその後の倭姫のことはまったくわからない。壬申の乱などをどのように過ごしていたのかは不明である。没年不明。 |
| とっても 勝手な感想 |
この人に関しては長岡良子さんのマンガのイメージが強いんです。「夢の奥城」といいますが。でもね、どっちにしても辛かったと思います。だって、父や家族を殺されているんだもん。自分の夫に。同時期、これまた天智に一族を殺された天智の妃で持統天皇の母遠智娘は、ショックで死んじゃってるし。やっぱりね〜、複雑だったのではないかと思われます。でも、万葉集を見ていると本当に天智を思っていたのだろうな〜という感じがします。イメージとしては「夢の奥城」に出てくる強さを持った女性ですね♪ |
| 生没年 | 不明 |
| 父・母 | 父:鏡王 母:? |
| 夫・子供 | 夫:@大海人皇子(天武天皇) 子供―十市皇女(大友皇子妃) A中大兄皇子(天智天皇) |
| とっても 簡単な略伝 |
額田王は、他に額田姫王ともいう。 父がどのような人物でどのように成長したかはわからない。近江の豪族の娘として育ったのではないか、近江の神官の娘ではないかと色々説がある。 しかし、教養深く美しく育ったと思われる。宮廷に仕え、643年頃に大海人皇子の妻となり十市皇女を生む。皇女出産後も皇極上皇に近習しており、648年に代作の歌を作っている。額田王は、恐らく大海人皇子との生活は幸せであったと思われる。が、大海人皇子の兄、中大兄皇子も額田王を見初め、大海人皇子より譲りうける形で自分の妃としてしまう。額田がどのような気持ちであったのかはわからないが、ただ流されるだけの状態ではなかったと思う。その後も重そした斉明天皇や中大兄皇子に近習し、かわって歌を詠んでいる。668年、蒲生野の薬狩の時の額田と大海人との歌は有名。671年、中大兄皇子(天智天皇)が崩御する。その翌年、皇位継承をめぐる戦い壬申の乱がおこる。大海人皇子と娘の夫である大友皇子との争いは、大海人皇子の勝利で終わる。額田は十市皇女とともに大海人皇子のもとで暮らしていたが、十市皇女が急死する。自ら命を絶ったとも伝えられる。額田が皇女を失った悲しみを詠った歌は残されていない。その後、ひっそりと暮らしていたらしく690年明日香京にて弓削皇子との歌の贈答をしている。不明没年。 |
| 万葉集 | ・熟田津に船乗せむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな ・あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る ・三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや |
| とっても 勝手な感想 |
この人ほど有名なのに謎の人っていないんじゃないだろうか? 万葉集きっての才女と思っているのよ、私は。なのにね〜。でも、だからひかれる所もあるよね。大海人か中大兄、どちらを好きだったんだろうかってたま〜に思うけれどどっちも真剣に好きだったんじゃないかな〜?なんて思ったりします。一人娘の十市皇女に先立たれて晩年は寂しいものだったんじゃないだろうか。でも、孫はいたけれどね。 イメージとしては、器の大きい教養のあるキャリアウーマンかな? |
| 生没年 | 842〜910年 |
| 父・母 | 父:藤原長良 母:藤原総継の娘 叔父:藤原良房(太政大臣・摂政) |
| 夫・子供 | 夫:清和天皇 子供:陽成天皇・貞安親王・敦子内親王 |
| とっても 簡単な略伝 |
842年、高子は藤原一族の姫として生まれた。貴族の姫として大切に育てられたことだろう。この頃、後嵯峨上皇がなくなり、藤原順子を母に持つ文徳天皇が即位し、高子の叔父である良房の娘明子が文徳天皇の女御となっており、藤原氏はその地位を確固たるものにしていっていた。高子は、そうした環境の中で後々入内を期待されていた。が、高子は、14〜15歳くらいの時に一人の男性と恋に落ちる。平安前期のプレイボーイとして名高い在原業平である。業平は、平城天皇の皇子阿保親王と桓武天皇の皇女伊都内親王の息子である。血筋は申し分ないのだが政治的には不遇であった。そして、風流を好み恋愛を楽しんでいた。高子と業平の恋は高子の家族にしてみれば許すわけにはいかなった。2人は、やむなく駆け落ちをする。しかし、駆け落ちの途中、雷雨にあい近くの小屋で休息をとっている時に、追手につかまり高子は連れ戻されてしまう。業平は高子と引き離され、髪を切られてしまう。そして、傷心を癒す為に東国へと旅立ってしまった。 高子はそれから10年ほどたち噂が消えるのを待ってから、866年文徳天皇の皇子の清和天皇の女御として入内する。高子25歳、清和天皇15歳である。二条后とも称された。御所の生活は楽しいものだったのかわからない。高子は陽成天皇・貞保親王・敦子内親王を出産する。871年には、従三位となり陽成天皇即位じには皇太夫人となり中宮とも称される。882年には皇太后となる。しかし、896年に出入りの僧との浮名を流したとして皇太后を廃されている。910年、高子は69歳で没する。942年には、皇太后に復された。 |
| とっても 勝手な感想 |
この人って情熱的な感じがします。でもね、イメージとしては「素直な人」なんですよね。気取っていない人だったんじゃないかな〜と思います。平安期の立后出来る家柄に生まれたお姫様なのに、自分の心を大事にしているように感じるんですよね。『お人形さん』ではなかったんではないだろうか?ばれなければいいのに、色々ばれてるしね。 したたかな人ではなかったんだろうな〜。割と好きです。 イメージとしては「ちょっとどじな自分の気持ちに素直なお姫様」です。 |
| 生没年 | 不明(994〜997年頃?〜?) |
| 父・母 | 父:越前守大江雅致 母:越中守平保衡の娘 |
| 夫・子供 恋人 |
夫:橘道貞、藤原保昌 子供:小式部内侍(父:橘道貞)、永覚(父:帥宮) 恋人:弾正尹為尊親王、太宰帥宮淳道親王 |
| とっても 簡単な略伝 |
和泉式部は(以下式部)は、平安期の紫式部・清少納言といった才女の中一人である。式部は、父・母が仕えていた昌子内親王(冷泉天皇皇后)の宮で育ち、橘道貞と結婚して、娘の小式部内侍をもうけている。夫の任国和泉にもくだった事があるらしいが、多くは京の父の元にとどまった。その後、弾正尹為尊親王(以下弾正宮)との恋におちる。夫道貞とは、時期はわからないが離れていた。ついでに父からも勘当されたらしい。弾正宮は、かなり良い男だったらしい。しかし、弾正宮が1002年、26歳の若さで病没する。翌年、弾正宮の同母弟の太宰帥宮淳道親王(以下帥宮)と恋に落ちる。ちなみに帥宮も良い男だったらしい。そして、この帥宮との愛は深まり、帥宮は自宅に式部を連れてきてしまう。帥宮の北の方は、この事に悲しみ自宅をでる。そうまでに盛り上がった恋だったが、帥宮1007年27歳の若さで亡くなる。ちなみに有名な『和泉式部日記』は帥宮との恋を帥宮邸に入るまでの経緯をつづったものである。その後、式部は召されて中宮彰子(藤原道長の娘)に仕える。父の官名と最初の夫橘道貞の任国和泉から『和泉式部』と呼ばれる。彰子には、娘の小式部内侍も仕えており、道長に「浮かれ女」と言われたりもしながらも楽しい宮仕えであったようだ。その後、道長の家司藤原保昌と結婚。1013年頃、夫の任国丹後へくだる。が、のちに保昌との間も冷たくなったらしい。1025年、娘の小式部内侍が亡くなる。式部はこの娘の死を嘆き、和歌を残している。晩年、式部がどのように暮らしたかは定かではないが、多くの和歌は残り、中古三十六歌仙の一人として名を残す。 |
| とっても 勝手な感想 |
情熱の歌人、和泉式部ですね。彼女は、あの紫式部にも『あの人、素行は感心しないけれど歌は良い。』といわれるほどの歌人でした。で、恋多き女性だったらしいですね。恋人も結構いたらしいし。でも、それだけ魅力的な人で、恋の駆け引きが上手だったんでしょうね〜。最初の夫にも未練たっぷりの歌送ったりしているし(^^;頭が良く、男心をわかってないと『浮かれ女』にはなれません。こういう女性にひっかかった男性ははたして幸か不幸か?私のイメージは『相手を不幸にしない魔性の女(笑)』でしょうか?好きですね〜、こういう人。 |
| 歌 | 黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき 逢ふことを息の緒にする身にしあれば絶ゆるもいかが悲しと思はぬ あひあひて物おもふ春はかひもなし花も霞もめにし立たねば |
| 生没年 | ?〜1025年 |
| 父・母 | 父:橘道貞 母:和泉式部 |
| とっても 簡単な略伝 |
小式部内侍(以下小式部)は、恋多き女性の和泉式部の娘として生まれた。小式部は、母方の実家に引き取られ育つ。(←母が実家から勘当されていたため)藤原道長にめされ、中宮彰子に母と共に仕える。小式部は、複数の公達との恋愛を重ねる。子供も何人か生んでいる。 母の和泉式部が、夫藤原保昌の任国丹後へ下っていた時、都で歌会があった。その時、藤原定頼に『丹後に使者は送りましたか?(母君がいなくては、代作の歌は頼めないでおじゃるな〜)』とからかわれた。小式部が、(またんかいっわれぇっ)と思ったかどうかは定かではないが(←いや、思ってないです、ゴメンナサイ) 「大江山いくのの道も遠ければまだふみもみず天の橋立」(百人一首) (訳:遠くにいる母から文(ふみ)なんて、もらってないわよっこのボケっ) と歌い、定頼をやりこめたという話が残っている。1025年、藤原公成の子を出産後、亡くなる。女房三十六歌仙の一人として、名を残す。 |
| とっても 勝手な感想 |
若くして亡くなってしまった人ですね〜。この人も結構身分違いの恋をしております。堀川右大臣頼宗とか二条関白藤原範永とか藤原公成とか。ああ、小式部をからかった定頼も恋人だった。母ほどの魔性は無かったんでしょうが(笑)でも、からかわれて、きっちりやり返すという逸話がかなり好きです。このイメージが強すぎて『アッカンベーをしている姐さん』なのでした(^^; |
| 生没年 | ?〜1185年 |
| 父・母・兄弟 | 父:平時信 母:藤原家範の娘 同母兄弟:平時忠(権大納言。「平家じゃないと人じゃないでおじゃる〜」といった人。) 平親宗(中納言) 異母姉妹:平滋子(後白河院女御・高倉天皇母・建春門院) |
| 夫・子供 | 夫:平清盛(激有名人) 子供:宗盛(壇ノ浦で死ねず捕らえられ近江で斬殺される1185年) 知盛(壇ノ浦の合戦で入水し、死亡1185年) 重衡(一の谷の合戦で捕らえられ、その後処刑される1185年) 徳子(壇ノ浦にて入水するも死ねず、その後出家し1213年死去) |
| とっても 簡単な略伝 |
時子は、平家とはいえ清盛とは系統の違う公家平家出身である。清盛に嫁した時、清盛はすでに嫡男重盛がいたが、時子も3男・1女の子供に恵まれる。夫清盛は優れた才覚と度量の持主であり、1153年平氏武士団の棟梁となり、1156年保元の乱、1159年平治の乱を勝利し、平の参議から1166年従一位太政大臣まで登りつめる。清盛自身の才覚もあるが、時子の妹の力添えも大きい。1160年、従三位に叙される。1171年娘の徳子が高倉天皇に入内し、従二位となる。先に大病を患った清盛とともに出家していたので二位尼と称される。1178年徳子が皇子をうみ、その皇子がわずか3歳で安徳天皇となる。妹滋子・娘徳子がそれぞれ高倉・安徳天皇の生母になったことから、1180年清盛とともに三后に准ぜられる。この頃が時子そして、平氏の幸福の頂点だった。1181年、夫清盛が病死。以後、時子は一族を後見していく。しかし、平家の衰運はとどめるすべもなく、源氏により京を追われる。娘徳子の産んだ安徳天皇を擁し、一族と行動を共にするも1185年、壇ノ浦にて平氏の滅亡にさいして、安徳天皇を抱き、「波の下にも都のさぶろうぞ」と言い聞かせ、入水する。平家一門の長、清盛の妻としてとして栄華と没落をその目で見ての最期であった。 |
| とっても 勝手な感想 |
天国と地獄を見た人だと思うのですよ。まさに「栄華と没落の平家」を生きた女性だと私は思うのだけれどどうでしょうか?元々は公家なのに「武家」って感じがします。子供はちょっと情けないのですが(^^;宗盛・徳子は入水するけれど死にきれないで、捕らえられちゃうし。平家一門の要のような女性だったのではないかと思います。彼女の最期はなんだか「平家は死しても平家」だな〜なんて誇りを感じるのですが、どうでしょうね? |
| 生没年 | 1118〜1181年 |
| 父・母・兄弟 | 父:平忠盛(白河法皇の落胤という説あり) 母:祇園女御?祇園女御の妹? 兄弟:平家盛(1149年没、母池の禅尼。源頼朝がこの人に似ているからと禅尼が命乞いをしたのは有名) 平経盛(1185年壇ノ浦にて没、敦盛パパ) 平教盛(1185年壇ノ浦にて没) 平頼盛(1184年一の谷合戦にて没) |
| 妻・子供 | 妻:平時子 子供:重盛(1179年没) 基盛(1162年没) 宗盛(1185年、壇ノ浦で捕らえられその後近江で斬殺) 知盛(1185年壇ノ浦にて没) 重衛(1185年、木津川ほとりで斬首) 知度(1182年、義仲軍との戦いにて没) 清房(1182年、一の谷合戦にて没) 盛子(六条摂政藤原基実室) 昌子(花山院兼雅室) 裕子(冷泉大納言隆房室) 徳子(高倉天皇中宮、安徳天皇生母) 寛子(普賢寺関白基通室) 典子(七条院修理大夫信隆室) その他3女 |
| とっても 簡単な略伝 |
清盛は、忠盛の長子として生まれ12歳で元服し、1153年忠盛の死によって平氏武士団の棟梁となる。1156年保元の乱にて後白河天皇方につき、乱後正四位播磨守に任ぜられ、藤原信西と結び政界へ進出を開始する。1159年平治の乱にて藤原信頼・源義朝を破り、中央政界に武門としてのゆるぎない地位を確立する。以後、急速に累進し、1166年従一位太政大臣となる。太政大臣の地位は程なく辞し、病後は出家するが、政権掌握の体制は強化していった。1164年娘盛子を関白藤原基実へ、1172年娘徳子を高倉天皇へ入内、他の娘達もそれぞれ婚姻させ天皇・摂関家の内部への勢力の扶植を図った。また、瀬戸内海航路の開発に努め、福原を中心に日宋貿易を推進した。そして、一門の公卿16人、殿上人30余人と称される全盛時代を築き、平氏政権を樹立するに至った。しかし、清盛が政権を確立するためには貴族層やその他の勢力との間に対立があった。1177年、後白河法皇を中心とした平氏打倒の陰謀をめぐらせた鹿ケ谷事件が発覚。この事件は院の近臣を処罰して抑えるも後白河法皇との対立が決定的なものとなる。その後、法皇は清盛の娘盛子が没するとその遺領を収公しようとし、息子重盛が死ぬとその知行国越前を奪うなどの挙にでる。清盛は、武力によるクーデターを敢行し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し院政を停止して完全な独裁権力を確立した。だが、平氏の武力支配が強化するのに比例して寺院の大衆勢力や源氏などの武士勢力との対立を一挙に激発させることとなる。1180年、以仁王・源頼政が挙兵すると諸国の源氏が相次いで蜂起し、清盛は福原遷都など行いその鎮圧に努めるも成功せず、全国的な内乱へ突入していく。1181年、東国追討軍の敗報がもたらされる中、清盛は熱病に苦しみながら64年の生涯をとじる。清盛が築いた平氏一門が壇ノ浦に消えるのは、この4年後のこととなる。 |
| とっても 勝手な感想 |
簡単にしたんですが、略伝がめっちゃくちゃ長い(^^; それだけ色んなことをやった人なのですね、清盛さん。はっきりいって、私はこの人大好きです!!貴族が武士なんか「へ」とも思ってない中で政権を確立したんですよ?ついでに、日宋貿易もしちゃっているんですよ?スケールがとんでもなく大きい人なんですよ!!確固たる信念があったのではないかと思います。でも、組織作りが上手くいかなかったのかなぁ?難しいことはわかりませんが、急速に発展し、その為に平氏は急速に没落しちゃったんですね。清盛さんには知力・体力・時の運があったんでしょうね〜。でも、跡継ぎには恵まれなかったのかしら? 嫡男重盛は清盛よりも早くに死んでしまってるし。貴族政権から武家政権への移り変わりの時代に現れた強い輝きをもった人だったと思います♪ |