「鎖」
”あの男はだれ・・・・?”
ジャーーー・・・
蛇口から水がいきおいよく流れ出している。それを止めようともせず女は両腕を洗面台に
つき、流れる水をぼーーっと見つめていた。
水でぬれた顔を拭うのもだるかった。前髪が額に張り付くのも気にならない。”狩り”をした
後はいつもこうだ。”狩り”の間は”ターゲット”を追いつめ、仕留める興奮と快感に酔いしれ
ていられるが、任務の後は言いようもない疲労感に襲われる。それは多分、自分の失わ
れた人間性が今の自分に課した重い鎖なのだ、と女は思う。自分は組織という名の鎖に
つながれた罪人なのだ・・・ いつからだろう。生身の人間を”獲物”と割り切れるようになっ
たのは。いつからだろう。”狩り”に喜びを見出してしまうようになったのは・・・ それは拭い
去ることのできない罪のように自分は感じてしまうのだ。だが罪を罪だとそう思える自分が
いることが救いであることも確かだ。そう思えることで組織に変えられてしまう前の自分を
忘れずにいられるような気がするのだ。今は失われてしまった記憶を持っていたころの自
分を・・・
女は名をゼノビアといった。3年前、”組織”に拾われた。それ以前の記憶はない。気がつ
くと、だだっ広い広野にぽつんと1人で立っていた。憶えているのはゼノビアという名前だ
け。それから右腕の古傷を見るたびに憶える、胸を締め付けられるような寂しさと悲しさ・
・・そして焦り。
訳も分からず、とりあえず半日ほど広野を歩いたところで”組織”の浮遊艇に拾われたの
だ。数人の男達に銃をつきつけられ、疲れきっていて思考することも抵抗することもせず
船の中へと連れてこられたゼノビアの前に、1人の男が姿を現した。男の顔にゼノビアは
軽いデジャヴを憶えたが、それはたぶん気のせいだろうと思うことにした。男はルークスと
名乗った。ルークスは前置きもせず唐突に言った。「お前は今日から組織の一員だ。ここ
で我々とともに動いてもらう。どうせ行くあてもないのだろう?」そして最後にルークスは
口の端をゆがめながらこう言ったのだ。「お前の失われた記憶を知りたいか?お前は何者
で、どこから来たのか・・・」
その日から、ゼノビアは”組織”の一員となった。彼女をここに残らせたのは記憶を戻した
いという思いや、本当に行くあてもないということだけではなかった。ルークスはゼノビアの
過去のことは結局何1つ教えてはくれなかったが、記憶がない今、自分はここに居れば
自分らしさが保てるような気がした。今現在唯一の拠り所に従うことが自分のアイデンティ
ティであるような気がしたからだ。
死んだほうがましと思うような過酷な訓練のなかで、いやというほど戦闘術をたたきこまれ
た。ゼノビアが得意としたのは弓を使った戦闘術だった。その弓を使って何人もの人間を
追いつめ、仕留めてきた。仕留めた人間の死体は決まって”組織”の人間が回収した。理
由は誰も教えてはくれなかったが、ゼノビアにはどうでもいいことだった。今日の狩りも、
そうした自分の狂った”日常”の流れの1つとして終わるはずだった。自分が獲物を仕留
め、組織の人間が死体を回収する。”おかしい”と認識することもできない日常。だが今日
の”狩り”は違った。追いつめた”獲物”の顔を見た瞬間、ゼノビアの胸に奇妙な感覚が湧
き起こった。それは最初にルークスの顔を見たときに覚えた感覚にも似た既視感。私はこ
の男を知っている・・・?
そう思った瞬間、ゼノビアは男とは反対方向に駆け出していた。この男を殺してはいけな
い。いや殺せない・・・ 心の奥底の失われた記憶が顔をのぞかせ、そう囁いていたのをゼ
ノビア自信は知らない。ただこれから行うであろう行為をためらわなければならないような
疑問が湧き起こった瞬間、身体はもう動きだしていた。そして任務の報告もせず船の自分
の部屋に駆け込み、何度も何度も顔を洗った。まるで閉じこもった記憶の分厚い殻を溶か
そうとするかのように・・・
”私はたしかにあの男を知っている・・・でも誰・・・?”
もう何度同じ問いを自分自身に問い掛けただろう。だが自身は答えを返してはくれない。
ここへきてから初めて覚えたその言いようのない焦燥感と、いつもにも増して肉体に重く
のしかかる疲労感に、もういいかげんうんざりしてきたころ、ドアの向こうで男の声がした
。「入るぞ。」ルークスの声だ。あの口元を歪めたいやらしい顔を思い浮かべてさらにうん
ざりしながらも、とりあえず顔をタオルで拭いて洗面台を離れ、ドアのほうへ向かう。おそ
らく今日の”狩り”の件のことだろう。なにせ獲物を目の前にして止めをささずに逃げ帰っ
てきたのだ。多少の罰を受けてもしかたないことだ・・・
ドアの所へ行くと、すでにルークスは部屋の中へ入り佇んでいた。毎度のことなのでゼノ
ビアは腹をたてる気もおこらず、ルークスの言葉を待つ。しかし、次の瞬間ルークスの口
からでた言葉は・・・ ゼノビアは一生その言葉を忘れないであろう・・・
「今日の狩りでお前が仕留め損ねた男・・・さきほど苦しそうだったので楽にしてやったが
・・・ 名はクルーズという。お前があいつを殺せないであろうことは我々にはわかっていた
さ。無意識にお前の無くした記憶がじゃまするだろうとね。なにせ、あの男はおまえの・・
・」
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