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私企業に17年に及ぶ勤務をし、ある転機から国際協力関連事業に延べ8年3ヶ月間携ってきた。1998年10月にアフリカのセネガル共和国から帰国し日本社会に復帰した。現在、リハビリ及び次なる社会復帰への道を模索しながら青年海外協力隊事務局嘱託国内協力員として勤務をしつつ、最終的日本社会復帰に向けた道のりを自分自身の記録として綴って行きたい。他の人にとっては、全く面白味のない詰まらないものであろうと思うが、どうかご容赦願いた
「社会復帰への道」雑記帳
NO.001 時差ボケ(1999.2.11)
NO.002 仕事と住居探し(1999.5.16)
NO.003 痛勤電車(1999.5.16)
NO.004 過去との決別(1999.5.16)
NO.005 カイロプラクティックの源流(1999.6.13)
NO.006 カイロプラクティックとは(1999.6.13)
NO.001 時差ボケ
1998年10月1日 パリ経由で成田到着。この日は雨がしとしと降っていた。これが最後になるであろう外国勤務が終わりを告げるとの思いで帰国の途についた。久しぶりに日本に戻りながらも特別な感慨は全くない。ただ事務的に入国手続きが過ぎて行く。入国はこれで何回目になるのだろうか。海外旅行を含め延べ20回くらいにはなるだろうか。今日から日本での社会復帰への道が始まった。 帰国後、体調は良いが時差ボケが尾を引く。自分の場合(他の人も同じであると思われるが・・・・。)は、日本からパリに行く時よりパリから日本に帰国する時のほうが問題となる。何故ならば、成田発12:00のAF275便でパリに向かうとパリ着17:20となる。乗機時間は、見かけ上は5時間20分間で時差が7時間あるため実際は12時間20分間である。出発日と同じ日の夕方に到着することになる。時間的経過から見れば過去にさかのぼることになり、飛行機に乗って昼食をとり、夕食をとり飛行機から降りると夕刻であることから所要半日の行程と時間的消費が同じ感じとなり、出発と同じ日にパリに到着してしまう不思議さはあるものの身体の時間を大きく狂わすことにならないようだ。飛行機の中で眠らなくても、パリ到着後に夜を迎え眠る時間が持つことが出来る。他方、パリ発13:30のAF276便で成田に向かうと翌日の成田着08:10となる。時間的経過から見れば未来に向かうことになる。乗機時間は、見かけ上18時間40分間であり実際は11時間40分間である。乗機時間は、ほぼ同じ12時間でありながらも、パリを発ち昼食をとり夕食をとらずに朝飯をとって朝の成田に到着する。半日間の行程で、パリを昼に発ち成田に朝到着する不自然な時間的経過が身体の時間を狂わすのであろう。昼食をとったら眠りをとり起きて朝を迎える不自然さが身体に馴染まないのであろうと思うか。 ということで、今回も結局、日本に戻ってから真夜中に目が覚めることが数日続いたのである。時差ボケの解消がまず最初の日本での社会復帰の第一歩となったというお話しです。
1998年10月1日 パリ経由で成田到着。この日は雨がしとしと降っていた。これが最後になるであろう外国勤務が終わりを告げるとの思いで帰国の途についた。久しぶりに日本に戻りながらも特別な感慨は全くない。ただ事務的に入国手続きが過ぎて行く。入国はこれで何回目になるのだろうか。海外旅行を含め延べ20回くらいにはなるだろうか。今日から日本での社会復帰への道が始まった。
帰国後、体調は良いが時差ボケが尾を引く。自分の場合(他の人も同じであると思われるが・・・・。)は、日本からパリに行く時よりパリから日本に帰国する時のほうが問題となる。何故ならば、成田発12:00のAF275便でパリに向かうとパリ着17:20となる。乗機時間は、見かけ上は5時間20分間で時差が7時間あるため実際は12時間20分間である。出発日と同じ日の夕方に到着することになる。時間的経過から見れば過去にさかのぼることになり、飛行機に乗って昼食をとり、夕食をとり飛行機から降りると夕刻であることから所要半日の行程と時間的消費が同じ感じとなり、出発と同じ日にパリに到着してしまう不思議さはあるものの身体の時間を大きく狂わすことにならないようだ。飛行機の中で眠らなくても、パリ到着後に夜を迎え眠る時間が持つことが出来る。他方、パリ発13:30のAF276便で成田に向かうと翌日の成田着08:10となる。時間的経過から見れば未来に向かうことになる。乗機時間は、見かけ上18時間40分間であり実際は11時間40分間である。乗機時間は、ほぼ同じ12時間でありながらも、パリを発ち昼食をとり夕食をとらずに朝飯をとって朝の成田に到着する。半日間の行程で、パリを昼に発ち成田に朝到着する不自然な時間的経過が身体の時間を狂わすのであろう。昼食をとったら眠りをとり起きて朝を迎える不自然さが身体に馴染まないのであろうと思うか。
ということで、今回も結局、日本に戻ってから真夜中に目が覚めることが数日続いたのである。時差ボケの解消がまず最初の日本での社会復帰の第一歩となったというお話しです。
NO.002 仕事探しと家探し セネガルから帰国後、これからどうのようにして生きて行こうかと考えないわけにはゆかなかった。何故ならば、協力隊員を支援する嘱託調整員という職業は契約で成り立っており、契約上、帰国後1週間までは帰国手続きのため雇用されているが、それ以後は無職となってしまうのである。このため以前から帰国後何をしようかと考え悩んできた。ある程度の方向性を決めてきたが、すぐに行動に移したいが、どんな場合でも準備というものが必要となる。そこで、日本社会に慣れる時間と準備するための時間を持ちたい。そして、可能ならば生活の糧を得つつ準備をすることが一番良いと判断したわけである。そこで、これといった伝がない私は、今まで雇ってくれていた青年海外協力隊事務局に相談してみた。そこで偶然にも事務局で国内協力員としての職員の補助業務の仕事があるとのこと。渡りに船という案配でこの仕事に食らいついたわけである。 仕事の確保は出来た。次は住居探しである。住居が決まるまで埼玉県大宮市の実姉の家に居候をお願いしつつ、住居探しが進行していった。勤務地は新宿であり、可能な限り通勤時間を短くしたいことから、出来れば電車乗り換えはしたくない。そこで、1本の電車で通勤できることを条件に数軒の不動産屋に顔をだした。そこで、意外なことが判明したのである。最初と2番目に行った不動産屋で、契約条件の提示があり、その中に保証人は両親に限るというのである。以前東京の郊外に住んでいたときには、保証人は誰でも良かったのに・・・。どうしてなのか?自分の状況(既に両親は死亡)を説明するが、良い物件があっても大家が納得しないため貴方のような人は難しいと言うのみで何の解決も生まれない。何を理由に両親が保証人でなければいけないのか。理由がはっきりしない。両親以外の保証人は信用が出来ないと言うことか。これからの先行きが不安になる。 池袋近辺から赤羽と攻めてきた。最低2Kで7万円前後の物件を探すが、見つからない。2Kでは7万5千前後であり、更に物件が古く狭い。かなりの数の物件を紹介してもらって訪問もした。でも、東京都内では自分の条件に合う物件はないようだとあきらめつつ、大宮の居候先の帰り道に戸田公園駅に降りてみた。興味のそそる物件もあったが、いろいろな条件があり決めかねた。次に歩いて戸田駅に行き不動産屋に飛び込む。そこには、外国人(白人)が相談に来ていた。その経過を眺めていると、とても親切に応対しており好感が持てた。以前、外国人が住居を借りることは非常に難しいと聞いたことがあったが、その原因が何であるかは知らないが、他の不動産で言われた「両親以外の保証人は駄目」というようなことはなさそうだと安心しつつ相談すると、案の定、うちでは問題ないと言う話しでひとまず安心。自分の条件を提示するとその条件に合う物件が今3件あるのですぐに見に行こうと積極的である。相手のペースに乗りつつ3件の物件を訪問する。結局、そのうちで一番陽当たりの良い角部屋である物件に決めることにした。2K(和6,洋6、K6)で7万円である。新宿までの通勤時間も、ドア・ツー・ドアで40分である。いろいろな物件を見てきた中で良い物件に入るであろう。まあ、こんなもんで良かろうと満足しつつ今もここに住んでいる。 <このページのトップに戻る> <マイホームページ内リンク表に移動する> <トップページに戻る> NO.003 痛勤電車 11月から国内協力員としての生活が始まった。始業が9:40と遅いことで痛勤電車はかなり緩和されているとはいうものの、この満員電車には本当にうんざりである。後で聞いたことでは、この埼京線は都心の通勤電車のうち込み具合がNO.1であるという。全く知らなかった。どうしてこんなに人がいるのかと不思議に思うくらいである。それも、東京都心に勤める人の多いこと。新宿方面行きは寿司詰め、汗だくになる痛勤電車であり、反対方向の大宮方面はガラガラといった状況何とか分散できないものだろうか。延べ10年近く外国生活をしてきたものにとって、このような痛勤電車は初めての経験であり、この辛さを思うと逃げ出したくなる。既に新宿通勤が始まって半年が過ぎているが、未だ慣れない痛勤電車である。それでも最近では、単行本を読む余裕もでき貴重な読書時間として活用している。でも、車内照明が弱く目に悪いようである。目に悪いのは、事務所でのパソコン業務もかなりのウエートを占めていることは確かである。苦痛を覚えながらも何とか痛勤電車とも仲良くし始めている NO.004 過去との決別 1年間という期間限定の国内協力員で働きながら、次なる道に歩みを踏み出さなければならない。次に何すべきかセネガルにいていろいろと考えを模索してみた。今更元の自動車設計技師に戻れるわけではなく(10年近くのブランクは過去の経験など吹っ飛んでしまい全くゼロである。)今までの経験(設計技師、海外技術協力)を生かした仕事がしたいことは確かであったが、今の自分の条件(年齢等など)ではかなりきついものがあることから、まずは、過去との決別が必要になったのである。いろいろと考えた末、最終的に都会では住めず自分は自然の溢れるところで生きて行きたいと願っている。つまり田舎暮らしである。元々田舎人である自分が田舎を飛び出したくて東京に出て20数年後に田舎に戻ることになりそうである。田舎と行っても故郷に戻ることはないと思っている。そこで田舎暮らしで何をするかが大きな問題である。農業に従事しても良いとは思うものの、生活の余暇に農作物を作ることはあるだろうが、本業としては出来そうにない。そこで、これからの高齢化社会を見据えつつ何か技術を身につけるべきで、更に健康・福祉関連の従事できればと考えるようになったのである。 そこで、何が出来るか何がしたいか検討し、鍼灸、マッサージ、カイロプラクティック等が候補に上り世の中の流れ等を検討し種々の専門学校を訪れ試験に臨み、最終的にカイロプラクティックを勉強することに決めたのである。今の構想では、今年の4月から始めた2年間の学校における勉強(夜学)、2年前後の臨床経験をした後、ある田舎でカイロプラクティックを開業したいと考えている。今現在明かせないが、カイロプラクティックだけでなく他のあるものと組み合わせた複合的な事業を始めたいと望んでいる。前提として地域社会に根付いた儲け主義を排除して生きてゆけるだけで結構だと思っている。数年後にこの夢が実現出来るように、今この夢を目指して生き始めている。 <このページのトップに戻る> <マイホームページ内リンク表に移動する> <トップページに戻る> NO.005 カイロプラクティックの源流 手技療法に関心を持っている人なら、「カイロプラクティック」という文字や言葉に接したことがあるであろう。このように、カイロプラクティックは多くの人々に知られるつつあるが、その由来や初期の理念を知っている人は意外と少ない。「カイロプラクティックと現代医学は、兄弟であった。」と言うと驚く人が多いが、これは事実である。 人類最古の文書とされるパピルスの中に、手を用いて背骨を刺激して病気を治療する術のことが記録されているといわれ、古代エジプト人、古代メソポタミア人などによってこの種の技術が活用されていたことがわかる。これが現代医学の源流でもあり、カイロプラクティックの源流でもあるのだ。 古代文明が、エジプト、メソポタミア、中国などで開花したことは周知のことだが、これらの文明にはある共通した「思想」があった。 それはある一種のスピリット感で、人間の運命はスピリットによって左右される、という考え方であった。 古代にあっても「病気」という現象が生起し、この病気を取り除く専門家も出てきた。これらの専門家も当時の思想に規制され、古代の医術もスピリット(Sprit:神聖・聖霊・悪魔)説によってなされ、病人は悪魔・悪霊にとり憑かれていると考えられ、それらを追い出すことが治療の主眼であったらしい。 この行為の専門家(当時の医師)が呪師や巫女、そして、神官や僧侶などであったことも前記の時代背景により納得できると認められるであろう。 従って、それらの医術の中には、病人の背中や背骨を叩打したり、突いたり、押したりして悪霊を追い出そうとする技術があったことは、ある種の必然である。 その治効理論(スピリット説)は別として、その治療形態はまさにカイロプラクティックであり、オステオパシーであり、スポンディロセラピーであり、整体術である。つまり病人の背や背骨などを、@叩打したのは、スポンディロセラピーの脊髄反射療法に、整体術の拳打ちの術や拳落しの技に、按摩法の叩打法に類似し、A突いたのは(その結果、背骨などの骨格が矯正されると考えられる)、カイロプラクティックのスラスト(thrust:瞬間急圧)や、オステオパシーのスペシフィック・テクニック(specific techniques)や整体術の正骨に、按摩法の督脈の術に類似している。 このことは逆に、その技術に差があったとしても、古代には洋の東西や民族の違いを問わずに、類似の脊椎手法(spinal manipulation)・骨格矯正手技・脊髄反射手技などが存在していたことを物語っているといえる。 前記の古代エジプトやメソポタミアなどの医術がB.C.2000年頃にギリシアに渡ったと伝えられており、そのギリシアの医術の神とされるアスクレピオスが現れる。彼の父であるアポロ(apollo:ギリシア神話に登場する神で音楽・弓術・予言・医術の神)は、かつて居住し古代ギリシア人に信託を与えていた場所といわれるディルフォイ神殿をアスクレピォィアと改称し、ここを主院とし、ギリシア各地にその分院を設置して、医療活動を行ったと伝えられている。 このアスクレピオス(asklepios:医術の神、帰死回生の術をよくしたと伝えられている)の子孫が、B.C.1200〜700年頃に各地にアスクレビオス寺院を建てて、そこで医療活動を行った。中でも、西アジアのコス島やクニドウス島のアスクレピオス寺院が有名であり、医学校も設立されたといわれている。 その設立地の一つであるコス島に、後世「医学の父」とか「医聖」と尊称されるヒポクラテス(Hippokrates:B.C.460〜375年頃)が誕生する。 ヒポクラテスは、やがてエジプトのアレキサンドリア医学校で、迷信を排して観察・経験を重んじたところの医学を樹立する。古来の治療の中から呪術的要素や空想的理論の部分を排除し、事実直視(観察)によって病気の症状や経過を記録し、それに基づいて研究し、新しい独自の医学観を構築し、現代医学の基礎を樹立した。 ヒポクラテスは「人間には、自らを癒し、健康を復元し、その健康を維持していく生命力(ポノスponos)があり、医師はその自然の力(ポノス)を補佐するのが本来の仕事である」とし、病気の状態から健康体への回復しようとする力をフィジス(physis)と呼び、病気の治療には、このフィジスの働きを妨げないこと即ち活性化させることを治療の原則とした。 また病気に対してはその原因を探求すること、その病気の本態を知ることが、将来の医学のあるべき姿とし、彼自身病気の原因を見出すべく数多くの研究を行った。その研究を記録した彼の医学書の中に、カイロプラクティック(手の医学)に関して多くの記載があり、骨格の異常によって、いろいろな病気が生ずることが述べられている。 このように、「医学の父」と称されたヒポクラテスによって骨格の異常と病気の関連やその治療が研究され、その研究結果が記録されていたという事実は一般的には余り知られていない。しかし、ここにカイロプラクティックの科学化へのきざしがみられるのである。 以上の歴史的経緯から「カイロプラクティックと現代医学は、兄弟だった」ということが理解できるであろう。 <このページのトップに戻る> <マイホームページ内リンク表に移動する> <トップページに戻る> NO.006 カイロプラクティックとは カイロプラクティックは、アメリカで1895年9月18日、ダニエル・デビット・パーマーによって彼の召し使いのハーベイ・リラードの椎骨を正常位に戻すように施術し、数回の施術で聴力を回復した。この初めて脊椎矯正を施した日がカイロプラクティックの始まりとして記録されています。日本でも近年著しい普及をみている療法(ヘルスケア)で、その目的は骨格の歪み、特に背骨の歪みを手技によって調整し、神経生理機能を回復し、健康を増進させようとするものです。他の医学類似行為である「按摩、マッサージ、鍼灸、指圧、柔道整復師」とは異なる独自な療法です。またカイロプラクティックは正確な脊椎の検査と熟練した技術を要するため、簡単に家庭療法として行えるものではありません。 人間が築いた高度な文明は二足直立歩行による大脳の発達と密接な関係があります。人間固有の直立姿勢は人体の骨格、筋肉、靭帯、関節を高度に発達させ、比類のない複雑で繊細な神経系を完成させました。昔から良い姿勢が尊重されたのも、骨格構造(姿勢)に歪みが生じると、機能(健康)に支障が起こることを人々は、経験的に気づいていたからでしょう。 一方、労働と生活において、座る時間が長くなったことは、人間の背骨(姿勢、骨格、構造)にストレスをかけ、背骨に歪みを作り腰痛など多くの原因となっています。特に背骨は解剖学上、繊細な神経の働きと密接な関係にあります。そのため、多くの症状や半健康状態の誘因にもなっています。カイロプラクティックの目的は、この様な骨格構造の歪みを正し、神経機能の改善を図り、病気の回復と予防、そして、より積極的な健康管理を図ろうというものです。 カイロプラクティックとは、カイロプラクティック理論に基づく療法で、その理論は、人体の構造と機能、特に脊椎と神経系の関連に重点をおきながら、健康と病気を研究する学問であり、その療法は、主として人体構造、特に脊椎と骨盤のサブラクセーション(subluxation:「隣接関節構造体の動力学的、解剖学的、もしくは生理学的な、正常な状態からの改変」であると定義されています。)に対する検査とアジャストメントからなっています。 現在、このカイロプラクティックの学校に夜間通っており、勉強しながらカイロプラクティックについて理解を深めつつ状況を逐次レポートして行くつもりです。 <このページのトップに戻る> 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セネガルから帰国後、これからどうのようにして生きて行こうかと考えないわけにはゆかなかった。何故ならば、協力隊員を支援する嘱託調整員という職業は契約で成り立っており、契約上、帰国後1週間までは帰国手続きのため雇用されているが、それ以後は無職となってしまうのである。このため以前から帰国後何をしようかと考え悩んできた。ある程度の方向性を決めてきたが、すぐに行動に移したいが、どんな場合でも準備というものが必要となる。そこで、日本社会に慣れる時間と準備するための時間を持ちたい。そして、可能ならば生活の糧を得つつ準備をすることが一番良いと判断したわけである。そこで、これといった伝がない私は、今まで雇ってくれていた青年海外協力隊事務局に相談してみた。そこで偶然にも事務局で国内協力員としての職員の補助業務の仕事があるとのこと。渡りに船という案配でこの仕事に食らいついたわけである。
仕事の確保は出来た。次は住居探しである。住居が決まるまで埼玉県大宮市の実姉の家に居候をお願いしつつ、住居探しが進行していった。勤務地は新宿であり、可能な限り通勤時間を短くしたいことから、出来れば電車乗り換えはしたくない。そこで、1本の電車で通勤できることを条件に数軒の不動産屋に顔をだした。そこで、意外なことが判明したのである。最初と2番目に行った不動産屋で、契約条件の提示があり、その中に保証人は両親に限るというのである。以前東京の郊外に住んでいたときには、保証人は誰でも良かったのに・・・。どうしてなのか?自分の状況(既に両親は死亡)を説明するが、良い物件があっても大家が納得しないため貴方のような人は難しいと言うのみで何の解決も生まれない。何を理由に両親が保証人でなければいけないのか。理由がはっきりしない。両親以外の保証人は信用が出来ないと言うことか。これからの先行きが不安になる。
池袋近辺から赤羽と攻めてきた。最低2Kで7万円前後の物件を探すが、見つからない。2Kでは7万5千前後であり、更に物件が古く狭い。かなりの数の物件を紹介してもらって訪問もした。でも、東京都内では自分の条件に合う物件はないようだとあきらめつつ、大宮の居候先の帰り道に戸田公園駅に降りてみた。興味のそそる物件もあったが、いろいろな条件があり決めかねた。次に歩いて戸田駅に行き不動産屋に飛び込む。そこには、外国人(白人)が相談に来ていた。その経過を眺めていると、とても親切に応対しており好感が持てた。以前、外国人が住居を借りることは非常に難しいと聞いたことがあったが、その原因が何であるかは知らないが、他の不動産で言われた「両親以外の保証人は駄目」というようなことはなさそうだと安心しつつ相談すると、案の定、うちでは問題ないと言う話しでひとまず安心。自分の条件を提示するとその条件に合う物件が今3件あるのですぐに見に行こうと積極的である。相手のペースに乗りつつ3件の物件を訪問する。結局、そのうちで一番陽当たりの良い角部屋である物件に決めることにした。2K(和6,洋6、K6)で7万円である。新宿までの通勤時間も、ドア・ツー・ドアで40分である。いろいろな物件を見てきた中で良い物件に入るであろう。まあ、こんなもんで良かろうと満足しつつ今もここに住んでいる。
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NO.003 痛勤電車
11月から国内協力員としての生活が始まった。始業が9:40と遅いことで痛勤電車はかなり緩和されているとはいうものの、この満員電車には本当にうんざりである。後で聞いたことでは、この埼京線は都心の通勤電車のうち込み具合がNO.1であるという。全く知らなかった。どうしてこんなに人がいるのかと不思議に思うくらいである。それも、東京都心に勤める人の多いこと。新宿方面行きは寿司詰め、汗だくになる痛勤電車であり、反対方向の大宮方面はガラガラといった状況何とか分散できないものだろうか。延べ10年近く外国生活をしてきたものにとって、このような痛勤電車は初めての経験であり、この辛さを思うと逃げ出したくなる。既に新宿通勤が始まって半年が過ぎているが、未だ慣れない痛勤電車である。それでも最近では、単行本を読む余裕もでき貴重な読書時間として活用している。でも、車内照明が弱く目に悪いようである。目に悪いのは、事務所でのパソコン業務もかなりのウエートを占めていることは確かである。苦痛を覚えながらも何とか痛勤電車とも仲良くし始めている
NO.004 過去との決別
1年間という期間限定の国内協力員で働きながら、次なる道に歩みを踏み出さなければならない。次に何すべきかセネガルにいていろいろと考えを模索してみた。今更元の自動車設計技師に戻れるわけではなく(10年近くのブランクは過去の経験など吹っ飛んでしまい全くゼロである。)今までの経験(設計技師、海外技術協力)を生かした仕事がしたいことは確かであったが、今の自分の条件(年齢等など)ではかなりきついものがあることから、まずは、過去との決別が必要になったのである。いろいろと考えた末、最終的に都会では住めず自分は自然の溢れるところで生きて行きたいと願っている。つまり田舎暮らしである。元々田舎人である自分が田舎を飛び出したくて東京に出て20数年後に田舎に戻ることになりそうである。田舎と行っても故郷に戻ることはないと思っている。そこで田舎暮らしで何をするかが大きな問題である。農業に従事しても良いとは思うものの、生活の余暇に農作物を作ることはあるだろうが、本業としては出来そうにない。そこで、これからの高齢化社会を見据えつつ何か技術を身につけるべきで、更に健康・福祉関連の従事できればと考えるようになったのである。
そこで、何が出来るか何がしたいか検討し、鍼灸、マッサージ、カイロプラクティック等が候補に上り世の中の流れ等を検討し種々の専門学校を訪れ試験に臨み、最終的にカイロプラクティックを勉強することに決めたのである。今の構想では、今年の4月から始めた2年間の学校における勉強(夜学)、2年前後の臨床経験をした後、ある田舎でカイロプラクティックを開業したいと考えている。今現在明かせないが、カイロプラクティックだけでなく他のあるものと組み合わせた複合的な事業を始めたいと望んでいる。前提として地域社会に根付いた儲け主義を排除して生きてゆけるだけで結構だと思っている。数年後にこの夢が実現出来るように、今この夢を目指して生き始めている。
NO.005 カイロプラクティックの源流
手技療法に関心を持っている人なら、「カイロプラクティック」という文字や言葉に接したことがあるであろう。このように、カイロプラクティックは多くの人々に知られるつつあるが、その由来や初期の理念を知っている人は意外と少ない。「カイロプラクティックと現代医学は、兄弟であった。」と言うと驚く人が多いが、これは事実である。
人類最古の文書とされるパピルスの中に、手を用いて背骨を刺激して病気を治療する術のことが記録されているといわれ、古代エジプト人、古代メソポタミア人などによってこの種の技術が活用されていたことがわかる。これが現代医学の源流でもあり、カイロプラクティックの源流でもあるのだ。
古代文明が、エジプト、メソポタミア、中国などで開花したことは周知のことだが、これらの文明にはある共通した「思想」があった。
それはある一種のスピリット感で、人間の運命はスピリットによって左右される、という考え方であった。
古代にあっても「病気」という現象が生起し、この病気を取り除く専門家も出てきた。これらの専門家も当時の思想に規制され、古代の医術もスピリット(Sprit:神聖・聖霊・悪魔)説によってなされ、病人は悪魔・悪霊にとり憑かれていると考えられ、それらを追い出すことが治療の主眼であったらしい。
この行為の専門家(当時の医師)が呪師や巫女、そして、神官や僧侶などであったことも前記の時代背景により納得できると認められるであろう。
従って、それらの医術の中には、病人の背中や背骨を叩打したり、突いたり、押したりして悪霊を追い出そうとする技術があったことは、ある種の必然である。
その治効理論(スピリット説)は別として、その治療形態はまさにカイロプラクティックであり、オステオパシーであり、スポンディロセラピーであり、整体術である。つまり病人の背や背骨などを、@叩打したのは、スポンディロセラピーの脊髄反射療法に、整体術の拳打ちの術や拳落しの技に、按摩法の叩打法に類似し、A突いたのは(その結果、背骨などの骨格が矯正されると考えられる)、カイロプラクティックのスラスト(thrust:瞬間急圧)や、オステオパシーのスペシフィック・テクニック(specific techniques)や整体術の正骨に、按摩法の督脈の術に類似している。
このことは逆に、その技術に差があったとしても、古代には洋の東西や民族の違いを問わずに、類似の脊椎手法(spinal manipulation)・骨格矯正手技・脊髄反射手技などが存在していたことを物語っているといえる。
前記の古代エジプトやメソポタミアなどの医術がB.C.2000年頃にギリシアに渡ったと伝えられており、そのギリシアの医術の神とされるアスクレピオスが現れる。彼の父であるアポロ(apollo:ギリシア神話に登場する神で音楽・弓術・予言・医術の神)は、かつて居住し古代ギリシア人に信託を与えていた場所といわれるディルフォイ神殿をアスクレピォィアと改称し、ここを主院とし、ギリシア各地にその分院を設置して、医療活動を行ったと伝えられている。
このアスクレピオス(asklepios:医術の神、帰死回生の術をよくしたと伝えられている)の子孫が、B.C.1200〜700年頃に各地にアスクレビオス寺院を建てて、そこで医療活動を行った。中でも、西アジアのコス島やクニドウス島のアスクレピオス寺院が有名であり、医学校も設立されたといわれている。
その設立地の一つであるコス島に、後世「医学の父」とか「医聖」と尊称されるヒポクラテス(Hippokrates:B.C.460〜375年頃)が誕生する。
ヒポクラテスは、やがてエジプトのアレキサンドリア医学校で、迷信を排して観察・経験を重んじたところの医学を樹立する。古来の治療の中から呪術的要素や空想的理論の部分を排除し、事実直視(観察)によって病気の症状や経過を記録し、それに基づいて研究し、新しい独自の医学観を構築し、現代医学の基礎を樹立した。
ヒポクラテスは「人間には、自らを癒し、健康を復元し、その健康を維持していく生命力(ポノスponos)があり、医師はその自然の力(ポノス)を補佐するのが本来の仕事である」とし、病気の状態から健康体への回復しようとする力をフィジス(physis)と呼び、病気の治療には、このフィジスの働きを妨げないこと即ち活性化させることを治療の原則とした。
また病気に対してはその原因を探求すること、その病気の本態を知ることが、将来の医学のあるべき姿とし、彼自身病気の原因を見出すべく数多くの研究を行った。その研究を記録した彼の医学書の中に、カイロプラクティック(手の医学)に関して多くの記載があり、骨格の異常によって、いろいろな病気が生ずることが述べられている。
このように、「医学の父」と称されたヒポクラテスによって骨格の異常と病気の関連やその治療が研究され、その研究結果が記録されていたという事実は一般的には余り知られていない。しかし、ここにカイロプラクティックの科学化へのきざしがみられるのである。
以上の歴史的経緯から「カイロプラクティックと現代医学は、兄弟だった」ということが理解できるであろう。
NO.006 カイロプラクティックとは
カイロプラクティックは、アメリカで1895年9月18日、ダニエル・デビット・パーマーによって彼の召し使いのハーベイ・リラードの椎骨を正常位に戻すように施術し、数回の施術で聴力を回復した。この初めて脊椎矯正を施した日がカイロプラクティックの始まりとして記録されています。日本でも近年著しい普及をみている療法(ヘルスケア)で、その目的は骨格の歪み、特に背骨の歪みを手技によって調整し、神経生理機能を回復し、健康を増進させようとするものです。他の医学類似行為である「按摩、マッサージ、鍼灸、指圧、柔道整復師」とは異なる独自な療法です。またカイロプラクティックは正確な脊椎の検査と熟練した技術を要するため、簡単に家庭療法として行えるものではありません。
人間が築いた高度な文明は二足直立歩行による大脳の発達と密接な関係があります。人間固有の直立姿勢は人体の骨格、筋肉、靭帯、関節を高度に発達させ、比類のない複雑で繊細な神経系を完成させました。昔から良い姿勢が尊重されたのも、骨格構造(姿勢)に歪みが生じると、機能(健康)に支障が起こることを人々は、経験的に気づいていたからでしょう。
一方、労働と生活において、座る時間が長くなったことは、人間の背骨(姿勢、骨格、構造)にストレスをかけ、背骨に歪みを作り腰痛など多くの原因となっています。特に背骨は解剖学上、繊細な神経の働きと密接な関係にあります。そのため、多くの症状や半健康状態の誘因にもなっています。カイロプラクティックの目的は、この様な骨格構造の歪みを正し、神経機能の改善を図り、病気の回復と予防、そして、より積極的な健康管理を図ろうというものです。
カイロプラクティックとは、カイロプラクティック理論に基づく療法で、その理論は、人体の構造と機能、特に脊椎と神経系の関連に重点をおきながら、健康と病気を研究する学問であり、その療法は、主として人体構造、特に脊椎と骨盤のサブラクセーション(subluxation:「隣接関節構造体の動力学的、解剖学的、もしくは生理学的な、正常な状態からの改変」であると定義されています。)に対する検査とアジャストメントからなっています。
現在、このカイロプラクティックの学校に夜間通っており、勉強しながらカイロプラクティックについて理解を深めつつ状況を逐次レポートして行くつもりです。
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