| <<上>> もうもうたる湯気が、たちこめていた。 いま、風呂場には、客がひとりであった。 たくましい裸体ではある。 体をながしに洗場にへ入ってきた湯女が瞠目して、 「ま・・・りっぱな、からだわいの」 感嘆の声を、もらした。 客は、30前後に見える。 湯女の乳房が男の頭の上でおもたげにゆれていた。 このとき・・・別の客が脱衣の間から洗場へ入って来、その横顔へ 視線をうつしたとき、おもわずうかべたおどろきの表情を、かくし きれなかったようだ。 後の客は、先の客よりは、ひとまわりほど年長に見える中年の客であった。 この客の裸体も、細く引きしまってはいるが、すばらしい筋肉である。 「たしかに、あの客・・・丹波大介であった」 この客のつぶやきは、そこで絶えた。 この客の名を、奥村弥五兵衛という。 ”ねむり灯台”の細いあかりが、かすかにゆれている。 と・・・。 いつ戸が開いたのか、しまったのか、それもわからぬうち、微風の ように部屋の中へながれこんで来たものがある。 「丹波大介。久しぶりだのう」 忍び入って来た男は、奥村弥五兵衛である。 弥五兵衛にはうちあけなかったけれども、甲斐の丹波村には、18歳の 愛らしい妻が待っている。 関ヶ原戦争後にうけた丹波大介の精神は、もよを妻にしてから、すこしずつ 癒えていった。 5年を経て、いまの大介が、もよと共に生涯を丹波の里ですごす決意を かためたとき、 (最後に一度・・・一度だけ、関ヶ原を、京の、大坂の町を見ておきたい) 青春が躍動し、闘い、傷ついた場所を、最後に、わが脳裡へきざみつけて おこうとおもっただけのことなのだ。 この5年の間に・・・。 丹波のわら屋根の小さな家でねむっているとき、突如として、大介は 夢の中で闘う自分を見ることがあった。 敵は、だれでもない。 強いていえば、大介がおのれの忍びの血を相手に、闘っていたのだともいえよう。 奥村弥五兵衛の家は、京都の四条・室町にある。 ここで、弥五兵衛はこつこつと印判を彫っているのだ。 彼は、印判師・仁兵衛になりきって暮らしていた。 妻もなく、子もない。 佐助という無口な痴呆じみた若者がひとり、主人・仁兵衛の世話をしたり、 つかいはしりをしたりしている。 肩に荷をかついだ百姓女が、この店へ入って来た。 「みごとじゃ、大介・・・」 奥村弥五兵衛がつぶやいた。 「かくなっては大介。おぬしにやってもらうよりほかはない。どうか、 やってもらいたい」 奥村弥五兵衛ほどのものに、そこまで見こまれては、大介も、さすがに 顔面が紅潮してきた。 忍びとして、名誉のことといわねばならない。 (いよいよ、はたらくことになってしまったか・・・) 大介は、すわりこんだまま、憮然たるおももちになった。 (もよ、ゆるしてくれ。なれど半年のうちには、かならず一度は帰る) 翌日・・・。 店先から奥村弥五兵衛の、低い口笛がきこえた。 ”かまたさま”が見えた、という合図なのだ。 ふっくらとした、いかにも品のよい老年の武士である。 (うむ。これなら・・・) 「それがしは、加藤主計頭が家来にて、鎌田兵四郎と申す」 名のられて大介は、瞠目した。 大介ほどの忍びが、これほどに衝撃をうけたのは何年ぶりのことであったろう。 こうした家臣をもつ加藤清正という大名が、 (どのような人物か・・・?) ぜひとも、ひと目でも会ってみたいおもいがしてきた。 現在の加藤清正の立場は・・・・。 徳川家康の信頼をうらぎることなく、その信頼を利して、豊臣家の ためにはたらく、ことにあるといってよい。 加藤主計頭清正が、奥庭の茶室において丹波大介を引見したのは、それから 間もなくのことであった。 鎌田兵四郎に、清正がこういった。 「あの丹波大介という忍び。いよいよ気に入った。なにごとも大介のいうままにせよ。 費用を惜しむな」 そして夜が明けたとき・・・。 丹波大介の姿は、この”肥後屋敷”から消えていた。 いま、丹波大介の胸の底には、たのもしい協力者の姿が一つ、おもいうかんでいた。 その堂山の木立の中に、ぽつんと灯りが見えた。 「杉谷のお婆・・・」 おもわず、大介はつぶやいている。 甲賀の、このあたりの土地を杉谷の里という。 ”杉谷のお婆”の名を於蝶という。 姉川の戦場へ出たとき、於蝶は30に近い年齢であったというから、いまは 60をこえているわけだ。 「もはや、忍びばたらきに飽いた・・・」 こういって、杉谷の里へ、もどり、荒廃していた亡き頭領の屋敷へ入って、 それから百姓仕事や機織をしながら、余生を送りはじめた。 (もう、10年ほど、お婆に会うていない。どのように変わられたか・・・?) 堂山のふもとへ来たとき、丹波大介の胸がおどった。 あれから一年を経たいま・・・・。 大介は、お婆の協力によって5人の忍びを味方に得ている。 大介、お婆、道半。それに道半の孫の小平太、さらに旧杉谷忍びの5名を 加え、合せて9名。 これが、今度の丹波大介一党ということになる。 この一党は、加藤主計頭清正の人柄と立場に共感をおぼえて、忍びばたらきを することになったわけだが、 「われわれは丹波大介どののために、はたらくことになったのじゃ。ゆえに、 もはや杉谷忍びではないぞよ。よいか、丹波忍びじゃぞ」 お婆は一同に、はっきりと念を入れ、 「よろしゅう、おねがい申す」 と、折目正しく、他の7名と共に大介へあいさつをしたものだ。 杉谷のお婆も、名を”千代”と変え、いまは加藤清正に奉公をしていた。 鎌田は、大介の指示によって、お婆の本性を清正へは明かさなかったけれども、 清正は何やら感づいているらしい。 侍女たちは、お婆のことを、 「やさしゅうて、慕わしいお方」 だと、うわさをしている。 老女の千代・・・すなわち杉谷のお婆が、大介の忍びであることを、 鎌田は一言も清正へもらしたことがない。 しかし、加藤清正はいま、千代を熊本へつれて行きたくなったらしい。 それはつまり、この老女が忍びであると見ぬき、熊本の領国にまで 関東の眼が光っているかいないか、を、さぐらせようとおもいついたことになる。 (殿は、知っておわしたのか・・・?) これであった。 加藤清正が、うすく笑って、いかにも、自分は知っていたぞ・・・と、いうかの ようにうなずいて見せた。 <<下>> | 空のどこやらで、雲雀がさえずっている。 ほがらかに、高らかに、そして、そのさえすりが空遠くへ消えたかと思うと、 「あれ、また・・・」 もよは、うっとりと眼をほそめ、水仕事の手をとめて、ききほれた。 この年ーー慶長15年は、もよが、夫の丹波大介をさがしに、故郷の 甲斐・丹波村を出てから、まる4年目にあたる。 もよは、すでに大介をあきらめていたのか・・・。 あのとき、伊賀の女忍び・於万喜にたすけられたもよは、 「しばらくは、ゆるりとしていたがよい。なんというても、お前の夫を さがし出すには、京か大坂へ行ったほうがよいであろう」 と、於万喜にいわれ、なにごとにも親切な?・・・於万喜にまかせることにした。 もちろん、もよは、いまもって於万喜の正体を知らぬ。 もよは、於万喜のすすめに従う決心をし、寅三郎と夫婦になり、大坂・今橋すじの 新居での生活がはじまってみると、 (やはり、よかった・・・・) もよは、しみじみとそうおもった。 加藤主計頭清正は、そのころ、すでに名古屋へ入り、築城工事の指揮に あたっていた。 この年、清正は49歳になっている。 関ヶ原戦争が終って10年。 加藤清正の、この10年は、まことに瞠目せざるを得ない活動ぶりを しめしているのだ。 主家ともいうべき豊臣家と、天下の大権をつかみとった徳川家との間に 在って、清正は両家の平和をねがうあまり、それこそ身を粉にして、 はたらきつづけてきた。 「われながら、よくも、体がつづくものじゃ、と、おもうことがある」 と、清正は重臣・飯田覚兵衛にもらしたことがあるそうな。 それだけではない。 足かけ7年の歳月をかけ、加藤清正は一生一度の情熱をかたむけて、 「古今無双の城」 を完成していた。 すなわち、わが居城たる”熊本城”がこれである。 幕府には、一昨年に完成の報告をしてあるが、最後の、清正にとっては、 もっとも大切な、扇の要ともいうべき"秘密の工事”をおこなうため、 さらに1年を必要としたのだ。 この”秘密の工事”とは、なにか・・・? (どのような、城なのか・・・?) と、家康は想いをめぐらしている。 いうまでもなく、徳川方の忍びたちは、伊賀も甲賀も、熊本城の内容をさぐりに 潜入して行った。 ところが・・・。 どうも、今度だけは彼らの報告が、あまりかんばしくないのである。 ただ、加藤の家臣たちが上下一体となって外部からの諜報活動に対しての 備えが、きびしくなったのである。 ここのところ、3年ほど、加藤清正は、大介の顔を見ていない。 大介は、石神山の頂きに立っていた。 そして、熊本城・・・。 この城の偉容を見下ろしたとき、大介の脳裡を、得体の知れぬ戦慄が疾った。 (肥後さまは、やはり、戦をなさろうというのだ!) これであった。 (まさに・・・) この城が実戦用の大城郭として築きあげられたことを、大介は、ひしひしと 感ぜぬわけにはゆかなかった。 この年ー慶長16年3月6日。 徳川家康は、大軍をひきいて駿府を発し、上洛の途についた。 20日、この日。 徳川家康は、ついに大坂の豊臣秀頼へあてて、上洛をうながす使者を送った。 3月28日。 二条城での対面が無事にすんだことを知らせる使者が、駆けもどってきた。 加藤清正が、豊臣秀頼を招いての祝宴を、わざわざ川に浮かべた御座船の上において もよおしたのは、 「秀頼が大坂城へ帰る途上に、折りしも伏見の肥後屋敷を通りかかったので、 しばらく足をやすめていただき、酒食を供した」 という”かたち”をとったのであった。 白昼の川面で、だれの眼にもあきらかであった。 それもこれも、清正が徳川家康の眼をはばかり、その神経に刺激をあたえぬように・・・ ”おもんばかり”があったからだ。 今度の清正の上洛は、ただひとつ、秀頼と家康との対面を実現し、大坂との融和を はかり、戦火を避けることにあった。 そして、その希望は達せられたのである。 その夜。 加藤清正は、杉谷のお婆(老女・千代)をも宴席へまねき、いろいろと、ものがたりを したようである。 夜ふけて・・・。 杉谷のお婆は、わが寝所へ引きとってから、 (殿は、このまま、すべてのことがおだやかにおさまろうとは、考えてはおわさぬ) と、おもった。 (それにしても・・・) お婆は、丹波大介からの連絡が絶えていることを不安におもった。 4月に入った。 その7日。 浅野幸長の父・長政が病死した。 おなじ日に・・・・。 伏見の肥後屋敷で、加藤清正が発病した。 丹波大介が、杉谷のお婆の寝所へあらわれたのは、16日の夜更ふけであった。 「待ちかねていたぞや」 「すまぬ」 「どうなされたかえ?」 「島の道半どのが・・・」 つつみかくさず、大介はすべてを語った。 「道半どのも、おぬしに命じられてしたことではない。みずから買って出て、 おぬしのためにはたらいたことじゃ。道半どのも、さぞ、まんぞくであろ」 「お婆・・・」 大介は、お婆に一礼し、闇の中へ溶け去った。 それを見送ってから、夜具の中へ仰向けに寝た杉谷のお婆の両眼から、 熱いものがふつふつとあふれ出してきた。 お婆はかすかにつぶやいた。 「道半どのよ。よいことをしてくれたのう」 この月の20日。 加藤清正は伏見を発し、大坂城の豊臣秀頼へ”いとまごい”のあいさつを すませ、その夜、大坂から海路を帰国の途についた。 ところが・・・。 この帰国の船中において、加藤清正が血を吐いて倒れた。 同時に・・・。 料理人・梅春の姿が、船中から消えてしまった。 いったい、どこへ消え去ったものか・・・。 5月27日に熊本城へ入った。 このとき、すでに清正は重態であったようだ。 「もはや、これまでじゃ」 と、いった。 「何も彼も、終りとなったのう」 6月23日の朝から、加藤清正は危篤状態になり、翌24日の丑の刻 (午前2時)に息をひきとった。ときに清正は50歳。 加藤清正が亡くなった同じ月の4日。 紀州・九度山に押しこめられたまま、あの真田昌幸が65歳で亡くなってしまった。 同じ年の8月。 加藤清正と供に秀頼をまもりつづけて来た、浅野幸長も、38歳の若さで この世を去っている。 幸長の死も、毒殺だといううわさがながれた。真偽はわからぬ。 翌19年5月。 加賀の太守・前田利長が病歿した。 こうして、豊臣家と、もっとも関係のふかい大名たちが、3ヵ年の間に、 ほとんど世を去ったのであった。 だが、徳川家康は、齢70をこえて尚、壮健であった。 大坂戦争が終った翌年の4月17日に、徳川家康は75歳の生涯を終えた。 家康が世を去った翌々年。甲賀の自邸において、頭領・山中俊房が死んだ。 ところで、山中俊房が死んだ年の夏に、将軍・徳川秀忠は、笹井丹右衛門という武士を 旗本にとりたてた。 元和5年6月1日の夜ふけであったが・・・。 ねむりからさめたとき、笹井丹右衛門は手足をしばりつけられ、どこかの 森の中の土の上に投げ出されていた。 丹右衛門は愕然とした。 「気づいたか、梅春」 「た、たれじゃ」 「丹波大介」 「ああっ・・・」 翌朝・・・。 江戸城・大手門の前が大さわぎとなった。 右腕を切断された笹井丹右衛門の”苦しみ死”に死んだ遺体が大手門へ 投げ捨てられてあり、その傍に大きな高札がたてられてあったからである。 その高札には、墨くろぐろとつぎのように書きしたためられてあった。 ”この者、加藤主計頭清正公を毒殺した者なり、よって詠す” |