剣の天地

剣の天地



<<戦乱期>>
赤城山も、榛名山も、そして妙義の奇怪な三峰も、よく晴れわたった初夏の紺青の空に、くっきりと浮かんでいた。
その一、榛名山の東南の麓に築かれた箕輪城の西側の、
〔白川口〕
の城門から、駿馬が二騎、走り出して来た。
白と、栗毛の駿馬である。
栗毛の馬には、筋骨たくましい、狩装束の若者が打ちまたがっていた。
白馬を駆って行くのは、若い女性であった。
黒髪を、むぞうさにたばね、むらさきの小袖に黒の表袴という、まるで男のものに近い姿の乙女なのである。
「図書之介さま。早う」
たくみに手綱をさばき、颯爽と先に立って馬を走らせつつ、乙女が若い武士へよびかけた。
りんりんと張った、さわやかな声音である。
この乙女は、箕輪の城主・長野業政の次女で、名を、
〔於富〕
という。
「於富どの。待たれい」
馬腹を蹴って、車川沿いの道を於富に追いすがって行く武士は、小幡図書之介景純といい、 この年、於富との婚約がととのったばかりだ。
図書之助は、この箕輪城からも近い、おなじ上州の国峰城主・小幡信貞の従弟にあたる。
そして・・・・。
於富の姉の正子は、すでに、信貞夫人となっている。
図書之介は、わずかな供をつれて、昨日の午後に箕輪城へあらわれ、城内に泊まった。
今日になって、於富が、
「野駆けにまいりましょう」
と、図書之介をさそい出したのだ。

於富と、小幡図書之介が、草原に身を横たえていた。
図書之介の熱い吐息が頬にふれるのを感じながら、於富は、閉じた眼の底に、 別の男の面影を追いもとめていた。
その男の名を、
〔上泉伊勢守秀綱〕
という。
上泉伊勢守秀綱は、於富にとって、
「かけがえのない・・・」
人物である。
於富は、伊勢守によって〔武術〕を身につけた。
上泉伊勢守は、この箕輪の城の東方四里のところにある上泉城の主であった。
上泉伊勢守秀綱は、この年、天文14年(西暦1545年)で38歳の男ざかりを 迎えた。
於富より、ちょうど20歳の年長である。
上泉伊勢守は、8年前に病歿した妻・小松との間に、常陸介秀胤という男子をもうけた。
子は、常陸介ひとりであった。

梅雨の間、於富は父の城にいて、嫁入りの仕度にいそがしかった。
そして、梅雨が明け、真夏の青空が榛名山の頭上にひろがった或日の朝、 久しぶりで恩師のもとへ出向いて行った。
この日。
(お師匠さまへ、お別れに・・・・)
於富は、そのつもりでいる。
この秋に、小幡図書之介との婚儀のことが公表されるはずであった。
これからのちの於富は、あれほど好きだった武芸からはなれ、小幡図書之介という 一人の武将の妻になるのである。
「お師匠さま。お久しゅうござります」
あいさつをした。
うなずいた伊勢守が、軽く上体を折って礼を返す。
於富は、奥の間に入り、刃引きもしていない愛用の薙刀を取って庭へ出た。
二人の稽古は、およそ一刻(二時間)もつづけられたろうか・・・。

これから軽い食事をとり、於富は、奥の主殿の外れの、自分にあてがわれた 一間へ行き、昼のねむりに入る。
上泉伊勢守は、居間の机の書物に向かった。
真昼の午後である。
奥庭は、目がくらむほどに陽光があふれてい、蝉が鳴きこめていた。
どれほどの時がすぎていったろう。
この、時のながれがすこしずつ、さすがの伊勢守もおもいおよばぬ〔異変〕 に近づきつつあった。
この日のことを、伊勢守は生涯忘れなかった。
それでいて、記憶がおぼれげなのである。
(まさかに・・・・)
あのような異変が、わが身に起ころうとは・・・・。
そしてまた、於富も、伊勢守同様に、
(何故、私が、あのようなことをしたものか・・・それは自分にもわからぬ)
のである。

この年の10月1日。
於富は、国峰の小幡図書之介のもとへ嫁いで行った。
於富は、上泉の城へあらわれ、最後の別れを告げたとき、伊勢守の耳へ、 こうささやいたのである。
「上泉の殿。わたくしは、間もなく国峰へ嫁ぎまする。そして、来年の夏が 来るころ、子を生みまする。それが男の子か、女の子か、わかりませぬが・・・ そのお子は、殿のお子にございます」
すでに、於富は、
(身ごもっていた・・・・)
と、いうのだ。

さて、翌、天文15年の初夏になって・・・・。
「玉のような・・・」
男の子を生んだ。
箕輪城から上泉へあらわれた長野業政の使者は、
「千丸様と、御名がつけられまいたそうでござります」
と、伊勢守へ告げた。
「千丸、とな・・・」

(あれから、一年がすぎた)
奥庭の一隅から、白い蝶が、はらはらと舞い出て来た。
伊勢守は疋田文五郎をよび「赤城へこもるぞ」と、いった。
赤城山には、伊勢守の、
〔兵法の修業場〕
がある。
伊勢守が、こうして赤城山中の修業場へ、ひとりこもっているのは、大自然の 中に我身を置き、
「天と地のちからを、たとえ、いささかなりとも、わが身に吸い取ろうとしている」
のだそうな。
つまり、大自然の摂理といとなみとを、自分の肉体に感じとり、人間である 自分が、その大自然の一部であり、大自然から生み出されたことを、
「理屈ではなしに・・・」
体得しようとしているのであった。


永禄6年の年が明けると、春が来るのを待ちかねていたかのように、武田信玄は 上州へあらわれ、国峰城へ入り、行動を起した。
いまや、箕輪城は、断末魔のうめき声をあげている。
信玄本陣の右裾から、いましも、一人の武将が、わずか3名の武士を従えた のみで、こちらへ馬を飛ばして来るのを見た。
信玄は、こういっている。
「もはや、箕輪の城も落ちた。この上、無益な戦をいたしたところで何になろう」
もっともなことだ、と、伊勢守はおもった。
信玄は、
「すでに、伊勢守殿は手いたくはたらかれただから、この上は討死は無益であろう。 また、生き残った城兵たちにしても同様である」
というのだ。
そして、さらに、
「それより伊勢守殿は、おのが兵法を天下にひろめられてはいかがじゃ」
と、すすめてきた。
武田信玄の鋭い観察は、ここ数年前から、伊勢守の胸に兆しはじめている おもいを、まさに見ぬいているかのようであった。
(ふうむ・・・武田信玄公という大名は、このような人物であったのか・・・)
はじめて、伊勢守は信玄の偉大さを見せつけられたようなおもいがした。
信玄は、伊勢守の兵法を惜しんでいる。

武田信玄は、このとき、いったんは上泉伊勢守を手放したが、
「いかにも惜しい」
月日がたつにつれて、なんとしても、伊勢守を召し抱えたくなったようだ。
しかし、伊勢守は、
「長野家の、ほろび絶えたるいまは、何処へも奉公をいたすつもりはありませぬ。 ただ独り、剣の道に生くるのみでござる」
と、こたえた。
このとき、武田信玄は〔信〕の一字を伊勢守にあたえた。
これより伊勢守は〔秀綱〕の名を〔信綱〕にあらためたという。

<<新陰流>>
上泉伊勢守信綱が、疋田文五郎と神後宗治の二名を従え、上泉の居館を 出発したのは、箕輪落城の年、永禄6年の初秋であったそうな。
於富が、伊勢守へさし向けてよこした千丸の身については、
「我子とおもい、育てまする」
と、常陸介が引きうけてくれた。
(もはや、何も、おもい残すことはない)
愛弟子ふたりをつれ、飄然と上泉を発した伊勢守は、
(これより、わしは、新しく生まれ変ったようなものじゃ、50をこえて、な・・・)
一個の剣士として、自由自在に、ひろい世界を見ることができるよろこびに、 伊勢守の眼はかがやいていた。
こうして、上泉伊勢守は諸国を回る旅に出たわけだが・・・・。
すでに、そのころ、伊勢守は、自分の剣法をほとんど完成していたものと 考えられる。

伊勢守の恩師・愛洲移香斎は〔陰流〕の剣法を創始した。
伊勢守は陰流のみでなく、鹿島七流の一人、松本備前守やト伝・塚原高幹 にもまなんだ。
しかし、愛洲移香斎の陰流から名をとって、自分の剣の体系の呼称を、
〔新陰流〕
と名づけたところに、伊勢守が移香斎から受けた影響の大きさが 看てとれるような気がする。
ところで・・・。
上泉伊勢守の〔新陰流〕とは、どのような剣法であったのか。
それは、およそ四組に分けられ、燕飛・山陰・月影・松風などの呼名に よる秘伝と組太刀から成っている。
こうした伊勢守の剣の体系は、現代の剣道の基盤となっているそうだ。
伊勢守は、人間の肉体の機能と精神のはたらきを、剣法の中へ とり入れ、そこに人間そのものの進歩と発達を目ざしていたにちがいない。

「文五郎、伊豆・・・」
しみじみと、伊勢守は二人にいった。
「このような境界に入って、世の中がひろく見ゆるようになったのぅ」
伊勢守の顔は、新生のよろこびにかがやいていた。

さて・・・・。
上泉伊勢守一行は、柳生家の家来の案内をうけ、奈良の宝蔵院へ入った。
柳生但馬守宗厳が、宝蔵院へあらわれたのは、その翌日であった。
ときに柳生宗厳は、37歳。
背丈は普通であるが、筋骨のみごとな衣服の上から見ても容易に察知する ことができた。
「但馬守宗厳にござります」
客殿へ入って来て、しずかに両手をつき、一礼した姿には、
(えもいわれぬ・・・・)
品格と、淳朴な心情がただよい出ており、これを見た一瞬に、上泉伊勢守は 好意を抱いてしまった。
いまは一介の剣士にすぎぬ上泉伊勢守信綱を、このように礼をつくし、 柳生の里へ迎えようとしている柳生但馬守宗厳のこころは、伊勢守にもわかっている。
京都に来てから、柳生宗厳の剣法について、伊勢守は耳にしたことがある。
「これは、よう、おいで下された」
但馬守宗厳の父・柳生美作守家厳が一族の人びとをしたがえ、街道まで出て おり、伊勢守を出迎えた。
上泉伊勢守は、あまりの居ごこちのよさに、柳生の里へ足をとどめたまま 永禄7年の正月を迎えたのである。
この間、柳生家の人びとに、伊勢守は惜しむことなく、剣術の稽古をつけ、 剣理を語った。

はじめて、伊勢守が柳生宗厳に会ってから、わずか二年。しかも交誼は浅い。
けれども伊勢守は、
(わが流儀を後世につたえる人物は、柳生宗厳のほかにはない)
早くも、おもいつつあったらしい。
柳生を去るにあたって、上泉伊勢守は柳生宗厳へ、
「兵法は、人のたすけに潰すものではござらぬ。進退ここにきわまったとき、 一生一度の用に立てるものでござる。
なれば、さのみ、世間の目に能く見られずともよろしい。たとえ、仕なしは やわらかに、なるほど人の目に上手と見えようとも、心の奥底に、いささか なりとも正しからぬところがあらば、すべては無用のものとなり果てよう。
仕なしは、たとえ見苦しく、初心のように見ゆるとも、火炎の内に飛び入り、 磐石の下に敷かれても、くじけぬ心こそ、わが心とたのむ主でござる」
と、いった。
その一語一語を宗厳は、わが胸へ噛みしめるように聞き入っている。
この伊勢守の言葉には、人間としての謙虚さと、ひるがえって豪穀にみちみちた 精神が一つに溶け合っている。
柳生宗厳は、この恩師の言葉を、生涯忘れなかった。
なればこそ柳生家は、この後の戦乱末期の、もっとも激しい波浪を乗り切って、 刀術という、いうならば〔殺傷の術〕を探究しつつ、尚も行きぬくことが できたのであろう。
これこそ、伊勢守が理想とする〔活人剣〕に、ほかならぬといえよう。
さらに、伊勢守はこういった。
「そこもとは、天下無類の境地に立つことを得た。それがしがつたえた流儀に こだわることなく、みずから一流を起されるがよい」
これによって、柳生宗厳は〔柳生流〕を創始することになるのである。

上泉伊勢守の、兵法の真髄は、こうして柳生但馬守宗厳に受けつがれた。
柳生宗厳は後年、足利幕府が滅亡すると共に、柳生の里へ引きこもり、 わが〔柳生新陰流〕の成熟に意をつくした。

このときから、上泉伊勢守の消息を、世の人びとは耳にしなかったようである。







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