| 「あまりに、お気の毒でござりますゆえ、なにとかひとつ、若殿さまに
お気ばらしをおさせ申したい、と・・・ま、かようにおもいまして」 と、そのはなしをもちかけきたのは、三倉屋徳兵衛であった。 「気ばらし・・・?」 ふしぎそうに問いかえしたのは、信州松代十万石の城主・真田伊豆守の 家来で、江戸留守居役をつとめている駒井理右衛門である。 徳川将軍のもとに、諸国大名それぞれに忠勤をつくし、天下泰平の世と なってから、およそ百年。 しかし、享保5年(1720年)のころになると、上は将軍から大名、 下はその家来たちにいたるまで、金づまりもひどい状態となってきている。 金は、どしどし町人たちのふところへ入ってしまい、生産とむすびつかぬ 武家は、天下の指導者としての権威を、町人たちから見ると、 (ふりまわしているにすぎない) のであった。 いま、三倉屋徳兵衛と駒井理右衛門が、 (若殿さま)とよんでいるのは、真田伊豆守の嗣子・蔵人信弘のことだが、 この若殿、なんと今年で51歳になる。 真田家では養父・伊豆守が、まだ老体にむち打って藩主の座についている。 このため、妻子もあるし、50をこえた信弘が、まだ十万石の当主になれないのである。 翌朝。 駒井理右衛門は、御殿へ出仕し、真田信弘に目通りをした。 「お人ばらいを、ねがわしゅう存じまする」 と、駒井がいった。 信弘が青ざめた。 「なにか変事でも起こったのか」 「はい」 駒井理右衛門が、にやりと笑った。 「変事ではござりますが、悪いことではございませぬ」 「そ、そうか・・・」 「つきましては・・・」 「うむ?」 「一日、御身を理右衛門へおあずけ下されたく」 「わしの身を・・・なんとする?」 「実は、御用達の三倉屋徳兵衛より、いささか金を借り入れまして」 「ほ・・・ようも、貸してくれたものじゃな」 「三倉屋とは、若殿をおまねきするとの約定にて、私めが金を借りうけました」 「む・・・」 小さな体をすくめるようにして、信弘が困惑の表情をうかべた。 すると、駒井理右衛門が真剣な面持となり、 「なにごとも、御家のためでござります」 するどくいった。 信弘が、うなだれて、 「いかにも・・・」 わずかにあげた信弘の顔の、その双眸が、ひたむきに純心であった。 駒井は瞬間、胸に熱いものがこみあげてきて、 「ははっ・・・」 おぼえず、ひれ伏していた。 翌々日の朝となって・・・。 駒井が途中から駕籠をやとい、真田信弘を案内したのは、根岸にある 三倉屋徳兵衛の別荘であった、といわれている。 「けっこうなつくりじゃ」 先ず、香がたきしめられた奥の間へ通された真田信弘は、ものめずらしげに あたりを見まわしていたが、森閑としずまりかえっているあたりの気配に 耳をすませ、 「のどかじゃのう」 と、いった。 踊り子が、信弘をかこみ、接待にかかった。 51歳の今日まで、松平下総守の女に生まれた正夫人のほかには、女を 知らぬ信弘であった。本家へ養子に来て以来、倹約につぐ倹約を強いられ、 いまはそれが当然のものとおもい、御殿に奉公する侍女たちへもこころが うつらなかった。 踊り子の一人が信弘の酌をする。 一人が笛を吹き、一人が三味線をひく。 一人が舞う。 「三倉屋・・・」 信弘が、ほろ酔いになって、 「こころたのしいぞよ」 と、いった。 「理右衛門。あの女たちは・・・」 「お気にめしましたか・・・」 「む・・・」 しわのふかい信弘の顔に、はじらいの微笑がうかんだ。少年のような美しい 微笑であった。 「どの女が、もっとも、お気にめしましたか?」 「わしの傍にて、笛吹きし女・・・」 「ははあ、なるほど」 ほっそりとした、しなやかな体つきの女で、色白の肌にもくちびるにも 深紅の血色が鮮烈に浮きたち、障子を透しての陽光を背に、 「妙と申しまする」 と、女が名のった。 妙は、真田信弘にはじめて抱かれたとき、18歳であった。 妙はその後、三倉屋徳兵衛の庇護をうけるようになり、信弘は月に二度ほど、 駒井理右衛門の配慮により、微行で藩邸をぬけ出し、根岸の三倉屋の別荘へ おもむき、妙と逢った。 三倉屋は、もうすっかり信弘に好感を抱いてしまい、親身になって世話を してくれたものだ。 さて・・・。 白髪の若殿が、妙と何度あいびきをしたろうか。 翌享保6年の秋の或る日。 三倉屋徳兵衛が、柳橋の料亭[中村]へ、駒井理右衛門をまねき、 「実は・・・踊り子の妙が、若殿さまのお子をはらみまして」 「まことか・・・」 駒井の顔色が一変した。 だが、三倉屋は落ちついたもので、 「これからも、あなたさまと私の胸のうちへ、なにごともしまっておけば よいのでございます。花里も、まさかに相手が真田家の若殿さまとは、 存じおりませぬゆえな」 駒井理右衛門が、真田信弘に目通りをしたのは、翌日の昼下がりであった。 信弘は、奥御殿内の自分の居住区にある[炉の間]で読書をしていた。 駒井理右衛門は、おもいきって口をきった。 踊り子の花里こと妙が、さる町人のもとへ嫁ぐことになったので、中に入った 三倉屋も困りはてたが、なんといっても男のなぐさみものになるのではなく、 妙の幸福のためゆえ、引きとめることもならず、 「ここは、なにとぞ・・・」 いいさして、平伏をした。 信弘は、だまっている。 駒井が顔をあげると、信弘が、中庭をながめたまま、なんともいえぬさびしげな 顔つきになっていた。 どこからか、菊の香がただよってきている。 ながい沈黙の後に、真田信弘が、 「わしに、妙をわがものとするちからがないのじゃから・・・いたしかたもない」 かわいた声で、そういった。 信弘の生活は、またも以前のわびしいものへもどった。 このときから6年後の享保12年5月27日。 真田伊豆守幸道が病没し、ここにようやく信弘が[伊豆守]をつぎ、真田十万石の 当主となった。 ときに信弘は58歳。 そのころ、ようやくに時代が変わってきていた。 ときの将軍は八代・徳川吉宗であった。 信弘が藩主となって7年目のことであるが・・・。 相変わらず、真田家・江戸藩邸に用達をつとめている三倉屋徳兵衛から、ある浪人を 一人、真田家で召し抱えていただきたい、との申し入れがあった。 召し抱えた武士は、大沢源七郎といい、三河・刈屋の浪人で47歳。でっぷりと 肥えた堂々たる風采で、目見得に伺候したときも立派な服装であったし、文武に 通じてもいる。妻はあるが、子は一人もなかった。 しばらくして・・・。 三倉屋徳兵衛が、柳橋の料亭[中村]へ、駒井理右衛門を招待した。 「ときに三倉屋。十余年前の・・・あのときの踊り子はどうしておるな?」 「亡くなりましてございます」 「なんと?」 「男の子を生みましてから、間もなく・・・はかないものでございますなあ」 「男の子が、生まれた・・・どこにいる?」 「それは、もう、すんだことでございますよ」 「なれど・・・かのお子は、殿のお子じゃ」 「はい」 「きかせてくれい。わしの胸ひとつに、しまっておきたい」 駒井は、おぼえず泪ぐみ、われながら老けた、とおもった。 そうした駒井理右衛門の顔を凝視していた三倉屋徳兵衛が、 「私、去年の春に、跡つぎの子を亡くしまして・・・」 「それは、きいた」 「そこで、このたび、養子を迎えました。名は豊太郎。年は13・・・」 瞬間、駒井の脳裡に、ひらめくものがあった。 三倉屋は落ちつきはらい、 「私方へ養子に入る前の豊太郎は、大沢源七郎さま御夫婦が養育いたしくれました。 豊太郎は大沢さまを実の親とおもうております」 2年後。 すなわち、元文元年(1736年)の12月27日。 真田伊豆守信弘は、国許の松代の居城において、67歳の生涯を終えた。 これより先、信弘は死期をさとるや、急使を江戸藩邸へ派し、駒井理右衛門を 松代へ呼び寄せた。 御殿内の病間に、真田信弘は駒井を待ちかねていた。 人ばらいが、なされている。 しかし、一人だけが信弘につきそっていた。 これが、去年から信弘の侍臣として、この松代へ移った大沢源七郎であった。 「お・・・理右衛門か」 「ははっ」 「ようぞ、間に合うてくれた。死ぬ前に、ひと目、会いとうての・・・」 「おそれいりまする」 信弘の病みおとろえた老顔には、 (やれるだけのことはやった) という満足感がただよっていたが、急に顔色をひきしめ、 「わしのあとは、信安がつぐことになるが・・・」 と、いった。 「理右衛門。それに源七郎、くれぐれもたのむぞよ」 と、いうのである。 「大沢源七郎は、かつて、わしが子の養い親であった男じゃ」 駒井理右衛門は、脳天をなぐりつけられたようなおもいがした。 伊豆守信弘が、さらにいった。 「理右衛門。わしはな、妙と別れる前に知っておったのじゃ。妙が、わしの子を 身ごもったことを、な」 「すりゃ・・・?」 「妙はのう、三倉屋へ打ちあける前に、わしへ打ちあけたのじゃわえ。そこで、 わしも、身分やら何やら、すっかり妙に打ちあけた。たがいに、何も彼も、 ゆるし合うた間柄ゆえ、な」 「むう・・・」 「打ちあけた上で、生まれる子を手許に引きとれぬわしの苦しみをも語った。妙は、 ようわかってくれた。そのときふたりは、別れ別れになることを覚悟したのじゃ」 ことばもなく、駒井はうなだれた。 「なれど・・・たのしき夢であった・・・」 「うれしかった・・・礼をいうぞよ、理右衛門。このことを、み、三倉屋へも、 よしなにつたえ・・・」 いいさして伊豆守信弘は、急に昏睡状態となり、以後、3日をそのままにねむり つづけ、安らかに息絶えたのであった。 信弘の杞憂は適中した。 信安は、かねてから寵愛していた原八郎五郎という家臣を抜擢し、折から起こった 領内の大水害の復旧にあたらしめた。 治水工事に大成功をおさめたものだから、殿さまの信安の権力が急激に増大した。 真田家では、いよいよ殿さまが、好き勝手なことをやりはじめる。 ながい間、祖父や父と共に倹約生活に堪えてきただけに、いったん藩主としての 実権をつかむや、信安は、いままで鬱積していた享楽への欲望が猛然とうごき 出したようだ。 原八郎五郎は、すでに千石の家老職となっていて、殿さまの信安と自分のすることに 反対するものは、どしどし押しこめたり、役目をとりあげたりしてしまう。 ところで・・・・。 あの三倉屋徳兵衛が亡くなったのも、このころであった。 徳兵衛亡きのちは、養子の豊太郎が家をつぎ、七代目・三倉屋徳兵衛となって、 立派に家業をつづけてもいるし、依然、真田家の用達をつとめていた。 信安は、享楽におぼれつくしたむくいで、すっかり躰をこわしてしまい、重病 となった。 一大事である。 信安の跡つぎは豊松といい、ときに13歳。もしも信安が死んだ場合、かねがね、 真田家の内情をこころよくおもっていない幕府は、 「豊松は幼年ゆえ、家督相続はむりである」 との理由のもとに、真田十万石を没収する意向であった、といわれている。 正義派が起ちあがった。 家老の恩田民親、望月治部左衛門が先頭に立った。 こうなると、留守居役の駒井理右衛門もいそがしくなる。 先代の理右衛門におとらぬほど、いまの理右衛門も外交官として優秀な人物であった。 駒井は運動を開始した。 そこで、 「たのむ、三倉屋」 駒井は、たまりかねて三倉屋徳兵衛へ借金を申しこんだ。 三倉屋徳兵衛は、このとき以来、江戸家老の大熊靭負や駒井にたのまれ、一種の 財政顧問として、かげながら、いろいろと相談をうけるようになった。 真田藩をあげての協力が実をむすび、伊豆守信安が亡くなったのち、豊松が 後をつぎ、真田伊豆守幸弘となったのは、宝暦2年6月10日である。 これよりのち・・・。 真田藩は、家老・恩田民親が[執政]となり、藩政改革をおこなって成功した。 宝暦6年の10月12日。 大沢源七郎が、松代の自邸において病没をした。 これで、三倉屋徳兵衛の出生の事実を知るものは、すべて絶えたのである。 |