真田太平記
Ocean Breeze

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♪Ocean Breeze♪

真田太平記 第1巻『天魔の夏』



天正10年3月、織田・徳川連合軍によって戦国随一の精強さを誇った武田軍団が滅ぼされ、宿将真田昌幸は上・信二州に孤立し、試練の時を迎えることになる。

   「明日は、お前、死ぬる身じゃな」
急に、女のささやきがきこえた。
槍を両腕に抱いたまま、ようやく、仮眠の中へ分け入ろうとしていた向井佐平次の耳朶へ、女の熱い息がかかり、
   「死ぬる前に、女の身体、抱きとうはないかえ・・・・」
と、いう。
闇の中で、なまぐさいまでにただよう女の濃密な体臭には、血の匂いも混じっているかのようだ。
「もし・・・」
あっとおもう間もなく、女の声が、佐平次の背中のあたりにせまって きていた。
あの、何ともいえぬ濃い体臭が、佐平次の鼻腔へながれ入ってくる。
「わたしが、嫌いかえ?」
「去ね」
「ま・・・強いこと」
「何の用だ?」
「たのまれて・・・」
「たのまれて、おれを・・・?」
「その、お人はな、佐平次どの。お前さまを、ここで死なせとうは ないと、いうていなさる」
と、女・・・お江がささやいてきた。

暗い闇の底で、亡くなった母の声がきこえている。
遠く微かに、
「佐平次・・・佐平次・・・」
と、よんでいる。
(おれは、死んだのだ・・・)
死の世界へ踏み入った自分を、亡母が迎えに来てくれたのか。
「これ・・・これ、佐平次どのよ。佐平次どの・・・」
急に、母の声が、耳の中へ飛び込んで来た。
「あ・・・」
眼がひらいた。
空が見える。
星がきらめいている。
夜空であった。
「これ、気がついたか・・・」
「あっ・・・」
おどろいて身を起こそうとしたが、激痛が全身に疾り、佐平次はうめいた。
織田信忠に攻め落とされた高遠城の北口にあたる崖下の川の中に落ちていた 向井佐平次は、真田家の草の者のお江に助けられた。

岩壁に穿たれた穴から湧き出している温泉は、板と丸太を組み合わせた 四坪ほどの浴槽から惜しげもなくあふれていた。
ふとい柱にささえられた板屋根の浴舎は、まことに素朴なものだが、 この温泉のゆたかさ、すばらしさは向井佐平次にとって、瞠目すべき ものであった。
はなしには聞いていても、温泉に身をひたしたことは、かつて一度もない。
(これが、地から湧き出る温泉というものか・・・)
日に二度ほど、温泉へ身を沈めにるたびに、感嘆せずにはいられない。
(いで湯とは、まことに、ぜいたくきわまるものだ)
であった。
浴舎には、温泉の硫黄の匂いが、湯けむりとともにたちこめていた。
(いまごろ、お江どのは、何処にいるのだろうか・・・?)
このことを、おもわぬ日はない。
温泉に入るたび、物を食べるたび、ねむるたび、起きるたびに、佐平次は お江のことをおもいうかべる。
お江と別れてから、十日ほどが経過していた。

明るんでいた窓が湯けむりを吸いあげているように見えたのが、いつの間にか、白い湯けむりだけが窓の口をふさいでしまったかのようにおもえた。
夕暮れが来たのだ。
浴舎の中が暗くなり、
(小助どのは、どうしたのか・・・?)
佐平次は湯壷から出て、窓へ近づいて行った。
夕闇が意外と濃い。
と、そのとき・・・。
音もなく、浴舎へ入って来たものがある。
出入りの戸口は、いま、佐平次が顔をのぞかせている小窓の反対側にあった。
そこから、一人の男が入って来た。
佐平次は男に背を向けている。
まったく、気づかない。
どれほどの時間がすぎたろう。
「おい・・・」
たまりかねたように、男が声をかけた。
「あっ・・・」
振り向いた佐平次が驚愕の叫びを発した。

こうして・・・。
昨日、別所の湯壷の中で真田源二郎と出会ったことが、向井佐平次の生涯を 左右することになる。
もしも、このとき、源二郎が佐平次の目の前にあらわれなかったとしたら、 たとえ、真田家へ奉公をするようになったとしても、向井佐平次の一生は、 おのずから、
「別のもの・・・」
と、なったにちがいない。
それほどに、これからの真田家の行く手は激動をはらんでいたのである。

別所の湯で、向井佐平次に出会った源二郎信繁は、16歳とおもえぬことを言い出した。
「おれと、お前とは、いつの日か、いっしょに死ぬるような気がしてきたぞ」
なんと答えてよいものか、佐平次にはわからなかった。

この二人の主従の関係が、これから、この物語の引きつける所になるかもしれません。
武田家滅亡により、武勇と智謀に長けた真田昌幸は天下の情勢を探る為、 草の者(忍びの者)たちを四方に飛ばせ、新しい時代の主・織田信長にいったんは 臣従するが・・・・・・






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