|
方広寺は、太閤秀吉が、 「わが子の繁栄を・・・」 祈るため、奈良の東大寺の旧規を参考にし、また鎌倉の大仏を写して本尊とし、金銀を惜しまずに造営したものだ。 それが、慶長元年の大地震により、本尊の十六丈におよぶ大仏が 倒遺してしまった。 秀吉は、心にかけながらも、大仏の再建に手をつけることなく、 世を去った。 その太閤の遺志を奉じて、 「豊家の繁栄のため、大仏を再建なされては・・・」 と、家康が淀の方と秀頼にすすめたのである。 この方広寺の鐘銘に、「国家安康」と、「君臣豊楽」の文言があった。 この文言に、徳川家康が激怒したらしい。 家康は、召し抱えている御用学者に理屈をつけさせ、むりやりに 難題を吹きかけたのだ。 こうして、家康は強引に豊臣家を開戦に追い込んでいった。 それを知った真田幸村は、九度山を密かに抜け出て大坂入城を 果たした。 それにあわせたようにして、向井佐平次も沼田を出奔した。 妻、もよは、佐平次の胸の内を読み取ったように、旅仕度をしておいた。 「お前は、何でこのような・・・」 うめくがごとく、いいかけるのへ 「これが、おのぞみでありましょうが・・・」 ずばり指摘され、佐平次は声を失った。 向井佐平次は出奔する決意に、ためらいはなかった。 「東西の手切れ」 を、耳にした刹那に、 (かならず、左衛門佐様は大坂の御城へ入られる) と、おもい (わしも行かねばならぬ) 当然のように、こころが決まった。 長年にわたって、左衛門佐幸村の側近く仕えた日々が、いまは何より も重く、佐平次の全身を抱きすくめている。 大坂へ入城した真田左衛門佐幸村は、惣構えの南の外に、 真田丸 と名づけた出丸(小さな砦)を築いた。 幸村は、大坂入城を決意し、九度山にいたころから、自分が自由自在に 戦える(出丸)のようなものが欲しいと考えていた。 押しのぼって来る関東の軍勢を途中で喰いとめるために、出撃することに なれば別のことだが、篭城戦となった場合、だれにも邪魔されずに、 (おもうさま、戦ってみたい) このことであった。 伊木七郎右衛門が、幸村の陣屋へ入って来て、 「真田殿の家人と申したてる旅の男が、船場口の木戸へあらわれまいた」 と、いった。 咄嗟に幸村は、 (佐平次じゃ) 直感したのだ。 幸村の口辺に、ほろ苦い微笑がただよっている。 旅の男が土間へ片膝をつき、真田幸村へ、 「佐平次、ただいま到着」 と、いった。 まさに、向井佐平次である。 佐平次は板敷の隅の棚へ行き、荷物をほどきはじめた。 まるで、あれからの15年を幸村と共に暮らしつづけてきたような物腰 である。 その背中に凝と見入ったまま、左衛門佐幸村は身じろぎもせぬ。 かつては、幸村の影のように付きそっていた佐平次なのだ。 その主従が、15年ぶりに対面したというのに、主も家来も感動を おもてにあらわさぬ。 というよりも、これを当然のものとして受けとめているのであろうか。 |