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元和元年の暮れも押しつまった或る日の夕暮れに、依然として
京都屋敷の留守居役をつとめていた鈴木右近忠重が、3名の従者
と共に、沼田城へ到着をした。 この知らせを受けたとき、真田伊豆守信之は、 (何ぞ、異変が起こったらしい) 直感をした。 それでなくては、鈴木右近自身が沼田へ急行して来るはずがない。 「これを・・・」 かたわらに置いてあった物を、鈴木右近が丁重に両手で取りあげた。 真新しい白絹に包まれた、細長い箱のようなものだ。 箱に添えて、一通の手紙がある。 手紙は、京都の小野のお通から真田信之にあてたものであった。 白絹をひらき、中の物を見て、真田信之が愕然となった。 しばらくは、声も出ない。 中には、ひとにぎりの髪の毛が入っていたのである。 よくよく見ると、その髪には、いくらか白いものがまじってい、 血や泥のようなものがこびりついているではないか。 伊豆守信之の面からは、血の気が引いてしまった。 弟・左衛門佐幸村の遺髪が、どのようにして、小野のお通の手へ わたったのであろうか・・・。 手に取った遺髪を白絹に乗せたまま、わが膝の上へ置いた信之は、 小野のお通からの手紙を、もどかしげにひらいて見た。 「左衛門佐様の御遺髪を、お届けいたします」 とのみ、したためてあるだけで、そのほかには何の感慨も書きのべて なかった。 鈴木右近忠重が地炉ノ間から出て行ってからも、真田信之は炉端からうごかぬ。 左衛門佐幸村の遺髪を見つめてまま、信之は化石のようになってしまった。 伊豆守信之は、幸村の遺髪を胸に抱きしめるようにして、 「源二郎・・・」 と、弟の前名をよび、瞑目した。 元和2年の4月に入ると、大御所・徳川家康は、ほとんど食欲をうしない、 半身を起こすこともできなくなった。 それでいて、連日のように諸大名や重臣たちを枕頭へよびよせ、遺言を あたえている。 翌17日の朝、徳川家康は昏睡状態となり、75歳の生涯を終えた。 真田伊豆守信之が、信州・上田の本城へ帰ったのは、元和2年の秋であった。 これが、亡き大御所・徳川家康のはからいであったことはいうまでもない。 上田城は、荒廃しつくしていた。 石垣は旧態をとどめていたけれども、櫓などの防備施設の大半は、徳川の手によって打ち壊されてしまった。 徳川家康が亡くなった後、あきらかにではないが、将軍秀忠と幕府の、 真田家へ対する視線が、 (変わった・・・) ように、真田信之は感じとった。 年があらたまると、真田信之は、上田城下の再建に心をくだいた。 (あの、草の者たちは、いかがしたであろう?) 時折、真田信之は、お江や向井佐助、横沢与七などの顔を想い浮かべる ことがあった。 (あの者たちが、すべて、息絶えたとはおもわれぬ) 真田の庄の〔草屋敷〕は、徳川家が上田城を管理している間に、すべて 打ち壊されてしまった。 そもそも、真田伊豆守信之と草の者との関係は、さして深いものでは なかった。 なんといっても、草の者は、真田昌幸・幸村父子のために、 「存在した」 と、いってよい。 これまで、何も手がかりがないうちに、早くも、大坂落城して丸2年の 歳月が過ぎ去っている。 (もはや、何も彼も、あきらめねばなるまい・・・) いま、別所の湯壷に身を浸していながら、お江は、 (私一人が、とり残されてしもうた・・・) さすがに、虚しさがこみあげてきて、居ても立ってもいられぬような 寂寥感に抱きすくめられた。 だからといって、草の者の、女忍びの自分が、これから何をしたら よいのかというと、 (何もない・・・) のである。 わが家もなく、家族もなき、草の者として目ざすものは、すべて消え果ててしまった。 (なれど昨日は・・・) と、お江は湯壷の中で、久しぶりに微笑を浮かべた。 昨日は、おもいもかけず、この浴舎で馬場彦四郎に出会った。 しかも彦四郎が、お江を犯そうとして飛びかかって来た。 お江としては、馬場彦四郎という男が、関東方によって真田家へ潜入させた スパイだとしか考えられぬ。 それと知らずに、 (伊豆守殿が召し使うておられるのか・・・) そうおもうと、苦笑せざるを得ない。 (あの馬場彦四郎という男、ちょと弄うてくれようか・・・) 長い間、お江の胸底に眠っていた徒ごころが、勃然と頭を擡げてきた。 突然、信之は目ざめた。 何故か、わからぬ。 寝間の一隅に、人の気配を感じたというよりほかに、いいようがない。 「何者じゃ?」 しずかに、よびかけた。 「久しゅうござります」 「お江にござりまする」 「何・・・」 お江が生きているとはおもえなかっただけに、信之はおどろいたのだ。 「御屋形様。お江は死に損ねましてござりまする」 「近う寄るがよい」 「おやすみのところを、おさわがせいたしまして・・・」 「何の、かまわぬ。それにしても、よう生きていてくれたことよ」 口先だけではない。 信之の声には、真情がこもっていた。 「大坂の戦陣にて、左衛門佐のために、ずいぶんとはたらいてくれたのであろうな。わしからも礼を申す」 「いえ、何のはたらきもいたしませなんだ」 「実は御屋形様。馬場彦四郎殿を捕らえ、このようにあつかいましたのは、 いささか、わけがござりまする」 「・・・・・?」 「このことにつきまいては、何年にも前にさかのぼりまする」 「明夜、あらためてまかり出まする」 伊豆守信之は、呆然としている。 およそ20年に近い歳月を経て、いまここに、お江と再会したことになる。 (お江は、何歳になっているのか?) 徳川秀忠は、信之の側近として送り込んだ、隠密の馬場彦四郎を使い、 大坂冬の陣の前後に幸村と密会した事実を突いて、取潰しに追い込もうとした。 しかし、お江の活躍によって、信之は難をまぬがれる。 信濃の上田にも春が来た。 桜花もほころびはじめた或る日の午後のことであったが、上田城・三の丸の 城門へ、30前後の旅の男があらわれた。 向井佐助の最期を見とった摂津の農夫が届けた遺品は、無名の短刀が一振りと、佐助の遺髪であった。 間もなく、もよが伊豆守信之の居間へあらわれた。 「御屋形様。お目を汚しますことは恐れ多いことでござりますが、この品を、ごらん下されませ」 もよは、真新しい白布に包まれた、向井佐助の形見の品々を信之の前へ差し出した。 ただし、遺髪は除いてある。 「もよ。見るがよい。この血汐の痕を・・・」 もよは、こたえず、頭を伏せた。 突然、伊豆守信之が胸にこみあげてくる激情に耐えかねたように、 「さ、左衛門佐も、向井佐平次も、これほどに血汐を・・・」 いいさして、絶句してしまった。 元和8年の8月、登城した信之へ、将軍秀忠は、みずから、上田から信州・松代へ国替えを申しわたした。 10月19日の朝。 真田信之は上田城を発し、松代へ向かうことになった。 新領主として信之が入部する松代の城は、上田から約十余里。千曲川に沿って北上し、善光寺平をのぞむ山裾にある。 松代城は、むかし、海津城とよばれ、武田信玄が、上杉謙信との決戦にそなえて築いた平城である。その川中島の決戦には、伊豆守信之の祖父・真田幸隆も武田方の戦蒋として参加していたことを思えば、 「因縁じゃのう」 という言葉が、信之の口から洩れたのも、当然であったろう。 武田家が滅亡して、早くも40年の歳月が過ぎ去った。 40年前には武田家の旗の下に在った真田家が、いま、武田信玄の築いた 城の主となる。 真田信之の感慨も、そこにあった。 信濃の国には、もう冬が来ていたが、真田信之の上田出発の日は、あたたかに晴れわたった。 伊豆守信之は、駕籠乗り物で松代へ向かうことにしていた。 ところが、出発の朝になってみると、上田城の門外から城下町、さらに街道へかけて、城下の町民たちや領民がひしひしと詰めかけ、上田に別れ去る領主の真田信之を、見送ろうとしているというではないか。 伊豆守信之は、茶の小袖に、六文銭の家紋が入った黒の肩衣をつけ、玉松と名づけた葦毛の愛馬に乗って城門を出た。 真田昌幸以来、30余年にわたる真田家の善政をよろこんでいただけに、やがて来る新領主の政治に不安を抱く町民たちの、伊豆守信之を慕う心が期せずして、泣き声になったのであろう。 伊豆守信之は、微笑と慈愛の眼ざしをあたえつつ、ゆったりと馬に揺られて行く。 町民の群れの中に、お江と住吉慶春の姿があった。 二人は、信之の後から松代へ移住することになっている。 信之は馬上から、お江へうなずいて見せた。 馬上の信之へ笑いかけた、お江の歯が白い。 (ふしぎな女よ・・・) 信濃の山々には新雪が下りていたけれども、空は一片の雲もなく晴れわたり、 午後の日ざしが川中島の盆地にへ、おだやかにみちわたっている。 真田伊豆守信之の行列は、保基谷・高遠の山脈に抱き込まれたかのような松代の城下町へ、しずかにすすんで行った。 |