| 天下統一をなしとげた豊臣秀吉は、これまでとは人柄も変わったようになり、無謀な朝鮮出兵を号令する。 出征の多忙と興奮を一人で味わっているかのような太閤秀吉の両眼は, 光るよりは血走っている。 「夜な夜な、よう眠れぬので困る・・・・・」 秀吉は山中長俊に洩らした。 秀吉が、何か目にみえぬ魔性のちからによって、われ知らず底も知れぬ深淵へ 身を投げ込もうとしているかのように、長俊の目には映ったのである。 (いまここで、殿下に出陣のことを思いとどまらせることができぬか・・・・?) 山中長俊は聚楽第の〔御焼火の間〕で最後の諫言をこころみた。 すると秀吉は、恐ろしい目つきになって猛々しく 「そちの口さしはさむところではない!」 と叫んだのだ。 長俊は、(あっ・・・・・) と思った。 このように一方的に自分を面罵する秀吉を見たことがない。まるで、秀吉は別人のように思われた。 山中長俊は、姿を変え一陣の風のごとく外へながれ出た。 そのまま長俊は、甲賀へ向かってすすみはじめたのだ。 甲賀忍びの頭領・山中俊房は、秀吉の御伽衆である従弟の山中長俊に徳川方への加担を説く。 ちょうどそのころ・・・・・ 山中屋敷に近い若宮八幡境内の椎の大樹の枝にうずくまっている人影を見ることが出来る。 真田の草の者・お江であった。 若宮神社の境内に、雪が薄くつもりはじめた。 雪がつもれば、いよいよ、お江は不利となる。 境内の闇が、いままでとはちがったものになった。 闇の中にこもる殺気が、こちらへ向かって押して来るのだ。 ここに甲賀忍びと真田の草の者との凄絶な戦いが開始され、壷谷又五郎や 女忍者お江の常人には推しはかれない活躍が繰り広げられる。 それからのことを、お江はよくおぼえていない。 自分を包み込み、押し潰してしまおうとする闇の圧力をどのように はね返して、若宮神社の境内を脱出することができたのか、まったく 記憶がなかった。 (ああ・・・もう、いかぬ・・・) 気がついたとき、お江は躰に数ヶ所の手傷を負っていた。 (もはや、これまで・・・) お江は覚悟をした。 敵の手へかかる直前に、わが手の短刀を心ノ蔵へ突き通せばよい。 お江の右手は血と脂で短刀の柄へ粘りついていた。 (私の息の根が絶えても、この手から短刀は離れまい) 闇の中で、お江は不敵な笑いを浮かべてみた。 「笑ってみるのがよいのだ」 と、お江は亡父の馬杉市蔵から教えられたことがある。 つまり、悲嘆や絶望に直面したときは、それにふさわしい情緒へ 落ち込んではならぬというのだ。 「笑いたくなくとも、先ず、笑ってみるのがよいのだ」 市蔵は、そういった。 これまでに、亡父の、この言葉を何度も実践してきているお江であった。 (あ・・・) うすれかかる知覚の底で、お江は本能的に、自分へ肉薄して来る者の 気配を感じとった。 だが・・・。 お江は横ざまに倒れ、そのまま、気をうしなったのである。 暗い。 その暗さは、紙を墨でぬりつぶしたようなものでもなく、夜更けの 闇のようなものでもない。 (あ・・・) 完全に意識をがよみがえった瞬間、お江の全身が烈しく痙攣しはじめた。 (ああ・・・私は、生きている・・・) 老いた男の顔が眼前に微笑していた。 「この顔を見忘れたかな、お江どの・・・」 「あ・・・」 田子庄左衛門は、お江の父・馬杉市蔵たちと共に、甲賀の山中大和守から 武田家へ派遣された忍びの者の一人である。 「さて、これからが、むずかしいわえ。うまく、おぬしを逃がすことができればよいのじゃが・・・なかなかに、むずかしい」 「私を・・あの、私を逃がして下さると・・・?」 「どうじゃ? 傷が痛むかな・・・?」 お江は、かぶりを振って見せた。 かぶりを振りながら、熱いものが、とめどもなく目の中からふきこぼれてくる。 (私が、このように、泪をながしたのは何年ぶりのことであろう・・・) 悲しいのではない。 30をこえた女忍びに、突如として甘え心が生まれたのだ。 老いた田子庄左衛門に、亡父・市蔵の面影を見たのであろうか・・・。 お江が生きていて、甲賀を脱出し、壷谷又五郎の手許へもどったことを 真田昌幸が知ったのは、この年も初夏に入ってからであった。 この知らせを、肥前・名護屋の真田陣所へもたらしたのは、壷谷又五郎自身である。 「田子庄左衛門殿という甲賀者があればこそ、お江は逃げもどることができ申した」 「田子・・・」 「むかしは、お江の父と同様に、甲斐の国へ来て、はたらきおりました人で ござります」 「ほう・・・」 「まず、お聞き下され」 と、又五郎がすべてを語った。 「まず、よかったわえ・・・」 ようやくに真田昌幸の顔が笑みくずれてきて、 「これよりは、お江を大事にしてつかわせ。女の身で、忍びのはたらきを させることが、あわれにおもわれる」 又五郎は、こたえなかった。 「なれど・・・」 昌幸がいいさしたとき、幸村が入って来た。 「幸村、実は、な・・・」 と、昌幸が、いま、又五郎から聞き取ったばかりのことを語るや、めずらしく 幸村が激昂した。 源二郎幸村は、お江の危難について、何も知らなかった。 それにしても、草の者の一員であるお江に、幸村がこれほどの関心を しめそうとは、昌幸と又五郎にとっても意外のことであった。 又五郎ほどの男が、若い幸村の気迫と怒りに圧倒されてしまい、いいわけの 言葉も出ぬ。 (それにしても、いささか・・・?) 異様なものを、又五郎は感じ取った。 (お江は、源二郎様を抱いたのではないか・・・?) ふと、おもった。 (おそらく源二郎様は、生涯、お江の肌身を忘れることができまい) と、又五郎はおもった。 |