真田太平記
穏やかな日々

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♪穏やかな日々♪

真田太平記 第6巻 『家康東下』



この年、慶長5年をもって、壷谷又五郎は、
「50歳をこえました」
と、真田昌幸に洩らした。
真田家では、又五郎を、
「妻も子もない人・・・」
と、見ている。
事実、いまの又五郎に妻子はない。
武田信玄に仕えていたころの壷谷又五郎を知らぬ真田家の人びとゆえに、 そうおもうのも当然であろう。
しかも壷谷又五郎は、忍びの者であったから、その秘密を知る者とてないはずだ。
ときに、又五郎自身も、
(あのころの・・・むかしの、わしの仕てのけてきたことが、わしのことでは ないような・・・)
心持になるのであった。

又五郎は、信玄の側近く仕えるようになったわけだが、そのうちに 信玄の目をぬすみ、侍女の於布以と密会をするようになった。
ただ、又五郎のほうから於布以に手をさしのべたのでないことはたしかだ。
そして、於布以は又五郎の子を身ごもったのである。
そのとき、武田信玄の寛大な処置がなかったなら、壷谷又五郎は、
「ふとどき者・・・」
として、処刑されていたやも知れぬ。
生まれた子は丈夫であったが、於布以は産後に高熱を発し、間もなく、 18歳の生涯を終えた。
「小坊主が、子を育てるわけにもまいるまい」
信玄は苦笑し、又五郎の父とはかり、生まれた子を他家へわたすことにした。
その子こそ、向井佐平次であった。

それが、18年前の高遠落城の折に、お江と共に戦忍びとして城中に入った 又五郎は、絶滅を覚悟の城兵の中に向井佐平次を見出した。
(あっ・・・)
と、おどろき、一瞬のちに、
(何としても助けてやらねばならぬ)
又五郎は決意をかため、佐平次救出のことをたのんだのである。
それにしても、あのとき、いまや死にのぞもうとしているわが子に対し、 突如として壷谷又五郎の胸底から湧き起こった激しい情念は、又五郎自身が、
(おもいもかけぬ・・・)
ことであった。
以来、二人ともに真田家へ仕える身となって、又五郎の父親としての愛は、 いよいよ、ぬきさしならぬものとなった。
そのおもいを、さすがに又五郎はおもてにあらわさず、人にも察知されていない。
壷谷又五郎にとって、向井佐平次がわが子なら、佐平次ともよとの間に生まれた 佐助はどうなのだ。
孫ということになるではないか・・・。
いや、まさに、
(佐助は、おれの孫・・・)
なのである。
(おれの孫が、おれの跡を継ぐことになるのか・・・)
又五郎は、そのときの歓喜と、不安とが綯い交じった昂奮を、いまだにおぼえている。
(佐助が草の者になれば、佐平次に代わって、わしが育てることになる・・・)
その、よろこびに又五郎は抗しきれなかったのであろうか。

幼い秀頼と豊臣家の行方を安じつつ秀吉が亡くなると、徳川家康は 朝鮮の役での文治派(石田三成・小西行長等)と 武断派(加藤清正・福島正則等)の対立を巧みに操りつつ豊臣家を 分断していく。
5大老の一人、前田利家の死後さらに徳川家康の権力は増大していく。
そして、上杉景勝を撃つべく家康が会津に兵を進めると、 上杉景勝と呼応した石田三成が決起する。
ここに、東西決戦の陣形が定まる。

石田三成は大谷吉継・平塚為広の参加を得て勇躍し、西軍の総帥に 毛利輝元をいただくことにした。
のちに、このことを聞いた徳川家康は、
「さてこそ・・・」
にんまりと笑いをこぼしたという。
毛利輝元という大名の性格を、家康は、ことごとく、わきまえて いたのであろう。
徳川家康の目には、47歳の毛利輝元が、
「苦労を知らぬ青二才」
にもみえたろう。

大谷吉継を通じて、石田三成の決起を知った壷谷又五郎が、 これを安房守昌幸へ急報した。
徳川家康は、豊臣家の大老という安堵を振り切り、敢然として、 わが最後の賭に立ちあがった。
59歳の老年に至り、まだ、心身に残存する精力がつきぬうち、
「天下をわがものに・・・」
と、立ちあがった。
(なるほど、さすがに内府じゃ)
真田昌幸は、老いた家康の闘志に瞠目した。
同時に、54歳の自分の躰の血が滾ってくるのを、どうしようもない。
何故に、これほど血がさわぐのか・・・。
昌幸にも、よくわからぬ。
ただ、ひたすらに血がさわぐ。
胸が躍ってくる。
奥庭へ走り出てきた家来が、
「ただいま、石田治部少輔様よりの御使者が、到着なされまいた」
と、告げた。
昌幸と幸村は、眼と眼を見合わせた。
幸村の口元に、微かな笑みがただよっている。

この重大局面にあたって、真田父子は会津出陣の途上で一夜の会談をした。
昌幸は
「親子三人、こうして語り合うは太閤殿下の名護屋御陣のことであろうか」
「まず父上より・・・・」
と、信幸が昌幸の盃へ酌をした。
ついで、信幸の盃へ幸村が酌をし、つぎに幸村の盃へ信幸が 酌をしてやった。
このさまを、安房守昌幸が凝と見つめて
「これが別れの盃にならねばよいが・・・・・」
だれにいうともなく、つぶやくようにいった。

離れ屋には、まだ声が無かった。
突然、稲妻が疾った。
真田親子は雷雨をはさんだ長い長い沈黙が過ぎてしまうと、
「もはや、語ることもない・・・・・」
ようなおもいになっていた。
伊豆守信幸のあくまでも徳川家康に従って今度の大事を切り抜ようと する決意は、その静穏な顔の色にはっきりと看て取れた。
また、父昌幸が上杉景勝と石田三成に与して戦おうとする決意も、 この時は
もはや
「うごかしがたい・・・」
までになっていたのである。
ややあって伊豆守信幸が、盃を口に含みつつ、
「左衛門佐・・・」
と、よびかけた。
「はい」
「おぬしは、何とする?」
「父上と共に・・・」
「さようか・・・」
左衛門佐幸村は、このとき、信幸へ酌をしながら、
「父子兄弟が、敵味方に別れるも、あながち、悪しゅうはござるまい。のう、兄上」
「そうか、な・・・」
「私には、まだ、おのれの城もありませぬ」
「それが、どうした?」
「なれば、父上亡きのち、上田の城が欲しいのでござる」
「さようか・・・」
兄弟は、たがいに、たがいの肚の内を一瞬のうちに読み取っていた。
幸村の言葉の底には、別のものが隠されている。
この、人の情が濃やかで、しかも深い、弟の性格を伊豆守信幸はよくよく わきまえていた。
左衛門佐幸村にとっては、
「天下の事などに、さして関心はない・・・」
といってもよいのではないか。
おのれの五体にみなぎる情熱のままに生きる。
これが幸村の本然なのであろう。
そこに、
(弟の生きざまの、美しさがある)
と、信幸はおもっていた。
「父上。では、これにて・・・」
「もう、行くか」
「はい」
「何も申すまい。おもうままにいたせ」
「かたじけのうござる」
昌幸へ一礼した信幸が立ちあがり、離れ屋を出て行った。

昌幸と幸村は徳川軍団を離れて上田城に帰り、信幸は留まる。






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