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徳川家康の上洛はいよいよ目前にせまった。 ”明年は上洛なさるべし”と大坂城の豊臣秀頼へ申し入れている。 これに対し、豊臣家ではまだ返答していない。 加藤清正は、高台院(豊臣秀吉の正妻)とも密接に連絡を とりながら、秀頼上洛の実現に懸命である。 加藤清正は戦乱を望んではいない。 加藤清正は熊本城を恐るべき実践用の名城として築いておき、これを盾にして、 どこまでも平和のうちに豊臣家の温存をはかるつもりである。 そうだとすると、もはや真田父子は九度山に埋もれつくし、 不自由と倦怠のうちに生涯を終えてしまうことになる。 そこへ、本多忠勝死去の報が入り、赦免の望みも消えた。 暁の薄明が、下久我の忍び宿の中二階の小部屋にただよいはじめている。 「このまま、手をつかねていては、じりじりと息の根を止められて しまうのを待つのみとなりましょう」 奥村弥五兵衛の声には、かつてないほどに異常の決意がこもっている。 「ふむ・・・」 微かにうなずいて、お江が弥五兵衛を見た。 弥五兵衛の両眼が、水の底のような暁闇の中にきらりと光った。 「大御所の首をはね切ってくれましょう。いかが?」 「・・・・」 お江は瞠目した。 弥五兵衛は、草の者を自分が指揮して、徳川家康を暗殺しようというのだ。 翌日、下久我の忍び宿から、旅姿の奥村弥五兵衛が東海道を登って行った。 紀見峠の忍び小屋の板壁の透き間から、わずかにながれ込んでくる風に、 燃えあがった粗朶の焔がゆらめいた。 左衛門佐幸村が粗朶を、くべている背中から胸へかけて、お江のふとやかな、 双腕が巻きついている。 幸村は、身を横たえたまま、新しい薪を囲炉裏へくべた。 お江が深いためいきを吐き、吐いた唇を幸村の背へ押しつけてきた。 幸村は、そのままの姿勢で、囲炉裏の焔に見入っている。 お江の重たげな乳房や、腹や腰が幸村の背面へ密着してきた。 真田幸村は、この日の夜を紀見峠の忍び小屋へ泊まった。 そして、徳川家康暗殺の是非を、お江へ説いた。 戦の最中ならばかまわぬ。 というよりも、関ヶ原の折と同様に、奔放きわまる奇計によらねば、 家康を討つことはむずかしい。 しかし、徳川の天下のもとに、少なくとも平穏の日が保たれている ときの暗殺は、 「沼田の兄上のみか、真田家のすべてに害をおよぼすこと・・・」 に、なる。 それは自分も、父・安房守昌幸も好むところではない。 このことを、かんでふくめるように説いたのであった。 お江は、返す言葉もなかった。 「そなたは、口に出しきれなんだのであろう。ゆえに、わしから申した」 と、幸村がいった。 幸村は昨夜、熟考の果てに、お江と弥五兵衛が最後の機会と看て、 家康暗殺の計画を立て、これを自分へ告げに来て、ゆるしを得ようと しているとおもい至った。 そこのとこるが、食い違っていたけれども、お江たちの胸底に潜むものを 看破したのは、さすがに、草の者の真髄を知りつくした左衛門佐幸村で あった。 お江がひれ伏して、嗚咽をもらしはじめた。 お江が、泣いている・・・・。 泣くお江を、幸村もはじめて見た。 「もうよい。泣くな」 「は・・・」 お江は、すでに、奥村弥五兵衛が奇襲の場所をえらぶため、東海道を 江戸へ向かったと幸村へは告げていない。 (なれど、これまでじゃ) と、観念をしたようである。 だが、 (弥五兵衛どのは、承知するであろうか?) 草の者どうしの誓約を破ることになれば、弥五兵衛が怒るのも 当然といってよい。 どのようにして、 (弥五どのを説き伏せたらよいものか・・・?) こうしたときの奥村弥五兵衛の行動の凄まじさを、お江は、 よくわきまえている。 亡き壷谷又五郎がもっていた柔軟さが奥村弥五兵衛には不足している ところがあった。 お江は、弥五兵衛を探すために、東海道へでた。 そこで、運よく二人は出会った。 しかし、弥五兵衛の決意は固かった。 淀君によって、大坂城から一歩も外に出されたことのなかった 秀頼であったが、豊臣家を思う加藤清正らの奔走によって、 ついに二条城において家康との対面が実現する。 しかし、立派に成長した秀頼の姿は、あらためて家康に豊臣家 取り潰しの決意を固めさせた。 そして、甲賀忍びに清正毒殺の使命が下る。 東西手切れに向かって情勢が緊迫化する中、その日を見ることなく 真田昌幸は九度山で永眠する。 |