| 堀平五郎手製の将棋の駒は、風変わりなものである。 元和8年(1622年)に、藩祖の真田信幸が、この松代へ転封して来てから、 領内では、とみに囲碁将棋がさかんになった。 平五郎は馬廻りをつとめていて、俸禄は百石。勤務の上では失敗も皆無だが 際立った才能を示すということもない。 その点では平凡で目立たぬ男だが、人づき合いは無類であった。上は藩主から 下は足軽小者に至るまで、悪意敵意というものの一片をも持たれたことがないと 言ってよい。 逆境にある者へは親切をつくし、成功の人へは祝福を投げかける。 よく肥えたむく犬が陽だまりに寝そべっているような・・・そんな感じが する堀平五郎なのだ。 その日も昼飯の時刻というころになって、静かな雪晴れの城下町が騒然となった。 現藩主の真田内記信政が卒倒したのだ。中風であった。 真田信政は、卒倒後三日目の夜に、遺言状を娘の於寿々へ口述し、2月5日に歿した。 城下全体が、次に来るべきものを予測して陰鬱な緊張に包まれた。 「内記め。わしには一言も置いてゆかなんだわい。そういうところがあれの 凡庸なところなのじゃ」 信幸は柴村の隠居所に在って、寵臣・師岡治助にのみ、にがにがしく、 こう洩らした。 堤燈を持って先に立つ中間と若党にはさまれ、平五郎は大手町の道を紺屋町へ出た。 このとき、突然、小路から現れた酔漢が平五郎に突き当った。問屋場の博労らしい。 酒臭かった。 「無礼者!」 平五郎は大喝した。 彼らは、主人平五郎が、博労を小突き廻していたほんの短い間に、主人の手が 懐中から長さ三寸程の竹筒を出し、これを博労の手に握らせたことなどは、 全く思ってもみなかったろう。 その竹筒の中には、何枚もの薄紙に平五郎自筆の細字で認められた密書が 巻き込まれてあった。 密書を受け取った博労は、老中・酒井忠清から、新たに松代へ派遣された隠密である。 平五郎の父・堀主繕も幕府の意を体した酒井家が、真田家へ潜入させた隠密であった。 主膳は、平五郎が24歳の夏に58歳で死去した。 平五郎は、家名俸禄と一緒に、父の秘密の任務をも継承することになった。 主膳は死の床にあって、人払いの後に平五郎を呼び寄せ、 「笑いを絶やすな。どんな人間にも、お前は人柄を好まれるようにしろ。何事にも 出しゃばるなよ。他人の妬みを受けてはならん。どの人間からも胸のうちを打ち明けられる ほどの男になり終せるのだ。よいか・・・よいなあ」 「はい」 「いささかの失敗もしてはならぬ。お前が当家を追われるようなことになったら、 父の苦心も泡沫となる」 鉛色の痩せた腕を伸べ、主膳は平五郎の肩をわなわなと掴み、むしろ威すように、 低く言った。 「平五郎。そういう人間になることは、切なくて、それは淋しいものだぞ。覚悟 しておけいよ」 真田信政が、松代の領主になると、すぐに酒井から指令が来た。右衛門佐の出生に ついて調べよというのである。 信政の死後8日目となり、信政に従って来た沼田派と、信幸の家来であった松代派 との協議がようやく成立した。両派の家老・大熊正左衛門、小山田采女他5名の 重臣が、柴村の隠居所へ報告におもむいた。 信幸は、家老達の決意を聞くと、 「ふむ・・・そこまで、おぬし達は心をまとめ合うたか」 と、一同を見廻し、満足そうにうなずいた。 沼田派といい松代派といい、昔はいずれも、信幸が手塩にかけた家来たちである。 老中へ提出した書状の返事として、酒井忠清の臣・矢島九太夫が松代へ到着したのは、 3月4日である。 矢島九太夫は酒井からの目附けとして伊勢町の御使者屋に逗留し、正式の監視の 役目についた。 九太夫と堀平五郎との間に、連絡がつくようになったことはいうまでもない。 しばらく姿を見せなかった紺屋町の市兵衛が、堀邸を訪れた。市兵衛は5年前から 松代城下へ住みつき、漆塗りを職にしている中年男だ。 二人は駒を並べはじめた。並べながら、市兵衛が何か呟いた。平五郎は、わが耳を 疑った。 「・・・?」 うつむいたまま、もう一度、市兵衛は同じ言葉を呟いた。 市兵衛は何時の間にか、例の蝸牛の矢立てを盤上に突き出して見せ、すっと 仕舞い込んだ。 (あ!!) 突発的な連絡に馴れ切っていた筈の平五郎も、このときは寒気がした。 (5年間も、おれは此奴に見張られていたのか・・・) 口惜しかった。つき上げてくる激怒を押えきれなかった。 平五郎は、酒井の権力というものに、このとき初めて激しい嫌悪をおぼえた。 やがて市兵衛は、矢島九太夫からの指令と一冊の棋譜とを置いて堀邸を辞した。 信幸の居室は、書院傍の階段を上った中二階風のものである。 今朝から珍しく雨が跡絶え、速い雨脚の隙間から薄陽もこぼれてくる午後であった。 信幸が振り向いた。治助は主人の言葉を待ちかまえた。 「どちらにしても、同じことよ。思いきってやるかの・・・やって見るより 仕方がなかろう」 そして信幸は、こんなことをするのは好まぬのだが、と吐き捨てるように、つけ加えた。 堀平五郎に信幸の呼び出しがかかったのは、その翌日である。 「今日、そちを呼んだのはな・・・」 「はい?」 「うむ・・・まあ、よい」 「何事でございましょうか?」 何故か、信幸は、ためらった。 「ま、よい。ともかく久しぶりに相手いたせ」 平五郎は、自分が献上した例の駒と盤を信幸の前に運んだ。夕刻になるまでに 三局ほど戦った。 妻子への引出物まで貰い、さて平五郎が退出しようというときになって、信幸が、 「待て!!」 思い余った果ての決意をこめて呼び止めた。 「平五郎。そちにやって貰おう」 「は・・・?」 「寄れ!」 「はっ」 「右衛門佐はな・・・実は、ありゃ信政の子ではない。信就の子なのじゃ」 (そうだったのか、やはり・・・しかし何故、おれに、こんな重大事を打ち明けるのだ) 平五郎の頭脳は目まぐるしく回転を始めた。 「右衛門佐を生んだ女は、まだ生きておるのじゃ」 「何と仰せられまする」 「公儀の眼がうるさいので、わしが隠してある。知っているのは、今のところ、 わしと師岡治助。それに、そちだけじゃ」 「は・・・」 「やってくれるか?・・・そちならば誰にも気づかれまい」 「平五郎、命に替えましても・・・」 「おお。やってくれるか」 「はっ」 頼もしく引き受け、平五郎は退出した。 「屋敷へ戻るな。このまま発てよ」 鳥打峠の山裾に沿った小道を大室村のあたりまで来ると、予期したごとく 漆塗り市兵衛が追いついて来た。 「大丈夫ですな?堀殿・・・」 すべてを聞き終わって市兵衛は念を押した。 「おれのすることだ。念には及ばぬ」 秘宝を手渡してしまった後の虚脱を味わいつつ、呻くように平五郎は答えた。 「すぐに矢島様からの指令を受けて戻ります。貴方は、それまで待っていて頂きたい」 「よろしい」 市兵衛は引き返して行った。 降りしきる雨の中に、平五郎は市兵衛の戻るのを待った。 (大殿も、おれにだけは負けたのだ。おれは、あの巨大な城壁を見事打ち破った のだからなあ・・・) 深い満足感の後で、平五郎はやがて、得体の知れぬ寂寥が自分を侵してくるのを知った。 一刻(二時間)ほどして、市兵衛が戻って来た。 「貴方は、この書状を持ち、すぐさま江戸へ発足するようにとのことです」 矢島九太夫から酒井忠清に当てた密書を抱き、堀平五郎は徳坂のあたりから 山越えに鳥居峠へ向かった。 庭の何処かで、蛙が鳴いている。 今日の雨は霧のような雨であった。 「平五郎は、もう江戸に着いたかの?」 室内には、信幸と治助と、もう一人の男が居た。 漆塗りの市兵衛であった。衣服も髪も武士のものだ。今日は、彼のたるんで 脂臭そうな顔も何処か引き締まって見える。 「市兵衛にも、いかい苦労をかけたの。そのほうが親子二代40年に渉って、幕府の 隠密となり終せた苦労、人ごとには思わぬ。手ひどい役目を、わしも言いつけたものじゃ。 許せ、許してくれい」 「何の・・・」 市兵衛の両眼に涙があふれた。 「堀平五郎殿とくらべて、父も私も隠密としての冥加は身にあまるものがござります。 私は、大殿の御役にたつことが叶いました」 「いや。わしは、そのほうや、そのほうの父の一生を台無しにしてしもうた」 「何を・・・勿体ない・・・」 信幸は、少し開けてあった窓を閉めよと治助に命じてから、しみじみと、 「平五郎もあわれなやつじゃ。このまま何の騒ぎも起こらなんだら、あやつも真田の 家来として一生を終えたろうにの。わしは、すべてを平五郎の前にさらけ出してやった。 わしの治政を、わしの裸の姿を、平五郎から酒井の耳に入れ、真田には隠密の必要なき ことを、酒井に知らしめてやりたいと思うたからじゃ」 市兵衛が膝をすすめた。 「大殿は、平五郎の素性を何時から御存知でございましたか?」 「そのほうが知らせてくれた十年も前からじゃ」 と、信幸は薄笑いした。 「あのように、来る日も来る日も、にこやかな笑いを絶やさぬ男というものは、 わしの眼から見れば油断がならぬ男であった・・・わしはの、市兵衛。血みどろの 権謀術数の海を泳ぎ抜いて、しかも生き残った大名じゃからの」 治助は思いきって、信幸に尋ねた。 「うまく事が運びましょうか?」 「まず大丈夫じゃ」 「治助。良き治政とは、名君があり、そして名臣がなくては成りたたぬものなのじゃ。 そのどちらかが欠けても駄目なものよ」 信幸は自分の死後に、こうした君臣を生むべき土壌をつくることが、お前の役目だと 語り、将来にどんな困難が真田家を襲おうとも、土壌にさせ肥料が絶えねば必ず 切り抜けることができよう、と結んだ。 江戸も雨であった。 暗い光線を背に、平五郎の一間ほど前へ坐った酒井忠清は、このとき35歳。 好みの偏った、権勢への欲望烈しい性格であった。 平五郎は、蝸牛の矢立てと一緒に、矢島九太夫からの密書を差し出した。 「右衛門佐出生の事実でござります」 「何!」 酒井の顔が変わった。 眼を輝かせ、密書をひろげにかかる酒井の手は、ぶるぶると歓喜に震えている。 その震え方が露骨であった。平五郎は眉をひそめた。 初めて見る酒井に、平五郎は厭気がさした。信幸の巨木のように根の坐った 風格が、今はなつかしかった。 (こんな奴の、おれは飼犬だったのか!) 平五郎はうつむいた。 書状を繰りひろげる音が中断した。 信幸は酒井に、こう言っている。 親子二代の隠密・堀平五郎を御手許にお返しする。平五郎を始めとして御手配の 密偵、城下に惷動することしきりなるため、まことに煩わしく、此際、密偵の いずれにも城下を去って貰いたく考え、平五郎を先ずお返し申し上げた。 右衛門佐出生につき平五郎に踊って貰ったのもその為である。矢島九太夫からの 酒井候へあてた密書は確かに自分が預かっている。この密書を自分がどう処置するか、 それは、そちらの出方ひとつで決まることだ。 なお、右衛門佐出生のことは、当方では何時何処でなりと、確乎たる証人証拠を 揃えて御不審に応じよう・・・というものであった。 「ま、敗けた!」 顔面蒼白となり、思わず平五郎は口走った。 畳に突伏した平五郎の両肩が、がくがくと、不安定に揺れ動き出した。 雨が繁吹くように茶室の屋根や軒を叩いてきた。 庭に面した障子が、するりと開き、刺客の刃が白く光った。 |