| 松代藩の当主・真田伊豆守信安は、藩祖信幸が此地を領して以来、
五代目の藩主にあたり、その治政はこの年で13年ほどになる。 この間、ことに2年ほど前から、百姓、町人たちへも無理な年貢、 租税を強制し、藩士たちの給与も、どしどし減給の処置がとられ、 苛酷な政令によってしぼり取られた金や米が、奇怪な濫費や収賄、 贈賄の根源になってきている。 恩田民親は、この日、家老月番の最後の日のつとめを終って屋敷へ 帰り、着替えの世話をしていた妻女のみつをとらえ、 「どれどれ。ふむ、大層たまっておるではないか」 と、ひょろ長い躰を窮屈そうに屈めて、みつの耳掃除をはじめたところ だった。 庭の竹林や、落葉の上に、雨の音が冷たくしずかにこもっている。 あっという間にすぎ去った夏の陽射しが、昨日の夢のようにおもわれる ほど、長い信濃の冬が、もう目の前に駆けよってきていた。 雨の中を殿町へ向かう足軽の群れを見かけた、みつの実弟に当たる 望月主米が急いで裏道を駆けぬけ、恩田邸へ知らせに来た。 間もなく、庭の向こうの長土塀の彼方から、泥濘を踏んで近づく大勢の 足音が重苦しくひびいて来た。 足軽たちの要求は、従来とどこおっていた俸給を、一年分だけでもよいから 即時に支給されたいというものだった。 木工は、まず、殿様も出府されてお留守のことだし、今日は引きとって もらいたい。一同の気持ちは、よく聞きとどけた・・・と、ごく平凡な 慰撫をあたえた。 千曲川に治水工事がおこなわれたのは木工が27歳、原八郎五郎は34歳で、 まだ二百石の御側御納戸見習役を勤めていた寛保3年(1743年)のことだ。 その前の年の寛保2年は春から気候が不順で、梅雨から夏にかけて2ヶ月余も 照りつづけ、ようやく7月28日から降り出した雨はやむことなく猛然と 降りつづけ、30日の夕刻、城のすぐ下を流れていた千曲川は恐ろしい唸り声 をあげはじめた。 原は、 「千曲川の、川筋を、いまこそ変え、治水をおこなって永久に水難をまぬがれるべき かと考えます」 と、信安に進言した。 「もっともだな、それは・・・うむ。よし、そのほう、普請奉行をいたせ」 当時、信安は29歳であり、江戸の藩邸にいる正室の生んだ照姫、国許にいる 側室お元の方の生んだ豊松、満姫の三児の父親になっていたが、少年のころから 父信弘の一方的な倹約生活を強いられ、家督を得てからも藩治の一切は老臣たちの 手に握られていて、政事にも世情にも疎い。 そして信安が、ことごとに干渉してくる老臣たちをはね返してやりたい思いに、 うずうずしていたのは、何処の大名の家でも新しい藩主が味わう苦悩と同じものだった。 この老臣たちの圧力を・・・信安は、自分が子供の頃から遊び相手として 御殿にも上り、長じて後も絶えず父信弘の厳しい眼が光る毎日の鬱憤を慰めて くれた原八郎五郎を楯にして押し退け、自分の掌中に十万石の実体をつかみ 取ることが激しい願望だった。 原も、万事控え目な言動の底に、信安への同情と老臣たちへの反感を燃えたたせながら、 機会を待って、耐えていたのである。そこにはまた、信安を補佐して出世への道を 切りひらいてゆく自分への、ふくらむような期待があった。 千曲川治水工事は、翌、寛保3年の秋から2年かかって完成した。 幕府は松代藩の申請をいれて、一万五千両を五ヵ年賦で貸してくれた。 木工は、原をたすけて領内の施設が、治水工事を円滑に運ぶように努力したし、 暇があれば現場へ出かけて、河原で働く人夫や百姓たちにまじり、彼らの労働に 接し、明るく声をかけて語り合ったり、原と一緒に川筋にそって馬を駆け、工事に ついての説明を聞いたりするのが、たのしかった。 原もまた懸命に働いた。 「原、おれはな、おぬしが大道を踏み外さず御奉公をつとめるかぎり、おぬしの味方だ。 力をあわせてこれからもやって行きたいな」 原の双眸が、じわりとうるみかかってきた。 「その、お言葉を、原は決して忘れません」 信安の、いままで鬱積していた享楽への欲望が、はばかることなもない激しさで ながれ出してきた。 信安の放縦は、お元の方の死によって、拍車をかけられた。 しかし信安の濫費には、たちまち領民への圧迫が始まった。 信安は、花の丸御殿の庭園にある茶室で、木工を待っていた。 茶室の座敷で、信安は茶道の大沢晏全に茶を点てさせていた。 「豊松も12歳になった。学問の方はそのほうのすすめで、玉井郁之進がついておるが、 そろそろ武道も習得させたいと思う。」 信安にしてはめずらしく父親としての愛情があふれた言葉であり、 「望月主米は、そのほうの義弟に当たるわけだが、どうであろう、豊松の相手として・・・」 「主米なれば、私は・・・」 「異存はないか?」 「はい」 「よし。では、そう決めよう」 満足そうにうなずき、信安は、 「近頃は、小隼人の方へばかり、大勢詰めかけるようだが、これはどういうわけか?」 突然だったし、それに信安の声は苛立たしいものに変ってきている。 眼を上げると、信安の、こめかみのあたりが細かく震えているのだった。小隼人と いうのは原の前名である。 「松代では小隼人が藩主か、わしが藩主か。小隼人は近頃、図に・・・図にあがって おるのではないか」 とうとう、この時が来たらしい。 木工は、ちらとお登喜の方を見やった。 「木工。原について何か申すことがあれば、申せ」 信安が膝を乗り出していった。 信安と二人きりなら・・・と、木工は、以乃の遺書のことを、ちらっとおもい 浮かべながら、黙っていた。 降るような蝉時雨の中で、信安も木工も、お登喜の方もみんなおもいおもいの感情に 耐えている。 お登喜の方は去年の7月に、江戸から帰国した信安が連れ帰った女で、江戸詰めの 侍臣・小松一学の養女という名目だが、実は新吉原江戸町の玉屋という店で 桜木と名乗っていた遊女である。 このときは、例によって信安に呼ばれ江戸にいた原八郎五郎も、信安の帰国に 先立ち、江戸から女を連れて帰り、信安の帰国を待って正式に自分の妻にしている。 これもやはり、玉屋の浜川という遊女だ。 松代にいて、こんなことを木工が知っているのは、江戸留守居役の駒井理右衛門が、 そっと手紙で知らせて来るのである。 一年余も沈黙に耐えていた足軽たちが、ついに、たまりかねて起ちあがったのは、 翌年の寛延4年正月元旦のことだった。 元旦は藩主への祝儀のため、側向きの家臣たちは辰の刻(午前8時)に登城 するのだが、この朝、足軽一同は残らず結束して出勤しなかった。 木工は騒動の実情を手紙に書き、山口正平に持たせ城下の南から山越しに 地蔵峠を抜けさせて、江戸の駒井理右衛門へ走らせた。 この騒動が幕府へ洩れたときの、幕府の意向にそなえるためには、一刻も 早いほうが駒井も外交官として活躍しやすい。 1月13日。 五十石以下の下仕へは約半ヵ月分の給与を支給し、後は追々滞り分を返済 するむねを伝え、小頭の75名を拘留した。 木工は、これを聞いて、すぐさま藩主の菩提寺として威厳を持つ長国寺へはたらきかけ、 足軽釈放の運動を側面から起して、2月7日の朝、足軽一同は罪をのがれ、従来の 持場へ復帰させることができた。 大沢晏全が、木工を訪ねて、お登喜の方が懐妊しているらしいと告げたのは、 もう秋風が吹きはじめろころだった。 木工は晏全に口止めして、少しも躊躇せず、すぐ手紙をそえて以乃の遺書を 江戸の駒井へ送った。 お登喜の方から生まれる子は女か男か、それは知らぬが、もし男だった場合、 豊松との間に家督が争われ、これに原が介入してくる怖れがないとは言えない。 お登喜の方は、原との密通など気振りにも見せていない。 信安の健康がやや快復するのを待ち、おもいきって駒井は木工の手紙と以乃の遺書を 見せたが、信安は、たちまちに顔の色を変え「原を斬れ」と叫んだという。 信安の死後、豊松は、伊豆守に任ぜられ、幸弘と名乗ることになり、これで 名実ともに藩主となって、翌年には松代へ入封して藩治にたずさわることになった。 幸弘は、16歳になっている。 年が明けて宝暦5年の2月18日、江戸からの使者があり、家老はじめ 重臣一同は月番の者一人ずつを残して急ぎ出府すべし、という幸弘の命を つたえてきた。 不安と動揺と昂奮を押えながら大書院に入って行く重臣たちの後ろから木工が 入りかけると、襖際に坐っていた望月主米がにやりと笑った。 上座には幸弘を中心に4人の親類が坐り、幸弘は黒の礼服をつけて端然としており、 色白の頬を昂奮に染めているようだ。 一同が平伏すると、幸弘は右隣の柳生俊峯に会釈し、俊峯はうなずいた。 「恩田木工民親に、勝手掛申しつくる」 木工の胃部が、撲りつけられたように痛んだ。 (大熊ではなかった。この、おれに・・・困った。これは困った) 木工は、先刻の主米の笑いの意味が、ようやくわかった。 幸弘は、万感の信頼をこめて木工の返事を待っている。 「御役目を勤めるにつきましては、私の申すことを何事によらず反対なされましては、 充分に、相勤まりませぬ」 きっぱりと言って、木工は、自分がおこなう政事についてはいっさい異議を 申し立てないという老臣はじめ重役一同の誓約がほしい、自分もまた汚職や 不忠のことがあった場合、どんな刑罰を受けても恨まないという誓詞を、それぞれ この席上において取りかわしたい。、と、恐れ気もなく一気にいってのけたのは、 後になってみて自分でも呆れるほどの気迫に満ちたものだった。 原八郎五郎が罪をゆるされ、20人扶持をあたえられて城外を20町ほど はなれた清野村の民家へ隠居ということになったのは宝暦7年の3月である。 この年の初夏の或る日。 恩田木工は家老職見習として傍に置いている望月主米をつれて、城下から 一里ほど西にある岩野というところへ、前々から開拓を命じてある千曲川に 沿った荒地の状況を見に出かけた。 「もう清野村だな、どうだ。主米。原八郎五郎を訪ねてみようか?」 「太夫さえよろしければ・・・」 「そうか・・・もう5年も会わぬ。懐かしいのだ。ちかごろは、しきりと 原が懐かしいのだ」 街道を妻女山の山裾が南へ屈曲した、その奥の山村の一隅に、藁葺きの 民家を改造した原八郎五郎の閑居があった。 原は妻女と並び、きちんと一礼して、 「このたびのご配慮については、われら夫婦、ありがたく御礼申し上げる。 殿様にも、よしなにおつたえねがいとうござる」 「いや。それよりも、何か御不自由なことはないか?」 「何一つありませぬ。ただ、ありがたく日を送るのみ」 原は茶を点じ、妻女は台所で蕎麦を打ちにかかった。 原はしんみりと、 「私は先殿様の御寵愛になれ、先殿様を、もったいないことだが、まるで幼友達 のように知らず知らずおもいこんでしもうたのが、失敗の元でござった」 茶を喫み、妻女がもてなしの蕎麦をよばれて雑談をたのしみ、木工が晴れ晴れと 原の家を辞したのは、もう夕暮れ近いころだった。 原は朴の木の下に立ち、街道へ下りて行く木工と主米を、いつまでも見送っていた。 二人が城下へ戻り、紺屋町の通りから殿町へ入り、城の濠端へ出ると、大手門の 上の櫓から、時の太鼓が鳴りはじめた。 「おれ達の一生が、おれ達の後につづく人々の一生を幸福にもするし、不幸にもする。 主米、はたらこうな」 濠の水に余韻を引いて太鼓の音が熄んだ。 西の空には、まだ残照があったが、静まり返った濠端の道を包んだ濃い夕闇の 中に、騎馬の二人の姿が溶け込んでいった。 |