忍びの女

忍びの女



<<上>>
福島正則は、いま、清洲城内・本丸の(御主殿)とよばれる居館の、 わが寝所にいて、亥の上刻を待ち焦がれている。
なにしろ、於まさの方の、するどい眼をのがれ、侍女のおすめと密会をするのだ。
顔は美しいが、武芸に鍛えぬかれた於まさの方の肉体は、筋骨がひきしまっている。
それはそれで、(また、よいのじゃが・・・)と、正則は、ふっくらと処女の 凝脂のみなぎりわたったおすめのくびすじや、すれちがうたびに鼻腔を擽ぐる おすめの、杏の実のような甘酸っぱい体臭をおもいうかべ、
「ふむ、ふむ・・・」
ひとりで、しきりにうなずきつつ、何度も髭を撫した。
二十四万石の太守ともあろう身で、側妾ひとり、自由にならぬくやしさもある。
「殿・・・殿、作兵衛にござりまする」
寝所の外の小廊下で、大辻作兵衛の声がした。
「おう・・・」
福島正則が、はね起きて、
「おすめが、塩部屋に待っておると申すのじゃな」
「ははっ」
それから間もなく、正則は、塩部屋の戸を引き開け、中へ入っていた。
(若い女の肌身にふれるのは、まことに、久しぶりのことじゃ)
「これ・・・これよ。おすめ・・・」
夜具をはねのけ、中に埋まっていた女の体を、ちからいっぱい抱きしめた。
女は、寝衣を身につけている。
これを引き剥ごうとしたとき、女が、くるりと身を転じ、正則を見上げ、
「殿!」
凄まじい声で呼びかけてきたではないか。
(あっ・・・)
おすめのかわりに、於まさの方が夜具へ入っていたのである。
産み月をひかえた於まさの方の、大きくふくらんだ腹の前で、福島正則は、 厳しく戒められた。
約束の時刻がせまるにつれ、おすめは居ても立ってもいられなくなり、惑乱の あまり、
「も、申しあげまする」
と、於まさの方の寝所へ行き、すべてを白状してしまったのである。

その翌朝・・・。
福島左衛門大夫正則は、まだ暁闇が消えぬうちに、たまりかねたかのごとく、 愛馬に飛び乗り、清洲の城を出た。共も従えぬ、ただ一騎であった。
これは、ほとんど毎朝のならわしであるから、家来たちも意に介さぬ。
「ええい、歯がゆいことじゃ。おのれ、まだるげな!!」
だれとも知れぬ相手に罵声を発し、正則は馬を走らせる。
正則の愛馬は栗毛で、名を[文虎]という。
文虎が川の水を、うまそうにのむのをながめていた正則が、川の対岸の木立を 何気なく見やって、
「や・・・?」
おもわず、息をのんだ。
はれかかる朝靄の幕をぬって4人の男が、1人の女を担ぎあげて、木立の中へ 駆けこんだのを、正則は見た。
(ただごとではない)
女は、草の上へ仰向けに倒れたまま、気をうしなっていた。
「女、女・・・しっかりいたせ。しっかりいたせよ、これ・・・」
年のころは、26、7歳に見えた。

於まさの方は微笑んでいる。
「殿。正之どのの居館へ、新しき女が一人、入りましたそうな」
(ばかめが・・・何故、小たまは城中へ入りたがったのか・・・)それが残念でならぬ。
(いかぬ。まったく、いかぬ。困った。まさに、困った・・・)
こうした夜が、それから3日もつづいた。3日目の夜ふけである。とろとろと、 ねむりに入った福島正則が、はっと目ざめた。
「殿さま・・・」
かすれた女の声が、
「小たまでございます」
「まことか・・」
「あい・・・」
ふわりと、闇がゆれうごいた。
「愛いやつ、愛いやつ・・・」 福島正則は、もう何も彼も忘れていた。それは、まことに甘美な夜であった。
正則は、ちからのかぎり小たまを愛撫し、いつの間にかまどろみ、小たまが寝所から 出て行ったのも気づかなかった。
甲賀・伴忍びとしての小たまの役目は、福島正則を篭絡すると同時に、福島家の内情を 事あるたびに探り取って、これを頭領・伴長信へ送りとどけることだ。
むろん、その重い役目を小たまは忘れたわけではない。
ないのだが、福島正則と会うこと、正則に抱きしめられ、そのときは童児のごとく 無邪気な男になってしまう正則を愛撫してやることは、小たまにとって、
(たのしいこと・・・)に、なってきている。恋の相手としてではない。性愛の歓喜だけのもの でもない。
小たまは、尾張・清洲二十四万石の大名としての正則ではなく、ひげを生やした 39歳の素裸の正則の、人柄を好もしくおもうようになっていたのである。

(可愛ゆい殿じゃこと・・・)
と、小たまはおもっている。同時に、(このような殿が、これからの乱世を、 うまく切りぬけて行けようか・・・?)と、おもう。
徳川家康が現在、わがふところへ引き寄せようとしている大名の中でも、(この 殿なぞは・・・)もっとも、だまされやすいのではないか、と、小たまは 考えるのだ。
もっとも、(そのほうが、この殿のためには、かえって、よいことじゃ)と、 いえぬこともない。
これから、天下が、どのようにうごいて行くかは、はかり知れぬことだけれども、 徳川家康が甲賀の頭領たちに命じていることは、故豊臣秀吉恩顧の大名たちの 動静を、事こまかに探り取れ、ということである。
そうして、あつめられたデータによって、家康が、(何かをもくろんでいる・・・) ことは事実であった。
それはつまり、家康が秀吉に代わって、
「天下人・・・」
の坐をねらっていることに、ほかならない。ゆえに、もし徳川家康が、首尾よく 天下をわがものとしたあかつきには、家康の味方になっているかぎり、(殿も、 悪しゅうはなるまい)と、小たまはおもうのである。
しかし、いまの福島正則は、あくまでも徳川家康が、
「豊臣家の大老として・・・」秀吉の遺子・秀頼の代行として天下をおさめる立場をまもっていると、信じて うたがわぬ。
だから、もし、徳川家康が、そうした仮面をかなぐり捨てて、
「われこそ天下人である」と、声明を発したとしたら、正則は、どのように おどろくことか・・・。
石田三成を討つために、あれほど奔命した正則の情熱は、かたちを変えて、 家康への怒りに燃えさかるやも知れぬ。

小たまから見ると、(なんで、このような大名を探らぬばならないのか。わざわざ、 忍びの者をさし向けるまでもあるまいに・・・)と、はじめのうちは、不満であった。
しかし・・・。
徳川家康しにて見れば、加藤清正や福島正則は、亡き豊臣秀吉子飼いの 大名であり、戦力の点からいって、これを味方につけるか、敵にまわすかによって、 非常なちがいを生じることになる。
それが、このごろの小たまにとっては、ようやくに、(のみこめてきた)ところなのである。
小たまが繰りとった収穫について、伴長信が大いによろこんでいるということは、 とりも直さず、それは徳川家康や本多正信にとっても、「同様のよろこび」が、あったのだ とおもってもよい。
おそらく、家康や正信には、小たまが送ってよこした情報をもとに、(いざというときの・・・) 福島正則へ対する策謀が練りあげられているにちがいない。
小たまは、福島正則の身辺を探った結果、甲賀の頭領・伴長信へ当てての報告の中で、
「・・・正則は、何事につけても清正を信頼し、たよっている。これからのことは 何事にも、清正しだいで正則は動向を決するにちがいない」
と、いい送っておいた。
その、小たまの報告は、すでに徳川家康の耳へ、とどけられている。

「会津攻めの先陣を、つとめていただきたいが、いかがであろう」
家康は、いきなり、正則へ切り出して来た。
家康の老顔から、熱気が、ほとばしっているようにおもわれた。小肥りのからだはが、 二倍にも三倍にも大きく見えた。
白いものがまじった眉毛の下の、大きな両眼が光を放って福島正則を直視し、 その、するどい語気には、「有無をいわせぬもの・・・」があった。
「承知つかまつった」
家康の気迫へ、引きこまれたように、正則は応諾をしていたのである。
正則も、いま、ひとつだけ、気にかかっていることがある。
家康の前へ出て、圧倒され、一もニもなく先陣のことを引きうけてしまったが、 その前に、いまは肥後・熊本の居城にいる加藤主計頭清正の、はっきりとした意見を ききたかった。
戦場のこと以外には、何につけても安気で、人の善い福島正則なのだが、さすがに、 今度の出陣については、
(そうなれば、わしは、はっきりと徳川の旗の下に加わることになる。そして・・・) そして、反徳川方の勢力と戦うことになる。
もし、敵方に、加藤清正が与することになったら、(それは困る・・・)のだ。
「そうだ!!」
ついに、正則は、
(こたびの戦は、三河守殿が、亡き太閤殿下に代って、上杉景勝を討たんがための ものなのだ。わしも、太閤殿下に代って戦うのじゃ。殿下も、あの世で、よろこんで下されよう)
自分で自分を、なっとくさせることを得たのである。
そうなると、もう、(出陣の日が、待ち遠しくてならぬ・・・)ことになってきた。
いまは、徳川家康からの出陣命令がとどくのを待つのみである。
<<下>>
「のう・・・才兵衛どの・・・」
よびかけた小たまが、革足袋にするなめし革を裁断していた手をとめ、
「たいくつじゃなあ・・・」
と、いった。ふかいためいきを吐いたような声であった。
「ふ、ふふ・・・」
店先で、足袋を縫っていた松尾才兵衛が笑った。しかし、縫う手をとめようと はせぬ。
「これ、才兵衛どの。たいくつじゃというているのに・・・」
小たまが、拗ねるようにいう。
才兵衛と小たまが、[御足袋師]の看板を軒下に吊るし、またしても親娘になり すまして暮らしているこの家は、京の四条室町にある。
関ヶ原戦争が終って八年後の、初秋が来ていた。あれから八年がすぎたのだから、 小たまは、すでに30をこえているはずであった。しかし、小たまも才兵衛も 八年前と、
「すこしも変わっていない・・・」ように見える。
松尾才兵衛は、以前のような骨と皮ばかりに痩せているが、身が軽いことは到底、 70の老人ともおもえぬ。

五年前の慶長八年。徳川家康は勅命によって征夷大将軍に補任し、日本の天下を おさめるための[江戸幕府]をきずいた。
徳川初代将軍となったとき、家康は62歳であった。
徳川家康が、将軍位についていたのは、わずか2年である。「わしの目がくろい うちに・・・」
家康は息・秀忠を二代将軍の座につけ、みずからは[大御所]と称して秀忠を 指導しつつ、秀忠をめぐる徳川政権の組織を「ゆるぎないものに、しておかね ばならぬ」と、考えたのだ。
そのためには、まだ、いくつかの重大な懸案を、
「わしの手で、片付けねばならぬ」
家康は、おもいきわめていた。
いま、小たまと松尾才兵衛が、京の町に足袋師の親娘として住み暮らしている のも、そのためでなのである。
小たまと才兵衛は、戸を閉めた家の中で、仲よく酒をくみかわしていた。
肴は干魚を焙ったものに、焼味噌である。すこし、酒に酔ってきたとき、 小たまがふと遠いものでも見るような目差しになって、
「はて・・・どうしておられるやら・・・」
と、つぶやいた。
「何がで?」
「福島左衛門大夫の殿さまのことじゃ、才兵衛どの。いまごろは、どうして いやることか・・・」
才兵衛が、可笑しげに笑い出した。
「お前さまは、あの荒大名が、さほどに忘れられませぬかな?」
「そうよなあ・・・」
と、小たまが、眼を細めて、
「甲賀の女忍びとして、十何年もはたらきつづけているうち、わが腕に抱いた 男の肌は数知れぬが・・・」

福島正則は、いま、徳川家康から安芸一国と備後の内を合せて49万8千石を あたえられ、安芸・広島の城主となっている。尾張・清洲の城主だったときは、 24万石である。
だから二倍の大身となったわけだ。それというのも、関ヶ原における正則の 活躍が、家康に高く評価されたからであろう。
正則は年ごとに、自分の気力がおとろえて行くのを知った。

伯耆守正之の寝顔を、天井裏の穴から、小たまは長い間見まもっていたが、そのうち に半身を起し、用意の忍び道具を取り出した。
と・・・。
竹筒から、何やら赤茶けた粉末がはらはらと正之の顔へ落ちかかってきた。
正之の鼾がやんだ。
格天井の板が一枚、するりと内側から外されたのは、このときであった。
そこから、ひらりと黒い忍び装束の小たまが寝所へ舞い下りて来た。
正之は、苦しげな寝息をたててねむりつづけていた。
(何事も、福島家のためとおもわれよ。あなたさまは天下の成り行きを御承知 ではないのじゃ。この上、生きてあっては父御さまにも、御家のためにもなり ますまい)
翌朝・・・。
悲報は、すぐさま広島へとどけられた。
「な、なんと・・・」
福島左衛門大夫は、愕然となった。
「わ、わからぬ・・・わしには、もはや、何も彼もわからぬ」
このとき正則は48歳であったが、10も老けて見えたという。

江戸(徳川)と大坂(豊臣)が手切れとなったとき、福島左衛門大夫正則は、 本国の広島にいなかった。
福島家の江戸屋敷に滞留していたのである。もしやすると、徳川家康は、 あらかじめ、
「江戸へまいられよ」
と、正則を呼びつけておいたかも知れぬ。
正則は、双方の紛争が起こったときも、「病気中」と称し、豊臣家のために 弁護を買って出るようなことをしなかった。小たまは、これを知って、(福島 の殿も、すっかり、老いて、おとろえてしまわれた・・・)そうおもったようだ。
ところで・・・。大坂落城の後、京の四条室町にある足袋師の家から、忽然と して、小たまが消えた。
徳川家康が死んだのち、福島正則は、数年ぶりに広島へ帰国することをゆるされた。
帰国して間もなく、広島に大洪水があり、城の三の丸まで水に浸されてしまった。
城の修築の大半を終え、翌元和5年の3月に、江戸屋敷へ到着するや否や、幕府の 上使がやって来て、
「公儀へ無届のまま、城の修築をするとは何事であるか」
きびしく、とがめてきた。
幕府は、福島左衛門大夫正則はに対して、「安芸・備後二ヵ国、49万8千2百余石を 没収し、信濃の国の内の4万5千石をあたえる」
と、処断を下した。なんと45万余石を、幕府は正則の手から、「削り奪ってしまった・・・」 のである。これが元和5年の6月であった。
そして、正則は帰国をゆるされぬままに、江戸屋敷から信濃・高井郡高井野村へ、
「引き移れ」と、命じられた。
大辻作兵衛に、正則は、こういった。
「関ヶ原の折に、わしは大御所(家康)の首を討ち取っておくべきであった・・・」
それは、60に近くなった正則の戯言にすぎない。あのとき一度でも、そうおもったことは ないはずだ。むしろ欣然として、正則は家康のために戦ったのではなかったか・・・。

寛永元年(西暦1624年)の正月十日、信濃・高井野の居館に、わびしく暮らしていた 福島左衛門大夫正則が発病した。はじめは全身の疼痛を訴え、すこしずつ、食欲を 失っていったのである。
梅雨に入った。正則は終日、うつらうつらと臥所に横たわっている。わずかに、 盃の酒を一口、二口とのむのが日課になってしまい、これだけは、たのしみにしているようで、
「この年になって、はじめて酒の味わいがわかったようなおもいがする。むかしむかし より、あれほどにのみつづけてきた酒じゃが・・・いま、のむ酒は、格別の味じゃわい」
側につきそっている大辻作兵衛へ聞かせるでもなく、正則がつぶやくようにいうのだ。
その夜ふけに・・・。福島正則は、ふと、目ざめた。めずらしいことではない。
いつもいつも、夜昼となく、朦朧と寝たきりでいるのだから、目ざめたかとおもうと、 また、ねむり、ねむったかとおもうと目ざめているのだ。
(や・・・?)
薬湯の香りがただよっているのに、正則は気づいた。
(妙な・・・)
そのとき、女の匂いが正則の鼻腔へながれこんできた。
「何者じゃ?」
「はい」
女の顔が近づいて来た。
ねむり燈台の灯影に浮かんだ女の顔を、正則はおもい出した。今日の夕暮れに、薬湯を 運んで来た新しい侍女の三津であった。
「殿。久しゅうござりましたなあ・・」
「なに・・・?」
「お忘れになりましたのか?」
「そちは、以前、わしを見たことがあると申すか」
「あい」
「わしも、そちを見たことがある、と・・・?」
「はい」
「はて・・・」
そのとき、きりりと引きしまった細面の、三津の顔に微笑がうかんだ。
「殿・・・もし・・・」
「去ね」
「まあ、つれない殿じゃこと」
「う・・・?」
「この顔も、この声も忘れ果ててしまわれまいたか」
「知らぬ」
「小たまでござります」
「何と・・・」
正則が、ぱっと半身を起した。くびを曲げるのも、
「物憂い・・・」
といっていた正則が、である。
清洲で、39歳の福島正則が、はじめて小たまに会ってから、25年の歳月がすぎている。

小たまは、正則の肩をしずかに抱いてやった。正則は、いまも尚、充分なふくらみを 見せている小たまの胸のあたりへ、うすくなった白髪の頭をもたせかけ、陶然と 両眼を閉じた。
小たまは、むかしの体の半分ほどに小さくなった正則を抱きささえて、(これが、殿か・・・) 骨と皮だけで、肉置がまるで感じられぬ正則の肩を撫でさすってやりながら、おぼえず、 目の中が熱くなってきた。
うっとりと目を閉じている福島正則の、その両眼からも一すじ、ニすじと、泪が尾を 引いてつたわりはじめた。

小たまが、この高井野の居館へあらわれてから、早くも50日に近い日がすぎていた。
信濃の夏は、盛りをすぎようとしている。その、7月12日の夜ふけであったが・・・。
いったん、ねむりに入った福島正則が、枕元の鈴を振って、次の間にやすんでいる 小たまをよんだ。
「いかがなされまいた?」
「うむ・・・」
「わしは、間もなく。死ぬるぞよ」
と、正則が、つぶやくようにいった。
小たまは沈黙している。
「わしは、しあわせ者じゃ。いま、この期におよび、そちに看とられて死ぬることが できようとは、夢、おもわなんだわい」
そして、しばらく、うとうととしたようである。いつの間にか、夜が明けかかった。
突然、正則が、ぱっと両眼をひらき、
「抱いてくれい」
と、いった。小たまが抱き起こしてやると、
「小たま。別れじゃ」
と、いい、たちまち昏睡状態に入った。
まだ、侍臣たちは、だれも起きていない。病間の外の木立で、山鳩が鳴きはじめた。
小たまは、凝と、正則を抱きしめたままである。死の喘ぎをたかめつつ、福島正則の 唇が、わずかにうごいた。
「せ、関ヶ原・・・」
「殿・・・」
「関ヶ原にて・・・大御所の、首を・・・」
正則のつぶやきは、そこまでで絶えた。
小たまは、福島正則の安らかな死顔をつくづくとながめていたが、やがて、遺体を 臥所へ寝かせ、あたりをととのえ、香をたき、
「殿。さらばでござります」
正則の遺体を伏し拝んでから、寝所の窓を開けた。外は、乳色の朝霧がたちこめている。
山鳩の声が、さびしげであった。
信濃・高井野村の霧の中に、小たまの姿が消えたのは、それから間もなくのことであった。






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