甲賀指令

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甲賀指令



目がさめるような五月晴れの朝である。
五条川のほとりの道を、ひとりの騎馬武者が汗みどろに なって疾駆していた。
田地にはたらく百姓たちは、鎧に身をかためた騎士が 切割旗の指し物を背になびかせつつ、土ほこりをあげて 清洲城下の方向へ駆けて行くのを見送った。
この国の領主で、尾張国・清洲のあるじでもある織田 上総介信長は、いま、美濃の国へ出兵している。

去年の5月19日・・・・。
織田信長は、
「今こそ、信長めをほろぼしてくれる」
と、大軍をひきいて押しよせて来た今川義元を桶狭間に 奇襲し、みごと首を打ちとってしまった。
ときに、信長は27歳。
「まさに、織田は日の出の勢いとなったようじゃ」
だれの目にも、そう映った。
殿様の武勇のすばらしさを知った領民たちは、次いで、 信長の積極的な町づくりにも目をみはったものだ。
むずかしいことをいわず、どしどし他国の者を城下町へ よび入れて商売をさせるし、税金の取りたてもあまりせず、 使役にはたらかせることもしない。
わずか一年で、清洲の町の繁盛ぶりには、瞠目すべきものがある。

いま、城下はずれの五条川のながれから岸辺へ這い上がって 来た女も、この正月ごろから清洲へ住みついたひとりであった。
女は、川で水浴びをしていたものらしい。
小麦色の、水にぬれた若い裸身に朝の陽が光った。
若い女の裸身が、ちらりとその茂みの中へ入るのを見たとき、 武装の騎士は馬の手綱を引きしめた。
女は、茂みの向こうの夏草の上へ寝そべっていた。
物倦げに身をおこし、女が微笑した。
「忠介さま。戦はすみましたのか?」
おどろきもせずに、弓師・政右衛門のむすめ於蝶が問いかけてきた。
「戦は、まだな、すまぬよ」
くみしやすと見てか、忠介は男の欲情をむき出しにして、
「おい・・・」
いきなり、於蝶の腕をつかんだ。
あらあらしく、於蝶の新鮮な果肉のような体臭とに、 忠介は惑乱していた。
うしろから於蝶に抱きつかれた滝山忠介が、うめき声を 放ち、くずれるように倒れ伏した。
草に埋まった忠介の顔の左半分が見え、その血みどろの左眼に、 ふかぶかと突き立つ一本の針のようなものが光っている。
短刀をひろい、気をうしなった忠介へ近寄る於蝶へ、 どこからか声がかかった。
「殺さずともよい。於蝶よ。われらもただちに、清洲から 立ちのくことになったのでな」
しわがれた老人の、つぶやくような声なのである。
弓師・政右衛門は、甲賀忍びの新田小兵衛といい、於蝶は その姪にあたる。
小兵衛がいった。
「さ、急ごうぞ。頭領様が、お待ちかねじゃ」

於蝶は、この年、永禄4年で20歳になる。
「まだまだ一人前ではない」
と、新田小兵衛はいうが、5歳の幼年から忍びの術を 仕込まれて育った於蝶のはたらきは、
「あと10年もすれば、まこと、たのもしき女忍びになろう」
と、頭領の杉谷与右衛門信正がひそかにもらしているほどであった。
小兵衛と於蝶の二人は、一昨年から那古屋近くに住み、 絶えず織田家の動静をうかがっていた。

夜がふけるころ・・・
二人は甲賀へ入った。
「おう・・・居館の灯が見えたぞ」
山峡に細長くひろがる甲南の田地を突切りながら、小兵衛が なつかしげに於蝶へささやいた。
杉谷屋敷の奥深い居館の白壁の前へひざまずき、
「小兵衛、ただいま到着」
と、いった。
すると、眼前の白壁の中から声があった。
「今川との縁は切れた」
と、告げた。
頭領の杉谷与右衛門信正の声であった。
「二人ともに、ようきけい」
と、信正があたたかい親しみをこめ、やさしげに、
「越後へ行ってもらわねばなるまい」
「越後・・・まさか、長尾景虎公のもとへ、ではございますまいな」
「いまや景虎公は関東管領の職に任じ、前管領・上杉家の 家名をおそい、上杉政虎公となられた」
「いかにも・・・さようでござりましたな」
甲賀の頭領・杉谷信正は、小兵衛と於蝶を、この鬼神のごとき 猛将のために、はたらかせようとしているらしい。






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