小谷城

SOUND by MACHI
♪さよならの潮騒♪

小 谷 城



小谷の城は、けわしい二つの峰からなる山城である。
その日・・・。
於蝶は、まだ陽が沈まぬうちに小谷城下へ入って行った。
甲賀の九市が従者である。
於蝶は、上田権内の亡妻の姪で、いままでは山城の国の大住郷に暮らしていたが、 両親が病死をしてしまい、権内に引きとられた・・・ということになっているのである。
「ま、あがりなさい」
権内に案内をされ、二人は、奥の間へ通った。
夕飯がすみ、夜がふけて・・・。
於蝶は、しずかに、自分にあてられた小部屋からぬけ出した。
間もなく、於蝶は上田権内のまくらもとへ、闇の中からにじむように浮いてでた。
「於蝶どのか・・・」
上田権内が半身を起こした。ねむり燭台の淡いひかりの中で、二人は語りはじめる。
権内も、唇のうごきのみで会話をかわず”読唇の術”を心得ているから、二人の 談合には全く音声を必要とせぬ。
「それで、これより、わたくしは?」
「そのことよ」
権内は、うなずき、
「わしのむすめの琴がな、いま、長政公の奥方につきそうて奉公をしておる。 このことは、すでにききおよんでいようが・・・それは大変な気に入られようでな」
「はい、はい」
「そのむすめからはたらきかけ、奥方に申しあげ、おぬしを小谷の城へ御奉公に・・・と、 願うておる。たぶん、うまくゆくにちがいない。ちなみに申しておくが、わがむすめの 琴はな、父のわしが杉谷の隠し忍びであることは全く知らぬ。よいな」
「心得ておりまする」
「さらに、おぬしのことも、亡き妻の姪にあたる女、と、思いこんでおるのじゃ」
「はい」
父子何代も相つたえて任務をつらぬく”隠し忍び”は、妻子にも、その本体を明かさぬ。
敵をあざむくためには、先ず味方をあざむくわけであった。

それから3日目の朝。
浅井長政の居館から、上田権内と於蝶へ呼び出しがかかった。
琴にうながされ、於蝶は夫人の居間へ入った。
「これなるが亡妻の姪にあたります於蝶にござります」
うなずいたお市の方が、
「山城の国から、はるばると・・・寒かったことであろう」
やさしく、ねぎらってくれた。
於蝶は一礼し、面をあげた。
あげて、お市の方を見て、息づまるような緊張に五体が引きしまるのを おぼえずにはいられなかった。
(これが・・・このような女性が、この世に在ったのか・・・)
なのである。
(このお方が、織田信長の妹御なのか・・・)
しばらくは、於蝶も口がきけなかった。
お市の方の美しさは世に知られたもので、むろん、於蝶もこれを耳にしていたが、 これほどまでに完璧の美をそなえている女性とは考えおよばなかったといえよう。
間もなく、於蝶は居館を退出した。
侍女としての奉公は明日からである。

その夜ふけに・・・。
於蝶は、異常なものの気配に目ざめた。
(たれか・・・?)
この部屋の一隅に、たれかがいて、於蝶を見まもっている・・・。
と・・・。
(あ・・・ねずみ・・・)
くびをもたげた於蝶の眼前へ、するすると身を寄せて来た一つの影は ”ねずみのおばば”の伊佐木であった。
伊佐木が、於蝶のみに語ったところによれば・・・。
信長が京都から帰ってのち、岐阜城下では一種の緊迫がみなぎりはじめたそうな。
「戦さ仕度じゃ」
と、伊佐木はいう。
さらに伊佐木は、
「於蝶よ。お前の知りびとが一人、死んだぞえ」
と、告げた。
それは、あの滝川忠介が、すでにこの世に存在してはいないということであった。
甲賀・杉谷の女忍びという本体が判明し、於蝶が岐阜を脱出したのち、滝川忠介も 中村主水も、きびしい詮議をうけた。
中村主水は謹慎を申しつけられたが、
「忠介は、首をはねよ!」
と、信長がいった。
これは忠介が於蝶と、数度、情をかわしていたことがわかったからだ。
単純で粗暴な男ではあったが、こころはやさしかったし、ずいぶんと於蝶の ために骨を折ってくれたものである。
「忠介はな・・・」
と、伊佐木はにやにやと於蝶を見やりつつ、
「首をはねられるときも、そりゃもう悪びれることなく、あの女のために 死ぬるも、これ男の本懐じゃと、申しのこしたそうな・・・うふ、ふ、ふ・・・ よほどに、お前のことを忘れかねていたものと見ゆるわえ」

於蝶が、浅井長政居館へ上がってから4日目の夜になった。
夜ふけ・・・。
一匹のねずみが、於蝶のねむる部屋へ音もなく潜入し、於蝶の夜具へ もぐりこんで来た。
これは、伊佐木が廊下の外へ来ているという知らせなのである。
夫妻の寝所に、燭台の灯がまたたいた。
「あ・・・」
まだ、目ざめていたらしいお市の方が夜具の内で、ひしと夫の身体に 取りすがったようである。
一匹のねずみが、寝所の端から端へ、鳴声をたてつつ横切って行った。
夫妻が、走り去ったねずみに気をとられた転瞬、於蝶と伊佐木は、ひかえの間に ねむる3名の侍女の傍をすりぬけ、板扉を開けて寝所へすべりこんでいたのである。
「これより・・・これより、世の中のうごきは、いかが相なりますのか?」
押えきれぬ憂悶が、ほとばしり出たような、お市の方のささやきであった。
「わからぬ」
と、長政が、
「人の世の行先のことは、いささかもわからぬ。後世の人びとは、去りし むかしを振り返り見て気ままに善し悪しをいいたてるものだが、その、ときどきの 世に生きてあった人びとは、みな無我夢中のことよ」
「はい・・・」
「朝倉家が、往昔からの見栄や誇りを捨て去り、織田殿にちからを合わせる。 このことによって浅井も朝倉も安泰を得ることは、明白なこと。なれど・・・ その明白なことを、だれもがわかってはくれぬ。わしはあきらめぬ。これからも、 くどいほどに越前へ使者を送り、何としても朝倉義景公を説きふせて見せる つもりじゃ」

(信長は、もう我慢はすまいぞえ)
とでも、いいたげな伊佐木のうす笑いを、於蝶は、はっきりと闇の中に見た。






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